第6話「三十万円の狂気と、迫り来る一流テーラー」
上野動物園での『ハシビロコウ哲学通訳(完全なるデタラメ)』という地獄のミッションから一夜明けた月曜日の朝。
換気扇がガラガラと断末魔のような音を立てて回る雑居ビルの四階で、黒瀬巧は完全に精気を失い、軋むパイプ椅子に深く沈み込んでいた。
ドン・キホーテで急遽調達したスマートカジュアルなジャケットは、昨日の動物園でゾウの放飼場から飛んできた謎の泥水と、フラミンゴの羽、そして極度の緊張からかいた冷や汗によって、すっかり異臭を放つ布切れと化している。
しかし、そんな黒瀬の疲労困憊ぶりなどお構いなしに、向かいの乱雑なデスクでは赤木健太が両手を高々と突き上げて歓喜の声を上げていた。
「ヒャッハー!! 巧、見ろよこの管理画面! マジで決済通ってるぜ! 白鳥花澄、『ダイヤモンドVIPプラン』月額三十万円! 毎月三十万の完全なる不労所得だ! これで俺たち、毎日特上寿司が食えるぞ!」
「……黙れ。その三十万の裏に、俺がどれほどの肉体的・精神的苦痛を伴っているか、お前は一ミリでも想像したことがあるか」
黒瀬は充血した目で、デスクに置かれた空のエナジードリンクの缶を睨みつけた。
月額三十万円。確かに悪徳サブスクリプションの売上としては破格の数字であり、詐欺師としては大金星である。
しかし、黒瀬の脳裏には、これまでの「深夜のクモ退治(レンタカー代自腹)」「泥まみれのペルシャ猫捕獲作戦(最高級オーダースーツ全損・サーモン代自腹)」「動物園での適当通訳(精神的ダメージ特大)」という、赤字と疲労のオンパレードが走馬灯のように駆け巡っていた。
「そもそも、お前が面白半分で設定した『ダイヤモンドVIPプラン』のサービス内容ってなんだ。ダミーページには何て書いてある?」
「ええっと……『お客様の人生を左右する重大なイベントのプロデュース、および政財界のコネクションを駆使した究極のエスコートを提供いたします』……だな。もちろん、適当に考えた完全なハッタリだ」
赤木がポテトチップスをかじりながら読み上げたその文面に、黒瀬は頭痛を覚えてこめかみを強く揉んだ。
十万円のプランですら、あそこまで規格外の依頼を連発してきた天然令嬢である。三十万円のプランともなれば、次は「中東の石油王とのお見合いをセッティングしてほしい」だの「月へ旅行に行きたい」だの、物理的に不可能なことを言い出しかねない。
「いいか赤木、もし次にあのVIPホットラインが鳴ったら……」
『ジジジジジジッ! ジジジジジジッ!』
黒瀬の言葉を遮るように、机の上のガラケーがけたたましいバイブレーション音を響かせた。
沈黙が落ちる。赤木はポテトチップスを咥えたまま静止し、黒瀬はまるで時限爆弾を見るような目で端末を見つめた。
「……出ろよ、巧。三十万の神様だぞ」
「お前が出ろ。俺は今、アフリカのサバンナに野生動物の視察に行っている設定にしておけ」
「バカ言え、昨日の今日で信じるわけないだろ。いいからさっさと出ろ、また警察に善意の安否確認通報されるぞ!」
「警察」という劇薬ワードに屈し、黒瀬は震える手で通話ボタンを押した。そして、無理やり喉を開き、極上のコンシェルジュの声音を絞り出す。
「……お電話ありがとうございます。プレミアム・ライフ・エスコート、専属コンシェルジュの黒瀬でございます」
『あっ、黒瀬さん! おはようございます! 昨日は本当に、素晴らしい通訳をありがとうございました!』
電話の向こうの白鳥花澄は、相変わらず鈴を転がすような、一点の曇りもない明るい声を響かせた。
黒瀬は胃の腑がキリキリと痛むのを感じながら、慎重に言葉を選ぶ。
「とんでもございません。白鳥様の心が豊かになるお手伝いができたのであれば、コンシェルジュ冥利に尽きます。……本日は、どのようなご用件でしょうか?」
『はい! 実は、さっそくダイヤモンドVIPプランのサービスをお願いしたくて、お電話しました!』
(来た。ついに来たぞ、三十万円の依頼が……!)
黒瀬は身構えた。札束の匂いと同時に、とてつもないトラブルの予感が全身の毛穴から吹き出している。
『実は今週末、都内のホテルで開かれる、政財界の方々が集まる小さな夜会にご招待されているんです。でも私、東京でのそういった場は初めてで……とても不安なんです』
「……夜会、でございますか」
『はい。そこで、東京で一番頼りになる黒瀬さんに、私の公式なエスコート役として同伴していただきたいんです。一流のプロフェッショナルである黒瀬さんが隣にいてくだされば、どんな方とお話ししても安心ですから!』
黒瀬の思考が、ピタリと停止した。
政財界の人間が集う、超高級ホテルの夜会。そこに、得体の知れない悪徳詐欺師が「富豪令嬢の専属エスコート」として堂々と乗り込む?
もしその場に、以前黒瀬が架空投資詐欺でカモにした企業の役員でもいたらどうなる。あるいは、本物の警察関係者や、裏社会と繋がっているような大物がいたら。一発で身元がバレて、東京湾の底に沈められる可能性すらある。
「し、白鳥様。誠に光栄なお誘いではございますが、そのような高貴な場に、私のような一介のサポートスタッフが同伴するのは、かえって白鳥様の品位を損ねる恐れが……」
黒瀬が必死で断り文句を捻り出そうとした、その時だった。
『ご心配には及びません! そのために、私、手配したんです!』
「……手配?」
『はい! 黒瀬さんが夜会で恥ずかしい思いをしないように、私の実家が昔からご贔屓にしている、世界的な超一流テーラーの職人さんを、そちらの「プレミアム・ライフ・エスコート運営本部」へ向かわせました!』
「………………………………は?」
黒瀬の口から、およそ人間とは思えない間の抜けた声が漏れた。
電話の向こうで、花澄は嬉々として爆弾を投下し続ける。
『黒瀬さんの素晴らしいオフィスで、最高級のタキシードの採寸と仕立てを行ってもらうようにお願いしてあります! 職人さんからの連絡によると、あと五分ほどでそちらのオフィスの入り口に到着するとのことでした! では、採寸よろしくお願いいたしますね!』
ツーツー、という無機質な電子音が響き、通話が切れた。
静寂。
いや、静寂ではない。カビの匂いが漂う室内には、油まみれの換気扇の音と、赤木がキーボードを叩く音だけが響いている。
床には散乱したエナジードリンクの空き缶、壁には剥がれかけた安っぽい壁紙。窓枠には謎の黒ずみがあり、部屋の隅にはいつからあるのかわからない段ボールの山が築かれている。そして机の上には『絶対にバレない架空請求マニュアル』という極秘ファイルが堂々と置かれている。
ここは、どう好意的に見ても「場末の詐欺師の隠れ家」であり、月額三十万円のVIPサービスを提供する『一流企業の運営本部』には絶対に見えない。
「おい、巧……今、向かわせたって……」
赤木がポテトチップスを落とし、顔面を蒼白にして振り返った。
「五分後だ」
黒瀬は完全に虚無の表情で、ガラケーを握りつぶさんばかりの力で握りしめた。
「あと五分で、この豚小屋みたいな詐欺の拠点に、超一流のテーラーがやってくる。もしここが詐欺会社だとバレれば、あの女のことだ、『黒瀬さんが悪の組織に監禁されている!』と勘違いして、五分後には特殊部隊を呼ばれるぞ」
「ヤバいヤバいヤバい!! 隠せ! とりあえずこの空き缶の山と、架空請求マニュアルの束を隠せ!!」
三十万円の不労所得を夢見た詐欺師たちの、威信と命と自由を懸けた、絶望的なオフィスの大掃除が幕を開けた。
「お前はゴミをすべて黒いゴミ袋に詰め込んでクローゼットに叩き込め! 俺はマニュアルと裏帳簿を金庫に隠す!」
「壁の剥がれはどうする!? どう見ても一流企業じゃねぇぞここ!」
「……『最新鋭のカモフラージュを施した極秘のデータセンター』と言い張る! 真のVIP対応は、表舞台ではなく泥臭い現場から生まれるという設定だ!」
ドタバタと室内を走り回り、黒瀬はドン・キホーテの泥だらけのジャケットを脱ぎ捨て、かろうじて無事だった予備の白いワイシャツとスラックスに着替えた。赤木はマルチモニターの画面に、ハッカー特有の無駄にスタイリッシュなコードが流れる黒い画面を全画面表示させ、「いかにも高度なAIシステムを運用している風」を装った。
ギリギリで最後のゴミ袋をクローゼットに蹴り込んだ瞬間。
『ピンポーン』
安っぽいインターホンが、無情にも鳴り響いた。
黒瀬と赤木は顔を見合わせ、大きく深呼吸をした。
黒瀬は前髪をかき上げ、一流のコンシェルジュの仮面を完璧に顔に貼り付けると、重い鉄扉を開けた。
「お待ちしておりました。プレミアム・ライフ・エスコートへようこそ」
そこに立っていたのは、仕立ての良すぎるスリーピーススーツを身に纏い、銀髪を撫で付けた、初老の英国紳士のような男だった。手には革製の大きな採寸用鞄を持っている。
男は鋭い鷹のような目で、黒瀬の顔、そしてその後ろに広がる『換気扇の油汚れが目立つ薄暗いオフィス』を舐め回すように見渡した。
「……失礼。私は白鳥家より遣わされました、テーラーの結城と申します。こちらが、白鳥お嬢様が絶賛されるコンシェルジュ、黒瀬様のオフィスで……お間違いないでしょうか?」
結城の言葉の端々には、明らかな疑念と警戒の色が滲んでいた。無理もない。どう見てもここは詐欺師の隠れ家である。
しかし、ここで怯めばすべてが終わる。黒瀬は微塵も動揺を見せず、優雅に微笑み返した。
「ええ、結城様。お足元の悪い中、このような『最前線』までお越しいただき感謝いたします」
「……最前線、と申されますと?」
「我々プレミアム・ライフ・エスコートの真髄は、表向きの豪華なオフィスにはございません。顧客のあらゆる情報を守り抜く強固なセキュリティと、泥臭いまでの実働部隊。ここはその中枢……あえて世間の目を欺くための『カモフラージュ拠点』でございます。奥にいる彼は、我が社の誇る天才システムエンジニアです」
黒瀬が手で示すと、赤木がモニターの緑色の文字列を背景に、無言でタイピングしながらクールに頷いてみせた。(足元はサンダルだが、机の下に隠している)
結城の鋭い目が、少しだけ見開かれた。
「なるほど……。白鳥お嬢様が『魔法のように何でも叶えてくれる』と仰っていた理由が、少しわかった気がいたします。真の一流は、飾る必要などないということですか」
(騙された! このジジイもあの女の身内なだけあって、妙なところで納得しやがった!)
黒瀬は内心でガッツポーズを決めながら、結城を部屋の中央へと招き入れた。
「では、早速採寸を始めさせていただきましょう。夜会まで時間がございませんので、特急で仕立て上げねばなりません」
結城がメジャーを取り出し、黒瀬の肩幅、胸囲、ウエストと手際よく測っていく。
その途中、結城の手がピタリと止まった。
「……素晴らしい」
「はい?」
「この肩の筋肉の付き方、そして無駄のない体幹。日頃から相当な鍛錬を積んでおられる。ただのデスクワークの人間では、決して作れない体です。これほどタキシードが映える骨格には、滅多にお目にかかれません」
結城の職人としての目が、純粋な感嘆に染まっていた。
当然である。黒瀬は詐欺師として「いかなる高級スーツも完璧に着こなし、相手に絶対的な信頼を抱かせる」ために、日夜ストイックな筋トレと食事制限を欠かしたことがないのだ。詐欺のための筋肉が、一流テーラーに絶賛されるという皮肉な事態に、黒瀬は引きつる頬を必死に抑えた。
「……恐縮です。お客様をお守りするためには、体力も必要不可欠ですから」
「素晴らしい心意気です。黒瀬様、あなたなら白鳥お嬢様のエスコートを安心してお任せできそうだ。最高のタキシードを、金曜の夜までにお届けすることをお約束いたします」
三十分後。
深々と一礼して帰っていく結城の背中を鉄扉の隙間から見送り、鍵をガチャリと閉めた瞬間。
黒瀬はその場に崩れ落ち、赤木は床に仰向けに倒れ込んだ。
「……巧。俺、寿命が十年縮んだ……」
「俺は二十年縮んだ……」
詐欺師の隠れ家を「極秘の最前線拠点」と言い張り、一流テーラーの目を欺くことには成功した。
しかし、それは同時に、週末の政財界の夜会に「超高級タキシードを着た詐欺師」として堂々と潜入するという、後戻りのできない地獄の確定事項を意味していたのである。




