好きかもしれない
人間は、自分に都合の悪いことほど気付くのが遅い。
私は最近、その真理を身をもって学び始めていた。
---
「有紗」
「なに」
「最近さ」
美咲が言った。
昼休み。
いつもの教室。
いつもの席。
「書道教室の日だけ機嫌良くない?」
私はパンを落としかけた。
---
「そんなことない」
「ある」
「ない」
「ある」
断言された。
理不尽である。
---
「それで?」
美咲が牛乳を飲みながら言う。
「何が」
「榊原先輩」
私は咳き込んだ。
---
なぜそこで名前が出てくる。
---
「別に」
「別に?」
「別に」
「好きじゃない?」
「好きじゃない」
即答だった。
本当に。
本当のはずだ。
---
美咲がしばらく私を見た。
そして。
「ふーん」
とだけ言った。
その顔が非常に腹立たしかった。
---
その週の書道教室。
私は少し早めに着いた。
特に理由はない。
本当にない。
たまたまである。
---
教室の扉を開ける。
すると。
先輩がいた。
一番乗りらしい。
机を並べていた。
「あ」
向こうも気付く。
「こんにちは」
「こんにちは」
それだけ。
それだけなのに。
なぜか少し嬉しい。
「早いですね」
私が言う。
「有紗ちゃんも」
「たまたまです」
「僕も」
たぶん嘘だった。
この人は毎回早い。
二人で机を並べる。
静かだった。
でも気まずくない。
不思議だ。
昔の私なら、男子と二人きりでこんな状況になったら緊張していたと思う。
何を話せばいいか分からなくなっていたと思う。
でも、今は沈黙でも平気だ。
「進路決まったんですか?」
ふと思って聞く。
先輩は二年生。
そろそろ考える時期だろう。
「なんとなくなんだけど……」
「なんとなく?」
「教育学部かなって」
意外だった。
「先生になるんですか?」
「まだ分からないけど」
先輩は少し笑う。
「子ども相手の仕事は向いてる気がする」
確かに、何となくだけどすごく似合う。
「有紗ちゃんは?」
「まだ全然です」
「そっか」
会話はそこで終わった。
だが、私はその後もしばらく考えていた。
――先生か。
良いなと思った。
年収とか学歴とか、そういう話ではなく。
その人らしいと思った。
---
その日の帰り道。
駅まで歩く。
いつもの道。
「文化祭の時」
先輩が言った。
「作品見に来てくれてありがとう」
私は少し驚く。
覚えていたんだ。
「いえ」
「嬉しかった」
その一言で。
胸が少しだけ跳ねた。
私は急に無口になった。
「有紗ちゃん?」
「なんでもないです」
なんでもなくない。
全然なんでもなくない。
改札が見える。
もうすぐ別れる。
そう思った瞬間、残念だと思った。
そこで、私はようやく気付いた。
もっと話したい。もっと知りたい。会えると嬉しい。帰ると少し寂しい。
条件でも、スペックでもない。
もっと単純な感情だった。
「じゃあ」
改札の前で先輩が立ち止まる。
「また来週」
---
電車に乗った後、スマホのメモ帳を開く。
夫候補評価シート。
もう何ヶ月も更新してきた一覧。
私はしばらく画面を見つめた。
榊原先輩の名前の横に書き込む。
【好きかもしれない】
---
書いた瞬間、恥ずかしくなって慌てて画面を閉じた。




