第六話「灰色の光」
朝はとうに過ぎ、時刻は午後へ差しかかっていた。
藤井は邸宅の屋根に立ち、ほかの部隊員たちはその傍らに腰を下ろしている。
マラチーが屋根の縁から地上を覗き込んだ。
眼下では、ダチーが這いつくばっていた。
邸宅の高さに届きそうなほど積み上げられた巨岩が、何重もの縄でまとめられ、その背中に括りつけられている。
「あと十回だ、坊主!」
藤井が命じる。
ダチーの顔は汗まみれだった。
腕立て伏せの姿勢から体を沈める。だが、押し上げようとする両腕が激しく震えていた。
丸一分。
最初から最後まで腕を震わせながら、ダチーはようやく一回の腕立て伏せをやり遂げた。
たった一回。
そして力尽き、地面へ崩れ落ちた。
「九十回まではいったね」
ルカが評する。
「百回の大台に届かなかったのは残念。達成できたら、とんでもない自慢になったのに」
藤井は屋根の縁に片膝をつき、すでに気を失ったダチーを見下ろした。
「持久力は平均以上――いや、並外れていると言ってもいい。凄まじい身体能力と極端な持久力、その両方を備える属性とは何だ?」
「それって、どの属性にも当てはまるんじゃありません?」
光が口を挟む。
「私たちだって、すぐに疲れるわけでも、腕が棒切れみたいに細いわけでもないでしょう」
「ある意味ではな。競技選手と同じだ。誰もが高い運動能力を持つが、得意分野では個人差が出る。土属性は風属性より力が強く、風属性は土属性より速い。だが、どちらも属性を持たない者のほぼ全員より、遥かに速く、遥かに強い」
藤井が目を細めた。
「だからこそ、具体的な証拠がない限り、こいつの属性の正体を割り出すのは難しい」
灯里が片手を上げる。
「私に試させてください、将軍。この人間が壊れるまで徹底的に追い込めるなら、これ以上の喜びはありません」
「却下だ。体と心を両方折ったら、兵士に仕立てる素材すら残らん」
ダチーの体を包んでいた灰色の光が明滅し、やがて消えた。
藤井は屋根から飛び降り、ダチーを抱え上げる。
「移動だ、兵士諸君」
灯里は一切ためらわず、屋根から飛び降りた。
光は慎重に屋根の縁を跨いでから、地上へ降りる。
ルカは狼へ変身し、爪で壁を削りながら滑り降りていった。
マラチーは、そのすべてを見つめていた。
動き方が、自分とはまるで違う。
屋根の縁から身を乗り出し、改めて地面までの高さを確かめる。
(よし。あの耐久力の理屈が正しいなら、死にはしない。……ただ落ちるだけだ)
どうにか手を離す勇気を振り絞り、背中から真っ逆さまに落ちた。
着地点の近くには、ルカが立っている。
マラチーは起き上がるのにも手間取り、視界の端に黒い斑点が浮かび始めた。
「足から着地すればよかったのに」
ルカが言う。
「野生じゃ、狼はいつもこう言う。“着地だけはしくじるな”。格好の獲物になるだけだからね」
「狼って喋るの?」
「まさか。唸るだけ。でも、何年も一緒に暮らせば意味はわかる。……あるいは、こんな力を持っていればね」
ルカの手が、一瞬だけ緑色に光った。
マラチーも立ち上がり、二人で邸宅へ戻っていった。
*
過酷な訓練が再開された。
――一時間目。
四七七号機が室内でダチーを追い回し、両手から光線を連射している。
藤井は壁際に腰を下ろし、数分おきに号令を飛ばしていた。
「もっと速く! 跳べ! その体のどこかに飛行能力くらい入ってるんじゃないのか? 選抜試験で見せた敏捷さはどうした!」
「頼むから、こいつを止めてくれ!」
灰色の力を爆発させ、ダチーは身を屈めた。
四七七号機が組みつこうと飛びかかった寸前、真上へ跳ね上がる。
だが、天井はその衝撃に耐えられなかった。
ダチーは急行列車さながらの勢いで天井へ激突し、その中央に巨大な亀裂を走らせる。
四七七号機は、藤井がリモコンのボタンを押すまで攻撃をやめなかった。
ダチーが床へ落下し、その衝撃だけで部屋はさらに損壊する。
「政府へ回す請求書が、また一枚増えたな」
藤井がうめいた。
「なあ、姫殿下。修理を急がせるよう手配できないか? 前回は六日もかかった」
「掛け合ってみます」
ダチーは外れた腕を、自分で関節へはめ直した。
「もう終わりか?」
「まだだ。だが、お前の脚が想定より遥かに速いとわかった! 基準を超えているのは打撃力だけじゃないらしい。骨属性の線はまだ残る。磁力属性はどうだ? ふむ……案外、有力かもしれん!」
「ちっ」
灯里が小さく舌打ちする。
「僭越ながら、これ以上この者に時間を費やすのは無駄かと。何の属性であろうと、注目に値するものではありません。強く殴る。速く走る。それ以外の機能はない。しかも、その二つですら飛び抜けてはいません」
「人間だもの、灯里。珍しい属性なんて持っているはずないわ」
光が同意する。
「これに耐えているだけでも奇跡よ。私も磁力属性だと思う。単純で、役立たず」
――二時間目。
ダチーは椅子に座らされ、いくつもの金属製拘束具で固定されていた。
藤井がその背後に立つ。
「今から光がお前に触れる。いいな? こいつの能力は、生物の身体状態を見抜き、操ることに長けている。お前の内側まで探れる者がいるとすれば、光だ!」
「待ってください! 私は同意していません!」
光が声を尖らせる。
「そんな汚い蟻、触りたくありません!」
「光。約束しただろう。訓練に協力する代わりに、飛鳥区の商人たちへ話をつけ、衣服を値引きさせる」
光は顔を背けた。
「嫌です! やりません! 人間の菌なんか体につけたくありません! 感染したらどうするんです!」
「八割引きなら?」
「あ、あなたって人は……もう! わかりました!」
光の腕が桃色に輝き、ダチーが椅子の上で身をよじり始める。
「うわ、待て! 何してる? その力、何なんだよ!?」
「治癒属性というのよ、この無知な虫」
光が答える。
「それから、そんな目で私を見ないで! こんなくだらないことに付き合ってあげてるだけでも、有難く思いなさい!」
光が人差し指をダチーの額へ置く。
桃色の光が、ダチーの皮膚の下を走った。
ダチーは激しく咳き込み、血を吐き始める。
だが、光が指を離すと、その体はたちまち元へ戻った。
「どうだ?」
藤井が尋ねる。
「何か見つけたか? 属性の痕跡は?」
「何も。……ただ、内臓の配置がひどく……滅茶苦茶です。心臓は肋骨の内側を漂っているような状態で、腸も本来より遥かに太い。少なくとも、私の知識では。人間の体に詳しいわけではありませんから」
「漂っている?」
マラチーが顔を上げた。
「待って。それはおかしい。兄さんは人間だよ。心臓がそんな状態で、どうして生きていられるんだ? それも属性の影響なんですか?」
「属性が肉体へ及ぼす影響は、それぞれ異なる。俺は体内温度が常に低い。光は一般的な病気のほとんどにかからない。ルカは……ほぼ何でも飲み込み、消化できる。そして灯里はエネルギー属性だから、肉体が自然と、ほかの属性者より高い持久力を備えている」
藤井がマラチーへ片目をつぶってみせる。
「お前は技術属性だからな。体の中に回路が走ってるかもしれんぞ」
「えっ、待ってください。じゃあ僕、ロボットになっていくんですか?」
「そういう意味じゃない。属性による生物学的な影響だ。だが、そのどれを考えても、ダチーの体にこんな無秩序な変異が起きている理由は説明できん。風属性でもない。身体強度が高すぎる」
「人間だからです」
灯里が言い切った。
「この者に関しては、何一つ理屈が通りません」
不快そうに舌を鳴らす。
「だから、すべて無意味だと申し上げているのです」
光は三人から後ずさり、藤井を睨みつけた。
「約束は絶対に守ってくださいね! 私にどれだけ多くの一線を越えさせたか、わかっていますか!?」
そのまま全速力で部屋を飛び出していく。
ほどなく近くから、水を勢いよく流す音が聞こえてきた。
藤井は頭を抱えた。
「俺が普段、何を相手にしてるか、わかったか?」
深く息を吐く。
「これが将軍の暮らしだ」
「給料はいいのか?」
ダチーが尋ねる。
「いいぞ。一時間で白金貨五百枚だ」
「ドルに換算すると、いくらだ?」
「わからんな。人間の通貨を使ったことがない」
「じゃあ、俺の給料は? ここに閉じ込めるなら、せめて報酬くらい寄越せ!」
「心配するな! 二週間後には受け取れる! 政府か王家がお前を騙して、娘たちに回さなければな!」
「なんだそ――」
「次の試験へ行くぞ!」
――三時間目。
部隊は邸宅の裏庭へ集まっていた。
ダチーは、近くの池の中へ沈められている。
藤井、灯里、光、マラチーは木陰に集まり、ルカは狼の姿のまま、庭の椅子で日光を浴びていた。
ダチーは懸命に息を止める。
魚が頭の周囲を泳ぎ回り、何度も顔にぶつかってきた。
(どれくらい経った? 十秒? 十五秒? 二十秒?)
金魚。
フグ。
果てはカジキまでいた。
カジキの尖った鼻先が脇腹を突き、ダチーは思わず息を吐いて、水を一口吸い込んでしまう。
慌てて水面へ泳ごうとした。
だが、どういうわけか――
水が分厚いコンクリートの層のように重く、立ち上がることすらできない。
必死に水を掻き分けて出ようとしたところへ、カジキがもう一度突っ込んできた。
ダチーの体が、濃い灰色に染まる。
ドォンッ。
巨大な水柱が高々と上がり、ルカと庭の半分へ降り注いだ。
ほかの者たちには、ぎりぎり届かない。
ルカは水たまりの中を転げ回った。
その一方で、飛び散った水滴のいくつかは空中に浮いたまま静止し――やがて地面へ落ちる。
ダチーは芝生の上へ着地した。
口に入った水を吐き出し、髪に残った水も絞り取る。
藤井が、宙から落ちてきた水滴の一つへ触れた。
「ふむ。水属性の可能性もあるか? だが、力の色は灰色だ。とはいえ、まだ除外はできん。人間が属性を持つこと自体、一生に一度あるかどうかの異常事態だからな」
「試してみましょう」
灯里が口を挟む。
池の水面を蹴りつけ、大波をダチーの体へ叩きつけた。
だが、灯里の予想に反し、水は上空へ浮かび始め――そのまま真っ直ぐダチーの顔へ落ちた。
「……今の、効いたのか?」
藤井が咳払いをする。
「よし。水属性も候補に加えよう」
そこで一度、言葉を切った。
「……だが、なぜ水が浮いた? 重力を操る属性など存在しない。これでは理屈が通らん」
藤井の視線がダチーへ向けられる。
冷たい目ではない。
ただ、その瞳には強い好奇心が宿っていた。
やがて、一つの疑問を口にする。
「光が見つけた異常と同じだ。……こいつは、既存の属性を持っていないんじゃないか?」
藤井は首を振った。
「すべて考え直す必要があるな。どの候補にも綺麗には当てはまらん。外の世界で、新たな属性が生まれたのか?」
ダチーはシャツを脱ぎ、それで顔を拭った。
「休ませてくれないか? 体の中まで探られて、背中を折られて、この池で溺れかけた。次は何だ? 飛行機から吊るすのか?」
「それは使えるな」
藤井が頷く。
「違う! 本気で提案したんじゃない!」
灯里が光弾をダチーの頭へ放ち、無理やり身を屈めさせた。
「シャツを着ろ」
「言えば済むだろ、お嬢さん!」
灯里の手に、もう一発の光弾が形成される。
「黙れ。私に指図をするな。二度とだ」
「わ、わかった。悪かった」
――四時間目。
ダチーとマラチーは階段に座り、その背後ではルカが干し肉を食べていた。
ダチーが手拭いで顔を拭う。
「なんで、あんたらにはこんな無茶な訓練をさせないんだ?」
「俺たちは能力がわかってるから。灯里と光は子供の頃から、こういう訓練を徹底的に受けてきた。だから選抜試験にも通ったんだ」
「ルカはどうやって入ったの?」
マラチーが尋ねる。
「えっ。属性を持ってたから?」
「そうじゃなくて、ルカも試験を受けたのかってこと」
「いや。十三になった年にこの国へ忍び込んだ。捕まって、孤児院へ入れられて、力を見せたら追い出されて、それから藤井が引き取った。単純な話だよ」
「それを単純って呼ぶなら、世の中の何もかも単純だよ。……でも、僕たちと少し似てるかも」
「そうだね。お前らのほうが、ずっと憎まれてるけど」
ダチーは手拭いを脇へ置いた。
少女二人は映像装置を流したまま、互いの手提げ鞄を交換していた。
「エネルギー属性の姫と、肉体を操る貴族か。故郷とは何もかも違うな」
「故郷には何があるの?」
「少なくとも、王族の血を引いた奴はいない。それだけは言える」
マラチーの腹が鳴った。
「何か食べ物ない? 最後に食べてから、かなり経ってるんだけど」
「ないよ。戻ってきたあと、女子二人が全部持っていった。干し肉なら分けるけど」
「ちゃんとした食事のことだよ。僕たち、自分の家で二軍扱いじゃないか。ここを家と呼べるならだけど」
「買いに行く?」
ダチーとマラチーの耳が、同時にぴくりと動いた。
「この家を出るってことか?」
ダチーが聞き返す。
「そう。将軍は今日はもう上がっていいって言ってたし、あの二人はお前らがどうなろうと気にしない。街へ繰り出そう」
「あいつら、玄関のすぐそばにいるぞ」
「なら、窓から出る」
ルカは自室へ向かい、扉横のスキャナーに手を置いた。
扉が開き、ダチーとマラチーも立ち上がって中へ入る。
室内は散らかり放題だった。
緑色の寝具と壁紙。
床一面に衣類が投げ散らされ、敷物にはいくつもの穴が開いている。大型映像装置の画面にも、何本もの引っかき傷が走っていた。
ダチーは、窓が最初から開いていることに気づいた。
「よくここから飛び降りるのか?」
「退屈なときはね」
ルカは室内側のスキャナーへ手を置き、三人の背後で扉を閉めた。
衣裳部屋には、大きな籠が置かれていた。
ルカはその中を掻き回し、フード付きの翠色の外套を三着引っ張り出す。
「これを着て。変装になるから」
「……そうか?」
三人が支度を整えると、ルカは窓へ駆け、そのまま外へ身を躍らせた。
下から、茂みへ突っ込む音が聞こえてくる。
「自由だ……」
ダチーが小さく呟いた。
「でも、これで殺されないかな」
マラチーが不安そうに言う。
「わからん。でも、出るのは数時間だけだ。気づかれないだろ」
ダチーもルカに続き、窓の外へ飛び出した。
マラチーは部屋を見回し、扉が閉まっていることを確かめる。
ようやく勇気を振り絞って窓へ近づき、慎重に窓枠を跨いで外へ身を投げた。
分厚い茂みの中へ落ちたところを、ダチーが引っ張り出してやる。
マラチーは服についた葉を払い落とした。
「どこへ行くの、ルカ?」
ルカが道の先を指さす。
大小さまざまな店が並び、大勢のヴォルティアナ族が行き交う商店街が見えた。
「あそこ。飯を買って戻るだけだ」
三人は歩き出す。
だが、そのことを彼らは知らない。
藤井が屋根の上から、すべてを見ていた。




