第五十九話「処刑令」
ウェニレは、ダチーがその場に立ち尽くす姿を見つめていた。
少年は片腕を押さえ、口元から涎を垂らしている。
「ふむ」
ウェニレが呟く。
「妙ですね。……器が、あのような形で力を使うところは見たことがありません。……実に興味深い」
ダチーが片腕で空を薙いだ。
迅雷、鋼牙、源太の体が揃って宙へ浮き上がる。
次の瞬間、ダチーは凄まじい速さで跳び上がり、三人を次々と地面へ叩き込んだ。
「これは止めなければなりませんね」
ウェニレが立ち上がる。
「面白くなる前に、力を使い果たされては困ります」
拡声器を唇へ当てた。
『なぜ器が、まだ闘技場に立っているのでしょう? ……皆様からは、私を満足させるほどの野心が感じられませんよ!』
闘技場にいた全員の動きが止まる。
無数の視線が、ダチーへ集中した。
ダチーが低く唸る。
そして、あらゆる刃が一斉に少年へ向けられた。
(あのクソ女……俺を嵌めやがった!)
ドワーフの一団がダチーへ押し寄せる。
だがダチーが一度両手を打ち合わせると、その全員が後方へ吹き飛ばされた。
二体のゴブリンが背後から忍び寄る。
ダチーが寸前で跳び退き、二体は勢い余って互いに衝突した。
迅雷が数歩離れた足場へ飛ぶ。
ダチーの黒い瞳は、その軌跡を最後まで正確に追っていた。
(ふむ。……あの小僧、気配が変わっている。アルテルナの報告にはなかったものだ)
ダチーが前へ飛び出した。
襲撃者から襲撃者へ跳ね渡り、一人ずつ地面へ沈めていく。
迅雷が酸を吐きかける。
だがダチーの髪を僅かに掠めただけで、捉えることはできなかった。
二人の間へ雷が落ちる。
床が砕かれ、崩れた足場が奈落へ呑み込まれていった。
今度はオークの一団がダチーへ飛びかかる。
何人もの巨体が折り重なり、少年を床へ押さえ込んだ。
焔がその光景を見ながら叫ぶ。
「押さえつけろ! あの小僧を逃がすな!」
ダチーの体が震え始めた。
その上に積み重なるオークたちも、一斉に震えだす。
灰色の力が炸裂し、オークたちが残らず壁へ叩きつけられた。
光が倒れたオークを何人も跳び越え、ダチーのもとへ向かう。
鋼牙が大剣を振りかぶった。
だが光がその顔へ触れた途端、男は両膝をつき、激しく咳き込み始める。
(やっぱりね!)
光が確信する。
(間抜けな雑兵どもが、全員真っ直ぐダチーを狙ってる! ……そのうえ、あの馬鹿は律儀に全員を相手にしてるし!)
迅雷がダチーの脚へ飛びかかる。
ダチーは宙返りで躱し、そのまま床へ拳を叩きつけた。
足場を一塊砕き、次の地形へ跳び移る。
巻き込まれた競技者たちが、次々と奈落へ落ちていった。
『器が、また一隊を脱落させました! 残るは九隊! ……最後にあぶれるのは、果たしてどの隊でしょうか!』
ウェニレが高みから笑う。
その間にも、ダチーは源太を先頭に迫る巨人たちの波を押し返していた。
源太が棍を投げつける。
ダチーは、その頭上を跳び越えた。
煙が立ち上り、ヴァプロンが闘技場の中央へ姿を現す。
「競技者の皆様! これよりサドンデスへ突入しますぞ! ……今後、雷は一秒ごとに落ちます。くれぐれも御用心を!」
その言葉に応じるように、ヴァプロンの背後へ雷が落ちた。
老人は煙に包まれ、その場から姿を消す。
ダチーが残された足場を駆け抜けた。
一秒ごとに雷が落ち、周囲の地面を激しく揺らす。
迅雷は、少年の背へぴたりと張りついていた。
その手がダチーへ届こうとした瞬間――
一閃。
迅雷の両翼が斬り裂かれ、その体が地へ落とされた。
だが迅雷は、残された足場の一つへ危なげなく着地する。
「アオキか」
アオキが背後へ降り立った。
すでに刃を抜いている。
「ゴブリンの主。……その子から離れなさい」
「断る! あの力は我が民のものだ! 我らはあれを用い、ゴブリンが支配種となる時代を築く! ……それこそが、我らの生き延びる唯一の道なのだ!」
光がダチーの傍らへ駆け寄った。
少年は両膝をつき、荒い息を繰り返している。
「俺の籠手……なんで感覚がないんだ?」
「落ち着きなさい!」
光が言い聞かせる。
「力を使いすぎているのよ! ……そもそも、いつ属性武器を解放したの? 私は何年も属性を使っているのに、まだ持っていないのよ!」
「伏せろ、お嬢さん!」
ダチーが光を引き倒した。
その頭上を、焔の拳が通り過ぎる。
ダチーが立ち上がりざまに拳を放つ。
焔は最初の一撃を受け止めたが、続く二撃目までは防ぎ切れず、一歩後退した。
アオキが二人の隣へ降り立ち、三人で背中を合わせる。
「興味深いわね。……仲間と戦うというのは、こういう感覚なのね。……たとえ、弱い仲間であっても」
迅雷が透明になった。
アオキは目を閉じ、青い札を掲げる。
「――青札・帳」
青い煙が三人を包み込んだ。
全員がその場で動きを止め、周囲の気配を探る。
迅雷が煙の中へ姿を現した。
その数秒後、腹が深く斬り裂かれる。
(忌々しい女め)
迅雷が胸中で毒づく。
(場を自らに有利な形へ変えるか。……だが、同じ真似ならこちらにもできる)
次の斬撃が腕へ迫る。
迅雷は再び透明になり、アオキの刃が空を斬った。
アオキはその勢いのまま煙の外へ飛び出す。
そこへ、源太の巨大な手が伸びてきた。
アオキの体を掴み、全力で握り締める。
肋骨が何本も砕ける音が響いた。
アオキは源太の指を数本斬り落とし、手の中から抜け出す。
床へ降り立ち、自らの脇腹を押さえた。
「ふむ」
アオキが呟く。
「うまくやられたわね」
源太が傷ついた手を握り直し、残る手で棍を振り下ろした。
ダチーが青い煙を突き破り、その棍を真っ二つにへし折るほどの拳を叩き込む。
「強く打つのね」
アオキが評する。
「少しだけ感心したわ」
「くだらないこと言ってないで動いてくれ、お嬢さん」
源太が床の一部を引き剥がし、手の中で握り潰した。
無数の瓦礫を二人へ投げつける。
アオキは一太刀ですべてを斬り払った。
だが、その剣速は先ほどより僅かに落ちている。
「なぜ、まだ立てる」
源太が問う。
「肋骨の半分は確実に折った。……なぜ動ける」
「私は戦っている」
アオキが告げる。
「これが私の人生だから。……さあ、鋼を食べなさい」
腰を低く落とす。
そして一瞬で、源太の脇を駆け抜けた。
アキレス腱が断ち切られ、トロールが片膝をつく。
アオキがさらに距離を詰めようとしたところで、迅雷が二人の間へ酸を吐いた。
床が溶け落ち、大きな断絶が生まれる。
光が青い煙の中から現れた。
その拳が握り込まれる。
迅雷と源太の体が、同時に床へ崩れ落ちた。
「今よ!」
光が叫ぶ。
「脱落させて、ダチー!」
ダチーが間髪を容れず、両手を打ち合わせる。
戦士二人の下にある足場が砕け始めた。
「今日はやらせぬ」
焔が源太の腕を掴む。
源太が迅雷の腕を掴み、二人をまとめて引き上げた。
ダチーが追撃する前に、鋼牙の膝が脇腹へ突き刺さる。
ダチーは鋼牙を掴み、壁へ投げつけた。
だがその頃には、残る三人はすでに安全な足場へ移っている。
「ふう」
迅雷が息を吐く。
「危ういところだった」
そして、向かい側に立つダチーたちを見据えた。
両隊の間には、闘技場を二つに裂くほど巨大な空洞が開いている。
「じゃあ、今度こそ脱落させてやる!」
ダチーが片手を突き出した。
重力が一気に跳ね上がる。
残されていた足場が、ことごとく砕け散った。
全員が奈落へ向かって落下を始める。
迅雷たちは、辛うじて壁の縁へ食らいついた。
アオキは刀を壁へ突き立て、片腕でダチーを掴む。
ダチーが光の腰へ腕を回した。
一隊が奈落へ落ちていく中、角笛が鳴り響く。
そして全員が闇へ呑まれる寸前、新たな足場が形を成した。
『これにて終了です! 八隊が脱落し――八隊が生き残りました! 戦士の皆様、おめでとうございます!』
ウェニレが高みから舞い降り、足場へ優雅に着地する。
『そして器が第二回戦へ進出! なんと見事な見世物でしょう!』
ダチーの瞳が元の色へ戻った。
力が抜け、荒い息を吐きながら倒れかける。
光が慌てて、その体を受け止めた。
「なあ……まだ仕込みがあるのか? それとも、これからは正々堂々やる気があるのか」
ウェニレが両手を上げる。
「正々堂々? もちろん、正々堂々ですとも! ……だからこそヴァプロンがいるのです。誰にも不正をさせないためにね」
ダチーが疑わしげに目を細めた。
「ともかく」
ウェニレが続ける。
「皆様、本日の競技はこれで終了です! 第二回戦は明日行われます。それまでに、すべての傷を治療いたしましょう」
そしてダチーへ向き直った。
「もう一人、隊員をお捜しになったほうがよろしいでしょうね。……そちらの娘たちは……」
光とアオキを順に指す。
「……次の試練には、あまり向いておりませんので」
ウェニレが歩き去っていく。
「何ですって?」
光が声を尖らせた。
「牢の一つくらい、私だけでも十分に突破できるわ! 私を見くびっているの?」
「貴族はこれだから」
アオキが鼻を鳴らす。
「人間でも、もう少しましだと思っていたけれど」
「私を人間と並べる気なの?」
ダチーが二人から離れ、歩き始めた。
「さて、ほかの誰かを見つけられるか試してみるか。……どんな試練にも備えないとな。特に、最後の競走には。……沙織か、灯里でも――」
アオキが刃を鞘へ収めた。
「調子に乗らないで。貴族は一人いれば十分よ」
そして一瞬の閃光とともに、姿を消した。
ダチーと光が目を合わせる。
光の顔が赤くなった。
「何よ?」
「なんでもない。……とにかく出よう。人に群がられる前にな」
ダチーが迅雷たちへ一瞥を向けた。
四人は壁に背を預け、疲れ切った様子で座り込んでいる。
「ああなる前に」
*
マラチーが降り立ったのは、広大な草原だった。
頭上には、無数の星が散る夜空が広がっている。
イオニクスが隣へ現れ、両手を背へ回した。
「これは何ですか」
「これが、その日だ」
イオニクスが答える。
「戦が始まった日」
遠くに、巨大な壁で囲まれた国が見えた。
光り輝く建物。
その頭上に浮かぶ、幾つもの灯。
見覚えがありながら、どこか古めかしい姿をしている。
「あれって……?」
「ヴォルティアナだ。二千年前のな。……かつて知られた中で最も偉大な暴君によって築かれた国。……我らの主は、それを止めるために黒曜の団と、後援者という種族を創られたのだ」
マラチーは、ヴォルティアナ族らしき兵士たちが金属の鎧をまとい、周辺の地形を調べる姿を見つめていた。
「見つかったか」
「いや、逃げられた。……だが、人間を何人か捕らえた。隔離区へ入れてある」
「バタンゴだな。よし。……後援者について尋問できる」
兵士の一団が歩き出す。
イオニクスが後に続き、マラチーもその隣を進んだ。
「ところで、王妃陛下はどちらにおられる」
「遠征に出ておられる。……妹君の菖蒲姫殿下が、お戻りになるまで政務を取り仕切っておられる」
「菖蒲?」
マラチーが問い返す。
「それって、今の王妃ですよね?」
イオニクスは答えなかった。
二人は兵士たちを追い、国を囲む壁へ近づく。
衛兵が一団の身元を確認し、門の内側へ通した。
イオニクスとマラチーも、それに紛れて中へ滑り込む。
「二千年前から、これほど進んでいたんですね」
マラチーが街並みに見入った。
「ずっと支配的な勢力でいられたのも、無理はない」
「技術の力ではない」
イオニクスが告げる。
「頂に立つ者の力だ。……技術は、それを増幅しているにすぎん」
まさにそのとき、あらゆる建物の壁面に映像が現れた。
銀色の瞳と白い髪を持つ、若いヴォルティアナ族の女が映し出される。
『動ける兵は全員、可能な限り早くアレオラへ参集せよ。……後援者の領域を発見した。攻撃は間もなく開始される。……捕らえた人間は、尋問のため一人残らず連行するように』
兵士たちが通りを行進し、遠くにそびえる城へ向かっていく。
その後ろには、鎖に繋がれた人間たちが歩かされていた。
別の兵士が銃を突きつけ、その背を押している。
(なんだ、これ)
マラチーが訝った。
(この人は後援者の存在を知っていた? ……でも兄さんについて僕に訊いたときは、何も知らないように振る舞ってた! ……待って。嘘をついていたのは、この人のほうだったのか?)
マラチーが首を振る。
(もしそうなら、役を演じるために自分の国を危険へ晒したことになる。藤井と同じように。……それとも、まだ別の何かが動いているのか?)
イオニクスは一言も発さず、通りを進み続けた。
マラチーが、噂を交わす衛兵たちの傍らを通り過ぎる。
「姫殿下は、姉君ほどお強いと思うか? ……もし『破壊者』が我らを拭い去るつもりなら、こちらにも神が必要だぞ」
「すでに一柱おられるだろう。姫殿下まで数えれば、二柱だ」
「だが、姫殿下はまだ新しい」
「新しかろうとな。すでに王妃陛下より、遥かに落ち着いておられる。……お一人で後援者を追って出られたことだけは、俺も気に入らんがな」
イオニクスは歩き続け、城へ向かう。
マラチーが首を傾げた。
「この時代のヴォルティアナも、十分に横暴だったのはわかります。……でも、あなたはまだ全部を見せていない。……なぜ皆殺しを望むほどのことになったんですか?」
イオニクスが足を止めた。
「待て」
直後、街中の映像が再び切り替わる。
だが今度は、何も映っていない真っ黒な画面だった。
聞き覚えのない声が、通りへ響き渡る。
菖蒲のものより遥かに不安定で、狂気を孕んだ声。
『我が呼び声を聞け、我が臣民よ! ……処刑令の再開を命じる! ……この弱き者どもは、自らの意志で我らの統治に屈しようとはせぬ。……抗う者はすべて殺せ! 残る者は従わせよ! ……来年の今頃、我は還る。……そのときまでに、この星の完全なる支配を、我が生得の権利として手にしていることを期待する!』
通りにいた衛兵たちが凍りつく。
「あれは……我らの創始者だ!」
「王妃陛下!」
「聞いたな! この世界は我らのものとなる! あの御方が創られた世界だ!」
イオニクスが、背へ回していた両手を下ろした。
「あれは『処刑令』と呼ばれた。……当時の我らでは到底太刀打ちできぬ力をもって、あの者どもは進路上にあるすべてを絶滅させた」
「でも、これが仕組まれた映像ではないと、どうして信じられるんです? ……これが本当に起きたことだと、僕はどうやって確かめればいいんですか?」
「信じる必要はない。……だが、時を統べる者であろうと、すでに観測された過去を改変することはできぬ」
景色が一変した。
次に現れたのは、瓦礫と化した村だった。
黒い肌を持つ人々が泣き叫びながら、崩れた建物の下から這い出してくる。
「我らの九割が失われた。……まるで疫病にでも呑まれたかのようにな。……そして、この虐殺を組み上げる手助けをした者のうち、二人は今もなお、この地上を歩いている」
「え? 菖蒲は見ましたけど……まさか、もう一人は僕が考えている人じゃないですよね?」
マラチーが答えを得る前に、巨大な氷の波が都市へ押し寄せた。
目に映るものすべてを、瞬く間に凍りつかせていく。
そして――
「藤井将軍! 御命令を!」
今より若い姿をした藤井が、凍りついた残骸の中を歩いてきた。
「一人も生かすな」




