第六十話「女王の怒り」
『御案内申し上げます。競技者の皆様は、食堂へお越しください』
ダチーと光が雷神市の街路を歩いていると、その告知が二人の会話を遮った。
何人もの競技者が、市の中央に建つ大きな円形の建物へ向かい始める。
「食堂?」
光が眉をひそめる。
「この人たち、本当にこれを競技大会か何かのように扱っているわ。……馬鹿げている!」
「弟に近づけるなら、何だっていい」
ダチーが返す。
「こいつらを問い詰めて、何か見てないか探るには絶好の機会だ」
オークが大きな足音を立てて横を通り過ぎ、光が小さく悲鳴を上げる。
そのうちの一体が身を屈め、ダチーを上から下まで眺めてから、そのまま歩き去った。
「うえ……。他のみんなを探しに行くだけにしない?」
だが、ダチーはもう先へ進んでいた。
光は顔を覆い、通りにいるドワーフたちの刺すような視線を避けながら、その後を追った。
食堂へ着くと、二人は漆黒の肌と流れるような淡い金髪を持つ、大柄で恰幅のよい男を見つけた。
「ふむ」
男が訝しげにダチーを見る。
「お前が器か? そのような小さなものが?」
「なんだよ」
ダチーが言い返す。
「あんたは何だ。後援者の警備員か何かか?」
「否。ただの護衛だ。……レイロンと呼べ。黒曜の団における序列は第十二」
果たして、その胸に光の線が走り、数字を形作った。
〈序列:第十二〉
「さあ」
レイロンが命じる。
「中へ入れ。……貴賓の間が用意されている。誰も彼もが入り込もうとしているがな」
「だろうな」
ダチーが息を吐いた。
ダチーと光が食堂へ入る。
そこで最初にダチーが抱いた印象は、学校の食堂に似ている、というものだった。
卓が至るところに間隔を空けて並べられ、配膳の列では何人もの後援者が食事を出している。
そして、その奥には『貴賓』と記された部屋があった。
入口の前には四人の後援者が立ち、それぞれが背に刃を吊っている。
「この人たち、本当に大袈裟ね」
光が呻く。
「ダチー、あそこへ行っては駄目よ。きっと罠だわ」
その瞬間、ヴァプロンが二人の隣に現れた。
驚いた光が思わずダチーへ飛びつく。
「馬鹿な。……すでに罠の中にいる者を、さらに罠へ掛ける意味などありませんぞ。とりわけ、器ともなれば」
「どういう意味だ、爺さん」
ダチーが返す。
「あなたは黒曜の団にとって特別な客人なのです」
ヴァプロンが説く。
「ウェニレとイオニクスは、この催しの中であなたがどう振る舞うかを、直々に見届けたがっておられる」
「ああ。俺があいつらの思惑に使えるからだろ?」
「それも一部でしょうな。……あの二人は少々、芝居がかりすぎるところがあります。ですが、お約束いたしましょう。この催しは可能な限り公正に執り行われます。……かつてそうであったのと同じように」
「御託はいい、爺さん。どうすれば地下へ行ける? あの雷野郎が、俺の弟をさらっていった場所へだ」
「すでに申し上げました。……四つの試練をすべて突破すれば、扉は開きます。イオニクスは弟君にも大いなる目的を見出しているのでしょうが、その仔細までは私も存じません」
「そのとおりだ」
ダチーが言う。
「そして、あんたが知ることもない。あいつは弟をそのまま返して、俺たちは帰るんだからな」
「私も同感よ」
光が頷く。
「あなたたちの種族は嫌い。これも嫌い。親友は支えもなく、たった一人でこの場所を彷徨っている。……そのうえ、私の人生で最悪のヴォルティアナ族まで見せられたわ」
ヴァプロンは両手を背へ回した。
「それでは、来たる催しでの御武運をお祈りします。……それこそが、この地から脱する唯一の道ですからな」
ダチーがさらに問い詰めるより先に、老人は煙とともに姿を消した。
「よし。……じゃあ、探偵の時間だな」
「何ですって?」
一体のオークが横を掠め、ダチーを値踏みするように見ていく。
ダチーは手を上げて、それを止めた。
「ええと、すまん。あんた、雷神競走まで進んだことはあるか?」
オークは首を振り、そのまま去っていった。
続いて、若いドワーフが滑り込むように近くで足を止め、ダチーを上から下まで眺める。
ダチーがその顔の前で指を鳴らした。
「おい、あんた! この地下で何が起きてるか知ってるか?」
「まあ……危険だとは言えますよ、器殿」
ドワーフが答える。
「俺の兄貴は地下へ行き、雷神競走に出た。……だが二度と戻ってこなかった」
「それは逃げ切ったってことか? それとも殺されたのか?」
「誰にもわからない。消えたんだ。跡形もなく。……残っていたのは血だけだった。あの競走の生還率は、四十四パーセントにも満たないと言われている。……安定して生還できる唯一の者が、王者と呼ばれている、あの狂った剣士だ」
「だったら、なんであいつを帰らせない?」
「そうよ」
光も同意する。
「あの女をさっさと行かせればいいでしょう。頭がおかしいんだから」
「なぜなら」
ドワーフが続ける。
「あいつはヴォルティアナ族だからだ。……そこの不愉快な治し手の娘と同じようにな」
「何ですって?」
「あいつらはヴォルティアナ族を嫌っている。俺たちだって、誰一人として好いちゃいない。……あの女がいつ折れるのか、見たがっているのさ。だが折れない。……あの体には、道徳も人間らしさも残っていないからだ」
ドワーフが声を潜める。
「人間も、オークも、魔物も、相手構わず殺してきたと言われている。……俺たちの女王まで殺した」
光が眉を上げ、ダチーは小さく咳払いをした。
「ああ。あいつが善人じゃないのは……まあ、確かだな」
ドワーフが突然、ダチーの腕を掴んだ。
「俺たちの隊に加わってくれ、器! まだ一人分の空きがある! ……あの汚らわしいヴォルティアナ族を捨てて、巌雄が約束したとおり俺たちの王になってくれれば、ついにあいつらを拭い去れる――!」
ダチーの死角で光の顔つきが変わり、その片手が光を帯びた。
ドワーフは小さな悲鳴を上げると、慌てて逃げ去っていく。
「なんだ――? あいつ、急にどうしたんだ」
「さあ、誰にわかるかしら。ドワーフは昔から妙なのよ」
光が何食わぬ顔で答える。
「さあ、早く情報を集めて。私はこんな不味そうな食事を口にする気はないの」
「もう一人、話しておかないといけない相手がいる。……あいつなら何か知ってるはずだ。口に出す気がなくてもな」
ダチーが周囲を見回す。
そして、食堂の隅に一人で座っている者を見つけた。
迅雷。
全身に厚く包帯を巻き、器から汁物を啜っている。
ダチーが近づき、光は数歩離れた場所で足を止めた。
迅雷はダチーの姿を認めると、器を卓へ置いた。
「器。座れ」
ダチーはその向かいに腰を下ろし、迅雷を睨み据えた。
「あんたの妹や、手下のゴブリンどもが飛び出してきて、俺をさらおうとしたりはしないよな?」
「そのようなことはない。……言ったであろう。あれはまだ、貴様らが入れた牢の中だ」
「だから、俺が入れたんじゃない。人を殺して大騒ぎを起こしたのは、あいつのほうだ」
「どうでもよい。……問いがあるのだろう。訊け。できれば、この汁物を飲み終える前にな」
「じゃあ、まず一つ。あんたはどうやってここへ来た?」
「伝手がある。……黒曜の団に属する者の兄であることには、それなりの利点があるのだ」
「なら、もっといい質問だ。どうやって、あの強力な狂人三人を自分の陣営へ引き込んだ? ……それに、俺があんたらのどれかへ加わったとしても、結局は互いに襲い合うんじゃないのか?」
「ヴォルティアナ族が死に絶えた後にな」
迅雷が明かす。
「その先は、戦がどこへ我らを運ぶかを見るだけよ」
「つまり、あいつらを殺して、その後で互いを殺す。……そのくせ後援者が、俺に同じことをさせないと信じてるわけだ」
「先に手にした者の勝ちだ」
「馬鹿げてる。……まあいい」
ダチーが卓へ身を乗り出す。
「ともかく、ここへは前にも来たことがあるのか? 弟のいる場所まで進むための助言は?」
迅雷が顎を撫でた。
「双牢では、心から信じられる者と組め。……己の命そのものを、その者へ預けることになる。天登りでは、下を見るな」
そこで一度、言葉を切る。
「そして雷神競走は……我から与えられる助言などない。貴様の隊にいる、あの刃物狂いの女へ訊くしかあるまい」
「ああ」
ダチーが鼻を鳴らす。
「一応、礼は言っておくよ。……あんたの一行は一緒じゃないんだな」
「貴様を脱落させること以外、我らに共通の利はない。……我らは同盟者だ。友ではない」
「寂しい生き方だな」
「では、貴様にとってヴォルティアナ族とは何だ?」
迅雷が問い返す。
「今この瞬間に貴様が力を失い、その力が別の者――たとえば別の人間へ渡ったとして、あの者どもは正直、貴様をどう扱う」
ダチーが目を閉じた。
「知らん。……たぶん隊から追い出す。バタンゴへ追放する。……さあな」
「これでわかったであろう。……貴様にとっても同じことだ。望むなら、あの者どもへ縋り続ければよい。だが良い終わり方はせぬ」
「いや、させるね」
ダチーが目を開く。
「あんたの言うとおり、俺にそれだけの交渉力があるなら、あいつらのやり方だって変えさせられる。……向こうが俺を友達だと思ってなくてもな」
「それはすでに試したであろう。――我が妹はいまだ牢の中だ」
「まだ十分に試してない。……弟を取り戻すまで待ってろ。見せてやる」
迅雷は再び汁物を啜った。
「そうか。……だが、ヴォルティアナ族が世界の敵とされるのには理由がある。貴様もいずれ、それを悟るときが来る」
拳の関節を鳴らす。
「そのとき、貴様には別の道がある。……いずれ我が、その道を見せてやろう」
そう言い残し、迅雷は席を立った。
入れ替わるように、光がその席へ腰を下ろす。
「それで? 何か引き出せたの?」
「使えそうなものは何も。……ただ、アオキが答えを握ってるかもしれないとは言ってた」
光が応じようと口を開く。
だが、角笛の音がそれを遮った。
『注目! 注目! 登録されていない者が闘技場内へ侵入しました! 全衛兵は直ちに現場へ向かいなさい!』
後援者たちが一斉に食堂を飛び出し、街路を駆けていく。
「まずいな」
ダチーが呟く。
「いい知らせじゃなさそうだ」
*
イオニクスとマラチーが草原へ降り立った。
マラチーが顔から土へ突っ込む一方、イオニクスは悠然とその傍らへ着地する。
「どうだ」
イオニクスが告げる。
「あの者どもが真に何であり、何を為してきたのかを見た。……それでもなお、あの者どもの新たな時代を造り上げたいと望むか」
マラチーが土から顔を上げた。
「論理的に筋が通りません。……王妃があなたたちについての知識を隠していたなんて、僕は疑いもしなかった」
身を起こし、イオニクスを見上げる。
「それに、あの人が本当にあなたたちの標的なら、なぜ押し入って襲わないんですか。……どこにいるかは知っているでしょう。何があなたたちを止めているんです?」
「主は現時点で、あの女に対して動くことができぬ」
イオニクスが答える。
「ゆえに、別の手段を取られた。――あらゆる者の心から、我らの種族に関する知識を抜き取られたのだ。……完全に我らの側へついたと確信できぬ者に、我らの国を目撃させるわけにはいかん」
「それは僕の質問への答えになっていません」
マラチーが食い下がる。
「王妃の何が、あなたたちの誰にも襲わせないんですか。……藤井将軍には、間接的にでも手を出した。それなのに、なぜあの人には何もしないんです?」
顎へ指を当てる。
「それに、記憶を消すというのは? あれは属性なんですか。……どうして、あの人たちの記憶をすべて消さなかったんです?」
「鋭いな。……だが言ったはずだ。まだ話せぬことがある。お前が我らの側についたと、確信できるまではな」
「では、これだけ教えてください」
マラチーが言う。
「あなたたちが本当に戦っている敵は、誰なんですか?」
「言葉だけでは動かぬか。……ならば、歴史をもう少し深く旅するとしよう」
二人の姿が、その場から消えた。
*
「姫殿下。……姉君の痕跡は、一つとして見つかりません」
「どういうことだ。……世界中へ斥候を送ったのだぞ。すでに、どこかへ姿を現していて然るべきだ」
「見落とすことなど有り得ません。……後援者の領域まで捜索いたしました。ですが、何も」
若き菖蒲姫は、年齢に似合わぬ厳しい表情を浮かべていた。
玉座から立ち上がる。
「もう一度探せ。必ず見つけ出せ。……抑止力なくして、この国は生き延びられぬ」
銀の瞳が鋭く細められた。
「姉上がその役目を果たせぬのなら、私がその座に就く」
「ですが、この国を御一人で治めるのは、あまりに困難な務めです、姫殿下。……属性者も、軍も、貴族もおります! そのうえ、後援者とその襲撃への対処まで――!」
姫が片手を上げる。
男は即座に黙り込んだ。
「舌を慎め。……私が処理する」
菖蒲が告げる。
「『破壊者』は姉上に届いたのかもしれぬ。だが、私には届かせぬ」
まさにその瞬間、暗黒の一撃が玉座の間を貫いた。
巨大な紫の大剣を携えた、背の高い後援者が窓を突き破って現れる。
その後に、何十人もの後援者が続いた。
「摂政女王、菖蒲」
先頭の後援者が声を尖らせる。
「主は貴様の死を命じられた。……そして、その死を確実なものとするために、我が来たのだ!」
後援者が菖蒲へ突進する。
菖蒲の瞳が一度、白く閃いた。
大剣が、その頭を目掛けて振り下ろされる。
だが、届かなかった。
「封」
白い球体が大剣を包み込み、眩い閃光とともに消し去った。
他の後援者たちが恐怖に目を見開く中、その首魁だけが呆然と立ち尽くす。
だが即座に我へ返り、仲間たちを怒鳴りつけた。
「何を突っ立っている! 攻めよ!」
両手を差し出す。
「衰退属性・武装型!」
紫の大剣が、その手の中へ再形成された。
「我は後援者の第一位! この程度で屈しはせぬ!」
速さの迸りとともに、後援者たちが菖蒲を取り囲む。
菖蒲は傍らの従者へ目をやった。
「離れよ。邪魔だ」
従者が慌てて駆け去る。
第一位が菖蒲の周囲を駆け、その隙を探る。
菖蒲は、ただ瞳だけでその動きを追い続けていた。
第一位が斬りかかった瞬間――菖蒲は、その大剣を片方の掌だけで宙に止めた。
「どうやって――?」
「この国に神がいないというのなら」
菖蒲が静かに漏らす。
「私が新たな神となる」
その瞳が、純白の光を放った。
「摂政はこれで終わりだ。……姉上。あなたが始めたものを、私が完成させる」
その全身が白い光に包まれていく。
「さあ、貴様ら全員――」
城全体が震えた。
「――女王の怒りを受けよ!」
遥か遠くから、マラチーとイオニクスは城全体が爆ぜるのを見ていた。
崩れ落ちた瓦礫の中に、新たな女王が一人で立っている。
その足元には、朽ち果てていく骸が幾つも転がっていた。
「なんですか、あれ……」
マラチーが呆然と問う。
「どうやって、あんなことを……?」
「そして、あの女だけではない」
イオニクスが警告する。
「長たちと、あの将軍もいる。……器まで与えられれば、あの者どもは我らを一人残らず拭い去ることができる」
イオニクスがマラチーへ片手を差し出した。
「それで、どうする。マラチー・ジョーンズ」
雷光が、その腕を伝う。
「我らに加わるか。……それとも、主と我らに背くか」
マラチーが呆然と立ち尽くす中――
その背後で緑に輝いていた門が、次第に漆黒へ染まっていった。
そして、音もなく消滅した。




