第7話「三百万のタキシードと、詐欺師の夜会潜入」
金曜日の午後六時。
普段はカビとエナジードリンクの匂いが漂う場末の雑居ビルの一室が、今夜ばかりは映画に登場するスパイ組織の秘密基地のような、異様な緊張感に包まれていた。
「……おい赤木。襟のラインに少しでもシワはないか。靴の輝きはどうだ。この服装で、少しでも『隙』を見せれば即座に命取りになるぞ」
全身鏡の前に立つ黒瀬巧は、極めて真剣な眼差しで自身の姿を点検していた。
身に纏っているのは、数日前に一流テーラーの結城が特急で仕立て上げた、ミッドナイトブルーの最高級タキシードである。後で赤木に調べさせたところ、使用されている生地は英国最高峰のヴィンテージものであり、仕立て代を含めれば優に三百万は下らないという、詐欺師の人生で一度も袖を通したことのないバケモノ級の代物だった。
「完璧だぜ、巧。マジでどこぞの国の王族か、ハリウッドの凄腕エージェントにしか見えねぇ。その三十万の『詐欺のための筋肉』が、まさかこんなところで三百万のタキシードを完璧に着こなす役に立つとはな」
四台のモニターに囲まれたデスクから振り返った赤木が、呆れたような、しかしどこか頼もしげな声を上げた。
黒瀬は日頃から「いかなる高級スーツも完璧に着こなし、カモに絶対的な信頼を抱かせるため」に、ストイックな筋トレと食事制限を欠かしたことがない。その無駄のない体幹と肩幅が、特注のタキシードのポテンシャルを限界まで引き出していた。
黒瀬は短く息を吐き、右耳の奥に見えないよう極小のインカムを押し込んだ。
「通信チェックだ。感度はどうだ」
『ああ、クリアだ。音声も、お前のタイピンに仕込んだマイクロカメラの映像も、こっちのモニターにバッチリ映ってる。……いいか巧、今日の相手はそこら辺の小金持ちじゃない。日本のGDPを動かしているような政財界のトップ・オブ・トップが集まる、完全招待制のシークレット夜会だ。会場はあの帝国グランドホテル。セキュリティは要人警護レベルだぞ』
「わかっている。俺の顔を知っている企業の役員、あるいは本物の警察関係者、最悪の場合は裏社会の人間がいる可能性すらある。だからこそ、お前のバックアップが命綱だ」
黒瀬の脳裏に、これから挑むミッションの絶望的な難易度が重くのしかかる。
本来なら、こんな危険な場所に悪徳詐欺師が足を踏み入れるなど自殺行為だ。しかし、月額三十万円の『ダイヤモンドVIPプラン』を自動決済されてしまった以上、「できません」と断れば、あの純度百パーセントの天然令嬢・白鳥花澄の善意によって『黒瀬さんが悪の組織に誘拐された!』と警察に通報されかねない。行くも地獄、退くも地獄である。
『ホテルのゲスト管理システムへのバックドアは、昨夜のうちに構築済みだ。花澄お嬢様の同伴者枠に、お前の偽造プロフィールをねじ込んである。肩書きは「白鳥家専属の特任エスコートオフィサー」。これなら、ただの付き人より権限が強く、怪しまれにくい』
「上出来だ。行くぞ。……詐欺師の威信にかけて、最高のエスコートを演じ切ってやる」
黒瀬は漆黒の革靴で床を鳴らし、決死の覚悟で雑居ビルを後にした。
一時間後。
東京の中心にそびえ立つ、歴史と格式を誇る超高級ホテルのメインエントランス。
次々と乗り付けられる黒塗りのハイヤーや高級外車から、煌びやかなドレスや仕立ての良いスーツに身を包んだ男女が降り立っていく。
黒瀬は少し離れた大理石の柱の影で、指定された待ち合わせ時間を待っていた。インカムからは、常に赤木のタイピング音が聞こえている。
『巧、気をつけろ。入り口のセキュリティは予想以上だ。顔認証システムと招待状のQRコードの二重チェックをやってる。お前の偽造データが弾かれたら、その瞬間に屈強な黒服につまみ出されるぞ』
「……了解した。だが、堂々としていればシステムのエラーで押し通せる。それがソーシャルエンジニアリング(人間心理の隙を突くハッキング)の基本だ」
黒瀬が冷や汗を隠して涼しい顔を作っていると、一台の白い最高級リムジンがエントランスに滑り込むように停車した。
ドアマンが恭しく扉を開けた瞬間、周囲の空気が一変した。
「黒瀬さん!」
銀の鈴を転がすような、華やいだ声が夜の空気を震わせた。
振り返った黒瀬は、一瞬だけ呼吸を忘れた。
そこに立っていたのは、夜空の星屑を散りばめたかのような、淡いシャンパンゴールドのイブニングドレスを纏った白鳥花澄だった。
普段のふわふわとした純真な雰囲気はそのままに、一流のメイクアップアーティストと美容師の手によって磨き上げられた彼女の美しさは、圧倒的だった。周囲のセレブリティたちが、思わず足を止めてその姿を振り返るほどである。
しかし彼女自身は、そんな周囲の視線など全く気にも留めず、満面の笑みで黒瀬のもとへ小走りで近づいてきた。
「お待たせいたしました! わぁ……黒瀬さん、そのタキシード、とってもお似合いです! まるで映画の主人公みたいです!」
「……白鳥様こそ、息を呑むほどお美しい。今宵の夜会において、最も輝く星となることでしょう。プレミアム・ライフ・エスコートが、全力でお守りいたします」
黒瀬は詐欺師として何千回と口にしてきた歯の浮くようなお世辞を放ったつもりだったが、今日ばかりはそれが嘘偽りのない本心であることに気づき、微かに舌打ちをした。
花澄は嬉しそうに頬を染め、スッと自然な動作で黒瀬の右腕に己の手を添えた。その純粋な信頼の重みが、タキシード越しに黒瀬の体温をわずかに上げる。
「では、参りましょうか」
黒瀬は完璧なエスコートの所作で、花澄を伴い、レッドカーペットが敷かれたエントランスへと歩みを進めた。
立ちはだかるのは、二人の屈強なセキュリティスタッフと、タブレット端末を持った受付のホテルマンだ。
「いらっしゃいませ。恐れ入りますが、招待状の確認と、お顔の認証をお願いいたします」
花澄がスマートフォンでVIP専用のQRコードを提示し、難なく顔認証をパスする。
問題は黒瀬だ。彼がタブレットのカメラに顔を向けた瞬間、インカムの向こうで赤木が『うおっ!?』と焦った声を上げた。
『ヤバい巧! セキュリティシステムが直前でアップデートされてる! 俺が仕込んだダミーデータと、今の顔認証のハッシュ値がコンマ数秒ズレてる! エラーが出るぞ!』
(なっ……!)
黒瀬の背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走る。
エラー音が鳴れば、即座に不審者として別室へ連行される。どうする。逃げるか? いや、花澄を置いて逃げれば、すべてが終わる。
タブレットの画面に、赤い『ERROR』の文字が表示されそうになった、そのコンマ一秒の隙。
黒瀬は咄嗟に、凄まじい威圧感を伴う三白眼で、受付のホテルマンを「上から見下ろすように」睨みつけた。
「……私のデータが、どうかなさいましたか?」
その声は、深海の底から響くような、圧倒的な自信と冷酷さに満ちていた。
「三百万のタキシード」が放つ異常なまでの気品と、「人を騙し続けてきた詐欺師」特有の相手を呑み込むオーラ。
エラー画面を見たホテルマンが「えっ、あ、システムが……」と狼狽えた瞬間、黒瀬は間髪入れずに言葉を被せた。
「白鳥家の特任エスコートオフィサーの登録データは、一般のゲストとは異なる暗号化プロトコルで処理されているはずですが。ホテルのシステム管理者に、もう一度『クラスS』の暗号鍵で再照合するようお伝えしましょうか? それとも……この場で白鳥様をこれ以上お待たせし、白鳥グループ全体の顔に泥を塗るおつもりですか?」
完全なるハッタリである。
そんな暗号化プロトコルなど存在しない。だが、黒瀬の一切の揺らぎもない態度と、威風堂々たる佇まいが、ホテルマンの判断力を完全に麻痺させた。
『巧、今だ! その隙に俺がシステムを強制リロードして、照合をパスさせる! ……通った!!』
一秒後、タブレットの画面が緑色の『PASS』へと切り替わった。
ホテルマンはホッと安堵の息を吐き、深々と頭を下げた。
「も、申し訳ございません! データの読み込みにタイムラグがございました。白鳥様、黒瀬様、どうぞお通りくださいませ!」
「……ええ。ご苦労様です」
黒瀬は涼しい顔で頷き、背中に滝のような冷や汗を流しながら、セキュリティゲートを突破した。
花澄は「さすが黒瀬さん、顔パスなんですね!」と無邪気に笑っているが、黒瀬は生きた心地がしなかった。
分厚い防音の扉の前に立つ。この先は、日本の権力と金が渦巻く、真の「戦場」だ。
「黒瀬さん、私、黒瀬さんが一緒だから全然緊張していません。今日はよろしくお願いしますね!」
「……お任せください。あなたに降りかかるすべての火の粉は、私が払い落としてご覧に入れましょう」
黒瀬がそう言い切った瞬間、重厚な扉がゆっくりと左右に開かれた。
シャンデリアの眩い光、オーケストラの優雅な生演奏、そして数え切れないほどのVIPたちが放つ圧倒的な熱気が、二人を包み込む。
極悪詐欺師と天然令嬢の、命懸けの夜会潜入ミッションが、いよいよ幕を開けたのであった。




