第11話「詐欺師たちの憂鬱と、究極の『解約』防衛戦」
帝国グランドホテルでの命懸けの夜会から一夜明けた、土曜日の午後二時。
油汚れで黄ばんだ換気扇がガラガラと断末魔のような音を立てて回る、場末の雑居ビル四階の一室。そこには、数時間前まで三百万の特注タキシードを着こなし、政財界のトップ・オブ・トップと渡り合っていた男の無惨な成れの果てがあった。
「……おい、赤木。胃薬はどこだ。できれば一番強いやつをくれ」
黒瀬巧は、ヨレヨレのグレーのスウェット上下という、詐欺師としての威厳の欠片もない姿でパイプ椅子に深く沈み込み、死んだ魚のような目で虚空を見つめていた。
昨夜の極度の緊張と恐怖、そして東条会長という『本物の怪物』と対峙したことによる凄まじい精神的疲労は、一晩の睡眠程度で回復するものではなかった。胃の腑は今もなおキリキリと痛み、少しでも気を抜くと、東条のあの濁った暗い瞳が脳裏にフラッシュバックして吐き気を催しそうになる。
「胃薬ならそこの二番目の引き出しに入ってる。……だが巧、お前の胃痛なんてまだマシな方だぞ。こっちを見ろ」
向かいのデスクで、いつにも増して酷い、どす黒いクマを目の下に作った赤木健太が、血走った目でマルチモニターの一つを指差した。
そこには、一般のブラウザでは決して辿り着けない、ダークウェブ上に存在する裏社会の人間専用の巨大な情報掲示板が表示されていた。
「今日の朝から、この裏掲示板の『政財界ゴシップスレッド』が異常な勢いで伸び続けてる。話題はたった一つ……『昨夜の帝国グランドホテルで、あの冷酷無比な東条会長を大爆笑させ、親しげに会話をした謎の二人組は一体何者なのか』だ」
「…………ッ」
胃薬を水で流し込もうとしていた黒瀬が、盛大にむせた。
「あの白鳥花澄って令嬢の身元は、親父さんが有名だからすぐに割れた。問題はお前だよ、巧。スレッドの中では『白鳥家が海外から極秘に呼び寄せた、凄腕の元・特殊部隊員』だの『東条会長の隠し子で、裏社会の次期後継者』だの、尾鰭どころか背鰭や胸鰭までついたとんでもない都市伝説が、爆発的な勢いで拡散されてる!」
「ふざけるな! 俺はただの、月額三十万で架空のサブスクを売りつけてるだけの、しがない悪徳詐欺師だぞ!」
黒瀬は頭を抱え、デスクに突っ伏した。
詐欺師にとって「悪目立ちする」ことは、文字通り死を意味する。このまま裏社会の連中やゴシップ記者が面白半分に黒瀬の身元を洗い始めれば、この場末の雑居ビルに辿り着くのは時間の問題だ。そして、もし「あの東条会長に一目置かれた男の正体が、ただのチンピラ詐欺師だった」とバレれば、東条の顔に泥を塗った罪で、間違いなく東京湾の底にコンクリート詰めで沈められる。
「赤木……決断の時だ。このままじゃ俺たちは、三十万の不労所得で特上寿司を食うどころか、命を落とす。あの『ダイヤモンドVIPプラン』を、一刻も早く白鳥花澄に解約させるんだ」
「大賛成だ! 大賛成だが……どうやって? 俺の作った解約ページは、迷路どころか、最終的に物理的に『解約ボタンが存在しない』という極悪仕様になってるんだぞ。俺がサーバーの裏から、データベースを弄って強制解約処理をするか?」
「バカ言え、絶対にダメだ」
黒瀬は即座に首を横に振った。
「強制解約なんてさせたら、あの女のことだ。『大変! システムエラーで決済できなくなっちゃいました! 黒瀬さんたちの会社が倒産しちゃうかも!』と、善意百パーセントで数百万の現金をアタッシュケースに詰めて、このビルに直接駆けつけてきかねない。あるいは、親父の権力を使って、うちのダミー会社ごと買収して助けようとするかもしれん」
「……あり得る。完全にあり得る。あのお嬢様の『善意の暴力』は、すでに俺たちの常識のカンスト(上限)を突破してやがる」
赤木は青ざめた顔でコクリと頷き、ホワイトボードの前に立った。
ここからは、詐欺師二人の並外れた頭脳と経験を総動員した、極悪非道な「顧客を逃がすための作戦会議」である。
「いいか、通常のサブスク詐欺でカモを切り捨てる方法は大きく分けて三つだ。これを白鳥花澄に当てはめてシミュレーションしてみよう」
赤木が赤いマーカーでホワイトボードに文字を書き殴る。
『プランA:音信不通作戦』
「電話を一切無視し、メールもブロックして、物理的に連絡を絶つ。これが一番オーソドックスだ」と赤木が言うと、黒瀬は深いため息をついた。
「三日以内に『黒瀬さんが倒れたのかもしれない!』と、警察に『善意の安否確認』を要請されて、ここにサツの突入部隊がやってくる。確実にうちの架空請求マニュアルが押収されて一発実刑だ。却下」
『プランB:サービス品質の意図的な低下作戦』
「わざとチンピラみたいな粗暴な口調で電話に出たり、深夜に呼び出されても『だるいんで行きませーん』と適当にあしらって、カモの方から愛想を尽かさせる作戦だ。これならどうだ?」
「相手を舐めるな、赤木。あの女なら確実に『黒瀬さん、何か辛いことや嫌なことがあったんですね。私が一晩中お話を聞きますから、一緒に泣きましょう!』と、聖母マリアのようなモードに入って、余計に好感度と依存度が爆上がりするだけだ。逆効果すぎる。却下」
『プランC:他業者への押し付け(トカゲの尻尾切り)作戦』
「『私よりもっと素晴らしいコンシェルジュを紹介します』と言って、別の適当な業者やダミー会社に契約を移行させる。これなら穏便だろ?」
「『黒瀬さん以外の人なんて、絶対に考えられません! 私のコンシェルジュは黒瀬さんだけです!』と、涙ながらに純愛ドラマのような拒絶をされる光景が、手に取るように目に浮かぶ。却下だ」
赤木はマーカーを放り投げ、両手で頭を掻き毟った。
「じゃあどうすりゃいいんだよ! 無視してもダメ、冷たくしてもダメ、他人に押し付けてもダメ! あのお嬢様、完全に『黒瀬巧』っていう人間そのものをサブスクリプションしてやがるじゃないか!」
「……ああ、そうだ。彼女はすでに、俺という存在を『東京における唯一の頼れる味方』として完全にロックオンしている」
黒瀬は昨夜のリムジンの中での、夜景の光を反射した花澄の純粋な瞳を思い出し、無意識のうちに小さく舌打ちをした。あの時、一瞬でも彼女の真っ直ぐな言葉に心が揺らいでしまった自分自身への、強烈な苛立ちと自己嫌悪であった。
「……赤木。彼女は『自分にはもう、黒瀬さんのサポートは必要ない』と、心の底から納得し、満足しなければ、絶対に自発的な解約ボタンは押さない。……つまり、俺たちが取るべき道は、たった一つしかない」
黒瀬の低く静かな声に、赤木がゴクリと生唾を飲み込んだ。
「……なんだよ。どうするってんだ」
「『白鳥花澄を、この東京という恐ろしい大都会に完全に適応させ、一人前の立派な自立した大人の女性に育て上げる』ことだ」
黒瀬は立ち上がり、三白眼を鋭く光らせながら、ホワイトボードのど真ん中に力強く文字を書き込んだ。
「そして、『黒瀬さん、今までありがとうございました。私、もう黒瀬さんのサポートがなくても、一人で立派に生きていけます!』と、満面の笑顔で、彼女自身の口から『卒業(円満解約)』を宣言させる。……これしかない」
「………………………………は?」
赤木の口から、間抜けな声が漏れた。
彼はホワイトボードの文字と、真剣そのものの黒瀬の顔を交互に見比べ、そしてツッコミを入れた。
「……巧。それって……ただの『超優良な教育・自立支援コンサルタント』じゃねえか。月額三十万で、田舎から出てきた純粋な令嬢を立派な大人に育て上げる? どこが悪徳詐欺師のやることだよ! まっ当すぎるどころか、むしろ良心的すぎて赤字だろ!」
「背に腹は代えられない!」
黒瀬はバンッと机を叩いた。
「俺たちの命と自由、そして詐欺師としての平穏な生活を守るための、究極の防衛策だ! 彼女に東京の地下鉄の乗り方を完璧にマスターさせ、一人で高級レストランの予約を取れるようにし、変なハイエナ男を自力で撃退できるだけの判断力を身につけさせる! そうすれば、彼女の俺への依存度は下がり、自然と『月額三十万のサービスはもう必要ないわね』という結論に行き着くはずだ!」
「……マジかよ。極悪非道な詐欺師が、カモを立派に育て上げて自立させるために奔走するのか……」
赤木はもはや笑う気力すらなく、呆然と天井を仰いだ。
「今日から、作戦名『白鳥花澄・完全自立化ミッション』を開始する。赤木、お前は彼女に『一人でもできる東京の楽しみ方』のリストと、安全なルートマップを作成しろ。俺は現場で、彼女を少しずつ手放していくための『冷たくも優しい教官』を演じ切る」
「……わかったよ。お前がそこまで言うなら、付き合ってやる。だがな、巧」
赤木は深い溜息とともに、核心を突く一言を放った。
「あのお嬢様が『一人で生きていける』ようになった時……お前は本当に、未練なくあの子を手放せるのか?」
「当たり前だ」
黒瀬は即答した。一切の感情を排した、冷徹な詐欺師の顔で。
「俺はカモの金を搾り取るだけの悪党だ。用が済めば、笑って縁を切るさ」
そう言い切った黒瀬の声は、なぜか少しだけ、いつもより低く掠れていた。
かくして、東京湾に沈められる危機を回避するため、詐欺師たちによる「月額三十万円の究極の自立支援・解約誘導ミッション」という、前代未聞の奇妙な戦いが幕を開けたのであった。




