37:落ちていた猫
真っ白な景色の中に黒い点。その点が時折ぴくりと震えるように動いている。
「何かしら」
「どうした?」
「ほらそこ、何か黒いものが動いてるの」
「――行ってみるか」
それは進行方向から少しだけそれた場所で、見てくる程度であれば大した手間ではない。
近づいてみるとその黒いものが生き物であることがわかる。その近くには点々と続く足跡と何かを引きずったような、這いずったかのような跡。次第にはっきりと見えてきたその動物はこの辺りにはいるはずのなさそうな小動物だった。
「こんな魔物は見たことがないし、やっぱり猫なのかな?」
「猫だろうな」
一瞬だけ結界を解除してもらいその猫らしき生き物の脇に手を入れて持ち上げれば、その黒い生き物はだらりと伸びた。
ちょっと耳が普通の猫より大きいが、そういう種類の猫だといえばそれまでという程度。垂れさがる尻尾の先に少しふさふさとした毛があるが、全体的に毛が短く艶やかで普通の猫にしか見えない。首には何やら石のついた首飾りを下げていて、野良ではないことが窺える。
しかしここは魔物がでることもある雪山で、普通の猫がいるような場所じゃない。猫といえば思いつくのがコハクさんだが、さすがにここで雪に埋もれることがわかっていてこんな小さな猫の姿にはならないだろう。
「やはり冷えてるな。ハル、懐にでも入れておいてくれ」
「はいはい」
服の作りから、カナタには難しいので上着の上を少し開けて猫を入れる。落ちないことを確認してから猫を魔法で少しだけ温めた。
「こいつがここにいるという事は、あいつらは休憩地点で待っているようだな」
「この猫知ってるの?」
「……心当たりはある。まぁ本人に聞いた方がいいだろ」
やはりこの猫はコハクさんに関係の猫であるのは間違いなさそうだ。指で猫の頭を撫でてみると、ぴくりと体を震わせて服の中に顔を埋める。まだ意識は戻っていないようだが次第に体温も戻ってきていて大事には至らずにすみそうだ。
「あと一時間もすれば到着しそうだな」
「みんないるのかな」
「……いるだろうな」
先を急ぎながらも猫をの様子を気にかけていると、カナタが足を止め地図を取だし何度目かの確認をした。
――二人は本当に私たちを待っているのだろうか。
冒険者は一度依頼を受けたならば依頼を完了させることを優先させなくてはならない。だからこういう場合は残った人間だけで依頼の完了を目指す。
今回の依頼はイオリの雑用といった感じなので、イオリが早くカロリーンに行きたいと言えばその言葉に従うことになる。逆にイオリが待つと言えば待つ。その言葉に逆らうのは依頼者であるイオリに危険が及ぶ場合ぐらいだ。
雪山で来るかどうかわからない人間を待つというのはあまり感心できることではない。あの二人がどれだけ人間離れしていたとしてもお腹は減るだろうし、凍死する恐れだってある。寒さにだけ限って考えれば魔法が使える私やカナタのほうが耐えられるだろう。
「にー……」
「気が付いたみたい」
「あー。暴れて逃げだそうとするかもしれないから押さえておけ」
もぞもぞと猫が動いて小さく鳴き声を上げる。
カナタは振り返らずに告げるただけで足を止めることはなかった。猫が大丈夫だということは確信しているといった様子だ。一方猫はしばらくキョロキョロして自分がおかれた状況を確認しているようだ。そして私を見上げた小さな瞳と目が合う。
「ぎにゃあぁぁぁっ!」
猫から発せられたのは鳴き声というよりは悲鳴。
気が付いたら知らない人間に抱えられていたのだから驚くのも無理はないが、この悲鳴は地味に傷つく。そしてカナタの言う通り猫は私から逃れようと暴れだした。その際爪を立てなかったのは猫なりの気遣いだろうか。
「煩いな。もう一度眠らせておくか?」
「やめなさい、カナタ。ほら、猫が怯えてるじゃない」
「――ふん」
逃れようともがきながらぎにゃぎにゃと鳴く猫をカナタが睨みつける。
猫は一瞬震えたが、次の瞬間にはぴたりと動きを止めて助けを求めるかのようにゆっくりと私を見上げた。
「大丈夫よ。あの悪魔は私が奥の手を使ってでも止めてみせるから!」
「悪魔はハルのほうだろ。なぁ? 羊の皮をかぶった悪魔さん」
「うふふ、変態司教に言われてもどうってことないわぁ」
ははは、うふふ、とお互いに奇妙な笑い声をあげつつこめかみを引き攣らせる。漂う不穏な空気に気づいてか、猫がぷるぷると震えながら顔を伏せた。
それでも足を止めることも速度を緩めることもなく、先に進む。そうして先ほどカナタが到着するであろうといった時間が経過したころ、前方に山小屋らしきものが見えてきた。
「あれが休憩地点だ。結界が張ってあって比較的安全な場所だ」
「結界?」
「教会が定期的に結界を張りに来ている。前々回は俺が張りに来たんだぞ」
「カナタじゃないのね。ちっ、結界に穴があるってからかおうと思ったのに」
「ちってお前……」
視れば結界には綻びがあり、小さな穴が開いている。
長期間効果を発揮するような結界を張れるような力のある人間は、教会でも限られているはず。もしかしたらその力ある人間はカナタかもしれないと思ったのだが、さすがにそんな偶然はなかったようだ。
カナタが張った結界ならば思い切りからかえたのに。そんなミスをしないであろうことはもちろんわかっているのだが、カナタだって人間だからミスをすることだったあるはず。そんな僅かな期待を持っていたのだが、やはりカナタではなかったようだ。
「やっぱり張った時点でわかるようなミスするわけないわよね」
「――張った時点でわかる?」
「うん、あれって後から空いた穴じゃないもの。最初からあったほころびが広がっている感じ」
「…………」
カナタは難しい顔をして小屋を見つめる。
結界に穴があるというのは大問題なのだから当然だろう。しかも後から空いたというわけではないのだからなおさらだ。
結界は大がかりな部類ですぐに張れるようなものではない。少なくとも数日間はかかる作業となる。穴があることを知った以上、カナタが対処をすることになるのだろうがおそらくカロリーンの悪魔退治の後になるだろう。
悪魔を退治して戻るそれまでの間、ここを利用する人間がいないことを願うしかない。穴の開いた結界というのはほぼ結界としての役目を果たせないからだ。
「にゃ!」
「何? どうかしたの?」
突然猫が顔を上げ、短く鳴いた。それは私たちに何かを伝えようとしているように見える。
――というか、何かを伝えようとしているのは間違いないだろう。この子が普通の猫であるはずがない。
猫の見ているのは小屋の周りに生えている大きな樹。この雪の中、その樹は青々とした葉をつけていた。よく見れば小屋の周りの木々は結界のおかげなのかそのすべてが葉を茂らせている。そういう種類の樹だとしてもこの厳しい環境のなかで葉をつけているものは多くなく、ここに来るまでほとんど見かけていない。
「――来るぞ」
カナタの言葉に反射的に身構える。
何の気配もなく、ソレは突然降ってきて雪煙を巻き上げた。
カナタが寸前に結界を解除したので阻むものもなく、私もカナタの間に落ちてきたが二人とも飛びのいたので実害はない。
風に流され次第に霧散していく雪煙の中から、黙視するのがやっとという勢いで腕が伸ばされ、両腕を掴まれた。
「よかった、無事で……」
「ヒナ?」
耳元ですっかり耳に馴染んだ声がささやく。
返事はなかったが腕を掴む手が小さく震えていて、酷く心配をかけてしまったことを反省した。
「とりあえず、まずは早く小屋に入るぞ」
「そうだな、ハルが風邪でも引いたら大変だ。……どうして上着を着てないの?」
「それは――」
「後で説明するから、行くぞ」
「ああ」
ヒナは首を傾げたが、まずは小屋に行くという事でカナタと意見が一致したらしい。
何故か私を抱き上げ、雪をものともしない素晴らしい速度で走りだし、その後にカナタも続く。それは嫌でも今まで私に合わせてゆっくりと進んでいたことを思い知らせるものだった。
小屋の中は思ったよりも広く、毛布も多く用意されていた。
なんでもカロリーンへは大人数で向かうことが多いためらしい。教会の人間も結界を張り直す際にはそれなりの大人数で来ているのだそうだ。
小屋には暖炉もあり、大きさも小さく数も少ないが薪も用意されている。この薪は結界内の木で調達しているそうだ。
「ほんっとーにごめん!」
私の目の前には、床に頭をこすり付けているコハクさんの姿がある。
その謝罪はもちろんあの猫に関することだろうが、その内容を聞いてはいない。だが、あの猫の首についていた首飾りと同じものがコハクさんの手首にあり、それがどういうことを意味するのか想像するのは容易い。
「犬ほどじゃないけど猫も人に比べれば鼻が利くんだ。獣の姿になった方が人型の時よりもね。だから小屋の屋根の上で獣化して匂いを探していて、微かに二人の匂いを見つけた」
「それで?」
頭を上げたコハクさんは、その場で正座したまま手を組みもじもじと指を動かす。
ヒナはにこやかに続きを促しているが、その目が恐ろしく冷ややかだ。
「人の姿に戻るとわからないほどに微かだったから、そのままの状態で二人を探しに……」
「馬鹿だな」
「馬鹿だね」
カナタとヒナが一言の元にコハクさんを切り捨てる。
猫のまま雪の中に飛び出すなんて褒められたことではないし、私たちが見つけなければコハクさんの方が危険な状態だった。しかしそれもすべて私たちを心配してくれたからの行動だ。
「ごめん……」
「元をただせば私が悪かったんだから、コハクさんだけを責めないで」
「ハル……」
「でもね、二次災害は笑えない」
「うぅ、ごめん」
その言葉にコハクさんは目を潤ませて私を見上げたが、その次の一言でがくりと床に沈んだ。
決して攻めているわけではなく、無理をしないでほしいという意味だったのだがどうやら言葉の選択を誤ったらしい。
「でもそれを含めて今回の原因は私だから。ゆっくり休めるように、お詫びも兼ねてここの結界は私が直しておくわ。私なら張り直さなくても修復できるから」
「視えるだけじゃないのか?」
「綻びが視えるから、その綻びを繋ぎ合わせるの。もともとあるものを直すだけだから、たいして時間はかからないわ」
今日はこの小屋で休み、カロリーンに出発するのは明日の朝だ。
日の出ているうちに結界を修復してしまえば夜はゆっくりと休むことができるだろう。
「念のため俺が一緒に行くよ。作業中に何か来たら大変だからね」
「じゃあ俺は夕飯を作っておくよ。カナタに作らせたら大変なことになるから」
「俺は教会に連絡を入れておく。しばらく一人にしておいてくれ」
「わかった」
ヒナは私についてくるらしい。コハクさんは持っていた携帯食に手を加えて温かい料理を作ってくれるという。姿の見えないイオリだが、先ほどから薪を物色しに外へ行っているそうだ。
カナタは部屋の一つに閉じこもる。どういう連絡手段があるのかはわからないが、魔法や魔道具の類を使うのだろう。そういったものを使う場合、周りが静かな環境であった方がいいのでカナタが引き篭もったことも不思議ではない。
日が沈む前に結界を直すべく、私は魔法を使い、ヒナはひょいと飛んで小屋の屋根へと上がった。
「ヒナ、もしも何かが来たらよろしくね」
「もちろん。俺はそのためにここにいるんだから」
ヒナに声をかけて目を凝らす。
綻びを自分の魔力を糸のようにして繋ぎ合わせていく。細かい作業だが目に見えているというのは大きい。自分の魔力をどう変化させれば繋ぎ合わせられるか、きちんと繋がっているかが一目でわかる。
多少の時間はかかるが確実に綻びを閉じていき、あと少しで全てが終わるというその時だった。
「ハル、ちょっと面倒なのが来てる。イオリを連れてくるね」
私が返事をできないのをわかっているのだろう、ヒナはそういうと素早く屋根を下りていった。
ヒナが行ってすぐ、綻びの向こうに次第に何かの影が見えてくる。強い魔力を感じるその影に、背中を冷たいものが伝った。
――非常にまずいものがこちらに近づいているのは間違い。




