43.タイムパラドックスと天体観測
話し声と、食器を並べる音が聞こえてきて、私はふと目を開ける。いつのまにか、テーブルに突っ伏して眠ってしまっていたようだ。
「あら、起きた?」
「丁度良かった。これから夕飯にしようとしていた所なんだよ」
聞き慣れない声がして、私は顔を上げて、声の主を見上げる。その瞬間、私の体にかけられていたらしい毛布が、はらりと床に落ちる。
声の主は、カウンターキッチンからこちらを見ている女性と、ダイニングテーブルのすぐそばに立ってお皿を並べている男性のようだ。
見慣れない光景に、まだ夢を見ているのかと思う。
「薰さん、おはようございます。こちら、父と母です」
その声でふと我に返る。そうだ、紺君のお家にお邪魔していたのだった。一瞬で意識がはっきりして、私は慌てて立ち上がる。その拍子に、椅子がガタリと音を立てる。
「勝手にお家に上がり込んだ上、挨拶もせず、寝てしまってすみません。私、雨宮薫といいます。お邪魔しています」
「甘露に連れられてここまで来たって聞いたわよ。びっくりしたでしょう。疲れるのも無理ないわ。私、紺の母の葵です」
「紺の父の彼方です。今日は家でゆっくりしていってくださいね」
「ありがとうございます」
ブラウスのよく似合う肩までの長さの黒髪の綺麗な優しそうなお母さんと、セルフレームの眼鏡とシャツのよく似合う物腰柔らかなお父さんだ。
物心ついたときから兄と二人暮らしの私には、見慣れない光景で、なんだか物語の中にでも入り込んでしまったような気分で、くらくらと目眩がする。この時代にタイムスリップしてしまったと気づいた時より、今の方が動揺している。
夕飯として用意されていたのは、カレーライスだった。紺君、私、お父さん、お母さんの四人で食卓を囲む。兄と梢さんがお付き合いしていたころは兄と梢さんと私の三人で、普段は兄と私の二人で、食卓を囲んでいた私には、四人で囲む食卓はとても新鮮だ。他の家族の中に入れてもらうのは、少し居たたまれない気持ちになるけれど、それよりも、賑やかな食卓に心が弾む。
「薰ちゃんは、何歳なのかしら。高校生?」
「はい、高校三年生で、十八歳です」
「秋葉原にはずっと住んでいるのかい?」
「いえ、今日引っ越してきたところです」
「そうやったんや。忙しいときに、けったいなことに巻き込まれてしもたんですね」
今回の件に関して、お父さんとお母さんに少し踏み込んで話を聞いてみようかな。紺君にはまだ、タイムスリップの話しかしていない。甘露ちゃんが時を駆ける猫だと知っていても、この三人は、どこまで魔法について知っているのか分からない。
「実は、私の元いた時代で、協会から依頼を受けて、甘露ちゃんを探していたところだったんです」
とりあえず、魔法協会とは言わず、ただ協会とだけ言っておく。
「魔法協会からのお話があったのね。それならきっと、そちらで紺が依頼をしてのかも知れないわね」
「きっとそうだね。ということは、薰ちゃんは、今より未来から来たということかな」
「私は」
「言わんほうががええ。何かしら不都合なこと喋ってしもたら、良くないことが起こるかもしれへん。未来のことは、できるだけ喋らんとき」
未来から来ました、と言おうとしたとき、紺君が私の言葉を遮った。紺君は、そっと唇に指を当て、私の言葉を封じた。私は、こくり、とうなずく。きっと、紺君の言っているのは、タイムパラドックスというやつだ。アニメや漫画や小説では、タイムスリップのお決まりの用語だ。
「未来から来た僕らしき人も、えらい慎重に行動してはりました。僕や両親と面と向かって話してるときは、一言も、未来から来たとも、僕であることも、悟らせませんでした。甘露のことだけ、置き手紙として残して行ったんです。だから、あれは未来の僕やったんやないか、て考えてるだけですけど」
「そうなんだ。気をつけるね。ありがとう。ところで、戻り方なんですけど」
「大丈夫だよ、例の置き手紙に、きっちりこういうことが起こったときの対処法がかいてあったから」
四人で食卓を囲んで食べたカレーライスは、初めて食べたはずなのに、なんだか懐かしい味がした。
「薫ちゃん、一階で悪いけど、寝るときはこの部屋を使ってね。お布団引いておいたけど、部屋にあるものは好きに使って。それから、これ。私のだけど、パジャマと新品の下着、嫌じゃなければ使ってね」
葵さんは、居間の隣にある四畳半の和室を貸してくれた。
四人でテレビゲームをやっていたら、夢中になってしまって、すでに十時を回っていた。
紺君と彼方さんは、先にお風呂に入っている。
定期テスト明けとはいえ、受験生が一日勉強ををさぼったなんて、梢さんに知られたら、明日は勉強漬けにされそうで怖い。でも、今、私がいるのは、過去の時間。本来ならば、ないはずの一日なので、私の人生の時間としては、勉強をさぼったことにはならないのではないか。
和室の障子をあけると、縁側に続く窓がある。花田家の皆さんによると、元の時代には、明日には間違いなく帰れるようなので、今日のところは、やることも、心配することも、何もない。唐突に自由な時間が手に入ってしまった。
私と兄貴が住んでいる家の周りはマンションが多い地区なので、ベランダからは向かい側のマンションが見えるだけで、夜空は見えない。これから梢さんと住む部屋からは、星や月が見えるだろうか。
窓を開けて、縁側に腰かけ、空を見上げる。境内には、街灯もなく、真っ暗だ。そして、対照的に、空は月明かりで明るい。周りに明かりがないからか、秋葉原とは思えないほど、星がよく見える。いくつか明るい星を、でたらめに指でなぞってみる。
「あれがデネブ、アルタイル、ベガ。夏の大三角形。なんてね」
「この季節に夏の大三角形は見えないんじゃないかしら」
独り言に、返事が返ってきて、びっくりしてそちらを見る。
「葵さん」
いつのまにか葵さんが、私の隣にいた。
「薫ちゃん、夕涼み?夜はちょっと冷えるでしょう。よかったら、お茶のむ?」
「ありがとうございます」
差し出されたマグカップを手で包み込むようにして持つと、自分の体が冷えていたことに気がつく。湯気がのぼるそれは、緑茶のようだ。
「今から言うことは、私の独り言ね」
「え?はい」
どういうことだろう。葵さんは、唇に人差し指を当てて、にっこりと笑う。芝居がかった仕草がかわいらしくてよく似合う。
「紺は未来で薫ちゃんとまた出会うんじゃないかな。小学生にしてタイムパラドックスを気にするような、あの慎重な子が、大人になってから、危険を承知のうえで、タイムスリップしてきたのよ。しかも、私たち家族似合いに来て、甘露のことを手紙でとはいえ、教えてくれた。今日、薫ちゃんが来て思ったのだけれど、大人になった紺は、今日薫ちゃんがここに来ることを知っていて、私たちにあらかじめ甘露のことを伝えに来てくれたんじゃないかなって。だからね、薫ちゃん、紺のこと、よろしくお願いします」
そう言って、葵さんは、頭を下げる。
「頭を上げてください。それに、紺君をよろしくってどういうことですか」
慌てて言う私に、葵さんは、再び唇に指を当てる動作で、今度は小さい子供に向けてするように、しーっと、静かにするように促す。
「これは私の独り言なんだから、返事しないの。紺は大人びてるとことがあるでしょう。学校で同級生と話が合わないみたいで、友人と呼べる人はいないみたいなのよね。それは全然構わないけど、そんな紺が未来であなたのことを気にかけているんだとしたら、そんな人ができたのなら、嬉しいと思ったっていうそういう話なの」
葵さんは、夜空を見上げる。私も隣で同じように空を見上げる。
「まあ、私たち家族には及ばないだろうけどね」
今までのふんわりした笑顔とは違う勝ち気な顔で、葵さんはにやりと笑う。私もつられて笑ってしまう。
「これは私の独り言なんですけど」
葵さんの真似をして、私も空を見上げたまま話す。
「私も、兄と兄の友人以外で、学校には友人と呼べる人っていないんです。でも、私には大事な人たちがちゃんといるので、私が大切にしたい人をちゃんと大切にできれば、それでいいかなって思ってます。紺君には葵さんや彼方さんがいるから、大丈夫です」
私たちは顔を見合わせて、思わずほほえむ。返事が返って来ないと分かっていると、いつもより、思った通りの自分の考えを言葉にできた気がする。
「さてと、天体観測楽しかったわね。紺たち、そろそろお風呂から上がるだろうから、薫ちゃん次にどうぞ」
「ありがとうございます」
そうして、私と葵さんの天体観測という名の団らんは幕を閉じた。




