榊原先輩という人
夫候補観察対象その4。
榊原悠真。
同じ書道教室に通う高校二年生。
――調査開始
「有紗ちゃん」
「はい?」
「さっきから何をそんなに見てるの?」
書道教室の先生が不思議そうに尋ねた。
私は慌てて視線を逸らす。
「な、何でもないです」
危うく対象者に気付かれるところだった。
その日も書道教室はいつも通りだった。
半紙、墨汁、静かな空気。
この雰囲気は結構気に入っている。落ち着く。
小学生から社会人まで様々な年齢の生徒がいる。
私も榊原先輩も、かなり長く通っている古株の生徒の一人だった。
観察してみて改めて思う。
字が上手い。
それに、気遣い。
教室が終わる頃になると先生が教材や見本を片付け始めるのだが、榊原先輩は自然に立ち上がって「先生、それ運びます」と当たり前のように持っていく。
嫌味がない。
そして。
「こんにちは」
榊原先輩が、年配の女性に声をかけられる。
「こんにちは」
普通に返している。
会話も続く。
私なら大人に話しかけられたらかなり緊張する。
――コミュニケーション能力、高。
私は心の中でメモした。
「有紗ちゃん」
「はい?」
名前が呼ばれて飛び上がりそうになった。
本人だった。
「びっくりした」
「ごめん」
全然悪びれていない。少し笑っている。
「今日の字、綺麗だったね」
「え?」
予想外の言葉だった。
「先生に褒められてたでしょ」
聞かれていたらしい。
「いえいえ、たまたまです」
「いや、本当に」
そう言って自分の席へ戻っていく。
それだけ。
本当にそれだけだった。
さり気ない。少し嬉しい。
教室が終わった後、私は靴を履きながら考えていた。
サッカー部エースは私の下の名前を知らないと思う。
学年一位も多分知らない。いや、記憶力がいいから覚えているだろうか。
覚えてくれていたとしても、それは興味からではない。ただの記憶力の賜物だ。
吹奏楽部員も、多分。
でも、榊原先輩は私の名前を知っているんだよなぁ。
作品も見てくれているし、先生との会話も聞いてくれていた。
もしかして、ちょっとは興味を持たれているのだろうか。
外へ出る。風が気持ち良い。
「今日は車じゃないの?」
後ろから声がした。
振り向くと榊原先輩だった。
「はい、今日は電車で」
「じゃあ一緒に帰ろう」
歩き出す。
私も歩く。
沈黙。
ちょっと気まずい。
いや、高校生の男女なんてこんなものだろう。知らないけど。
「学校どう?」
先輩が話しかけてきた。
「え、普通です」
「普通か」
「先輩は?」
「うーん、普通」
会話終了。自分のコミュ力のなさというか瞬発力のなさに辟易する。
なんだ普通って。反抗期の子どもが親に答えるみたいな……
先輩は、無理に盛り上げようとしない。
沈黙を怖がらない。
そういう人らしい。
駅が見えてきた頃、「そういえば」と先輩が言った。
「最近よくこっち見てるよね」
心臓が止まった。
終わった。バレていた。
「えっと」
「何?」
「それは」
「うん」
どうしよう。
夫候補として観察していました。
言えるわけがない。
「あの」
「うん」
「作品を」
「作品?」
「見てました」
嘘ではない。
一応。
すると先輩は少し考えた。
「そっか」
それだけだった。
追及もない。
助かった。
「有紗ちゃん、真面目だもんね」
そう言って笑った。
その笑顔を見た瞬間、私はふと思った。
まりあさんは、高校時代の晴人お兄ちゃんをどんな風に見ていたんだろう。
先輩は駅ビルに用事があるというので、改札で別れる。
「じゃあね」
「はい」
軽く手を振る。
私は電車に乗り込んだ。
そしてスマホのメモ帳を開く。
【榊原悠真】
・字が上手い
・荷物を持つ
・年上に優しい
・会話が自然
・笑うと感じが良い
・私の名前を知っている
そこで手が止まる。
私は少し考えた後。
最後の一行を消して上書きした。
・一緒にいて疲れない




