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第五十七話「奈落」

 光が扉から飛び込んできた。


 その顔は汗にまみれている。


「ダチー! いたのね! もう、ずっと探し回っていたのよ!」


「どうやってここへ来たんだ? それに、なんでそんなに早く着いた?」


「早く? 私は何時間もあなたを捜していたのだけれど!」


「何時間? 俺がここへ着いたのは……三十分くらい前だぞ。たぶん」


 ダチーが顎を撫でる。


(待てよ。光が俺より先に落ちてた可能性もあるのか? ……巌雄が使った、あの時間を操る道具。あれを作った奴が、こいつらに手を貸してるのか?)


「私は一日近くここにいるの。それだけは間違いないわ。だから、わかったような口を利かないで!」


「ああ、わかったよ。……この場所では、時間の流れがおかしくなってるのかもな。……まあ、少なくとも死んではいない」


 光が抱きつこうと一歩踏み出し――不意に我へ返ったように動きを止めた。


「ごほん。……あなたも……少なくとも死んでいなくて、よかったわ」


「そうか。……ありがとよ」


 直後、アオキが二人の間へ割って入り、刃を掲げた。


「それで、三つある地獄のどこから湧いてきたの、この女は」


「え、なんだって? ……こいつは光だ」


 アオキが光へ顔を寄せ、その匂いを嗅ぐ。


「貴族の血の匂いがする。……吐き気がするわ。今すぐここから追い出しなさい」


「何ですって?」


 光が声を尖らせた。


「そのぼさぼさの髪と薄汚い服で、よく他人を貶せるわね! ……そんな人間みたいなだらしなさで、本当にヴォルティアナ族なの?」


 アオキが光の首へ刃を当てた。


「もう一度言ってごらんなさい」


「聞こえたでしょう!」


 光がアオキの顔へ触れようと手を伸ばす。


 だがダチーが慌てて二人の間へ割り込んだ。


「ごほん! なんだよ、あんたら前から因縁でもあるのか?」


 光が一歩下がる。


「ダチー、この娘は誰なの」


「こいつか? 俺もよく知らないんだよ」


 アオキが刃を鞘へ収めた。


「私の名は天讃アオキ。S-1の副将軍よ。……そう呼びたければ呼べばいい。呼びたくないなら、それでも構わない。……ただし、私の道を塞がないことね」


「副将軍?」


 光が声を上げる。


「嫌よ! こんな薄汚い婆が指揮官を務めている隊で働くなんて、私は絶対にお断りだわ!」


「お好きに」


 アオキは光を見ようともせず、冷蔵庫を開けた。


 豆の缶詰を取り出し、その中身を口へ流し込む。


「では、副将軍としてあなたを隊から除名します」


「何ですって? そんなこと、できるわけないでしょう!」


「副将軍の規定を読みなさい。『正式な次席指揮官は、任務に不適格と判断した隊員を除名する権限を有する。その決定を覆せるのは将軍のみ』」


「そ、それなら藤井が許さないわ! 灯里だって!」


 アオキがさらに豆を流し込んだ。


「灯里?」


「何よ? 姫殿下よ、この間抜け! 安里灯里姫殿下! ……まさか、その程度の基本的な知識すらないとは言わないでしょうね?」


「亜斗夢に妹がいるの?」


「あら。あの畜生の亜斗夢は知っていて、灯里は知らないの? ……ああ、わかったわ。あいつが裏で何かしたのね? あの小僧!」


 アオキが空になった缶を床へ放り捨てた。


「貴族はこれだから」


 そしてダチーを指す。


「決して信用してはいけないわ」


「まあ、最初は俺のことを死ぬほど嫌ってたしな」


「ダチー!」


 光が抗議する。


「わかった、わかった。……ええと、アオキさん? いや、なんて呼べば正しいのか知らんが、まあいい。光は隊に入れるべきだ。……治癒ができるし、ほかにも色々やれる。治療役は、どんな隊にいたって役に立つだろ」


 光がダチーの脇腹を抓った。


「私はただの治療役ではないわ!」


「痛っ! けど、主にやってるのはそれだろ! なんて説明すればいいんだよ。『こいつは身体を弄れる』とでも言えばいいのか?」


「そう! それを言いなさい!」


「じゃあアオキ、こいつは身体も弄れる」


 アオキが冷蔵庫から麦酒を取り出した。


「ふうん。身体を弄る魔女ね。……さあ、私が放り出す前に追い出しなさい」


「もういいわ」


 光が苛立たしげに言った。


「ダチー、行きましょう。……ルカと灯里と沙織を見つけるの。それからマラチーを捜しましょう」


 アオキがぴくりと反応した。


「ルカ? まだ生きているの?」


「なんであいつを知ってるんだ」


「私が副将軍だからよ、間抜け。……お前たち全員が生まれるより前から、私はS-1にいる。……隊員全員を把握するのも、私の務めよ」


「そこまで詳しいなら、俺たちの邸が二度も襲われたとき、あんたはどこにいた?」


「ここよ」


「やっぱりな! 何一つ助けられなかったわけだ。……藤井は自宅拘禁。飛鳥では何百人も死んだ。俺たちは汚名をそそぐ働きすらできない。こうして、ここに閉じ込められてるからだ!」


「ええ」


 アオキが平然と認めた。


「勝たない限り、ここからは出られないわ」


「だったら、光を隊に入れろ」


 ダチーが言い立てる。


「これで主力、補佐、控えが揃う」


「誰がどれよ」


 少女二人が同時に問い返した。


「まったく、あんたらはすぐ話をややこしくするな。……いや、もういい。全員ここを出たいんだろ。だったら固まって動いて、一緒に出る。それだけだ」


「ふん」


 光が鼻を鳴らした。


「そもそも、その試合とやらは何なの」


「毎年行われる四つの試練よ」


 アオキが明かす。


「奈落。双牢。天登り。そして雷神競走。……四つすべてを突破した者だけが、ここを去ることを許される」


「では、なぜあなたはまだここにいるのかしら。『副将軍』様?」


「最後の試練よ。雷神競走。……あれを突破するには、四人揃った隊が必要になる。……そのせいで、私は最終段階へ進ませてもらえない」


「まさにそこだ!」


 ダチーが指摘する。


「だったら、隊員を揃える機会に飛びつくべきだろ。……光を入れて、あと一人見つければ――」


「弱い」


「え?」


 アオキが光を指した。


「藤井が近頃こんなものを隊に入れているのなら、あの男も随分と甘くなったものね」


「ごほん。何ですって?」


 光が睨み返す。


「まあ、試してはあげる。……死んだら、私が殺すわ」


 アオキは階上へ向かい、扉を叩きつけるように閉めた。


 ダチーがしばらく、その方向を眺める。


 やがて部屋の臭いに気づいた光が、顔を歪めて鼻を覆った。


「うえっ! あの人、この家を掃除しないの?」


「正直、自分の身体も洗ってないと思うぞ。……なのに顔も肌も完璧なのは、ちょっとおかしいよな」


「それはヴォルティアナ族の性質よ……待って。まさか、あの娘に言い寄ろうとしていないでしょうね?」


「してない……はずだ。いや、今のはただの観察だ! それだけ! ……それより、ほかに隊の誰かを見なかったか?」


 光が首を振った。


「いいえ。……妙なゴブリンとオーク、それから私を肉の塊みたいに見つめてくる、不快な生き物ばかりだったわ」


「だろうな」


 ダチーが玄関の扉を開ける。


 その向こうでは、何十人ものドワーフが入口を埋め尽くしていた。


「器《ホルダー》!」


「俺たちの隊に入ってくれ!」


「あんたは巌雄を破った! あんたこそ新しい王だ!」


 ダチーは即座に扉を閉めた。


「よし、正面から出るのは無理だな。……裏口か何かがあるだろ」


「何を企んでいるの」


 光が訊く。


「四人目の隊員を見つける」


「待って。本気で、あの錯乱した剣士と組むつもりなの?」


「俺はマラチーを取り戻さないといけない。それも今すぐにな。……だから、あいつがここを出るための切符なら、使うしかない」


「冗談でしょう……」


 ダチーは家の中を探し、廊下に外へ通じる窓を見つけた。


 錠を外し、窓から飛び出す。


 渋る光も、その後を追って飛び降りた。


    *


 ダチーと光が、家の裏へ着地した。


 表では、ドワーフたちが扉を叩き続けている。


 だがアオキが扉を開けた途端、全員が互いに躓きながら一目散に逃げていった。


「あんな小さな連中が、あの娘を怖がっているなんて信じられないわ」


 光が嘲る。


「ドワーフって、本当に情けないのね」


「岩はどうしてるかな」


 ダチーが小さく漏らした。


「え?」


「なんでもない」


 二人が通りへ出ると、杖をついた年老いた男の後援者が近づいてきた。


「おお! 器《ホルダー》ではありませんか! そちらはお連れの方ですかな?」


「ええと……あんたは誰だ」


 男が眼鏡の位置を直す。


「私はヴァプロン。黒曜の団における、最下位の序列です」


 光る紫色の線が、男の胸へ数字を描いた。


〈序列:第十六位〉


「あんたらみたいなのが、十六人もいるのか?」


 ヴァプロンが頷く。


「去った者も、命を落とした者もおります。……ですが現在の下位八名は、それで全員です。……上位八名は今なお、誰一人欠けることなく強大なままですがな」


 曲がった腰を伸ばし、骨を鳴らす。


「私も、そろそろ引退する頃でしょう。……老いた身体では、若い者についていけませんのでな」


 光がダチーを庇うように腕を差し出した。


 だがヴァプロンは、手を振ってそれを制した。


「その必要はありませんぞ、お嬢さん。……あなた方を傷つけに来たのでも、器《ホルダー》を捕らえに来たのでもない。……若者の争いは、若者に任せます。私はただ、御案内に参ったのです」


「案内?」


「はい。私は雷神大会の案内役を務めております。……いわば、審判のようなものでもありますな」


「俺がアオキに切り刻まれてたとき、その審判はどこにいたんだ?」


「え?」


 光がダチーを見た。


「あなた、あの娘に襲われたの?」


「ここへ着いた途端にな。……けど、どうやら『予選試合』だったらしい」


 ヴァプロンが身を翻し、通りを歩き始める。


「よろしければ、ついてきなされ。……御滞在中に知っておくべき、この市の見どころを御案内しましょう」


「ええと……わかった」


 ダチーはヴァプロンと並んで歩き、光がそのすぐ後ろへ続いた。


 通りを進むダチーへ、物珍しげな視線が次々と向けられる。


「雷神市は、千年以上前に築かれました」


 ヴァプロンが語る。


「主は、他種族の者たちがヴォルティアナとの戦に備え、力をつけられる場所を望まれたのです」


「つまり、自分の軍へ引き入れるために巨大な闘技場を造ったのか」


「まさに。……かつては主御自身が、この大会を取り仕切っておられました。……ですが今は、下位八名を束ねるイオニクスへ一任されております」


 三人は通りを進み、『灰肉亭』と記された食堂の前で足を止めた。


「ふむ」


 ヴァプロンが店へ目をやる。


「食事が必要なら、プリスマーのところへ来なされ。……私より序列が一つ上なだけでありながら、自らを無敵だと信じ込んでいる男です」


 桃色の結晶のような髪を持つ男が、色眼鏡をかけたまま卓台へ身を預けていた。


 ヴァプロンとダチーに気づくと、眼鏡を外す。


「あ? 見つけたのか、爺さん」


「見つけたのはイオニクスです」


 ヴァプロンが訂正した。


「我らの特別な客人に、一皿こしらえてやってはどうですかな」


「悪いな。オークどもに全部食い尽くされた。……次の仕込み分なら取り置きしてやってもいい。どうする、器《ホルダー》?」


「まあ……頼むよ」


 ダチーが答える。


 ヴァプロンが再び歩き出し、光が落ち着かない様子で二人に続いた。


「さて。今夜の奈落へ挑む人員は、すでに揃っておられるのでしょうな」


「ええと、いや。あと一人必要なんだ。……それに、ほかの隊員が誰も見つからなくてな」


 ヴァプロンが足を止める。


「この近くで、色白の肌と白い髪を持つ娘を見かけましたぞ。……もっとも、実に不愉快な娘でしてな。私を自分の隊へ連れていくと言い張っておりました」


「灯里だわ!」


 光が叫び、ヴァプロンの両肩を掴んだ。


「どこにいるの!」


「おい、光。なんで年寄りに掴みかかってるんだ」


 ヴァプロンが慌てて身を引く。


「確かめに戻った頃には、もう姿を消しておりました。……あの娘は、随分と落ち着きがありませんな」


「当然でしょう!」


 光が声を上げた。


「早く見つけないと! ……この辺りの醜い化け物が、あの子を切り刻もうとしたらどうするの!」


「切り刻もうとするのは、たぶん灯里のほうだぞ」


 ダチーが指摘する。


「けどまあ、灯里をこっちへ引き入れて、あのイカれた剣士も揃えば、楽に勝てるはずだ」


「この広大な市の中で、見つけ出すのは容易ではありませんぞ」


 ヴァプロンが警告した。


「とりわけ、こちらのお連れの背には大きな的が描かれているようなものですからな」


 そう言って、光を手で示す。


「先に闘技場へ向かい、そこで待つのがよろしいでしょう。……あれほど大きな建物ならば、見逃しようがありません」


 ダチーと光が目を見合わせた。


「灯里が来なかったら?」


 ダチーが訊く。


「そのときは、私が連れて参りましょう。……お約束しますぞ」


 しばらく迷った末、光が腕を組んだ。


「わかったわ。必ずお願いね。……それで、奈落とは何なの? 私たちは何をするの?」


「単純です。……あなた方の隊には、総当たり形式の見世物へ加わっていただきます。……そして数秒ごとに、闘技場の床が一部ずつ消えていく」


「『消える』って、どういう意味?」


 闘技場から角笛が鳴り響き、全員の足が止まった。


 市中の拡声器が一斉に息を吹き返し、ウェニレの声を響かせる。


『注目! 出場資格を持つ競技者は、直ちに闘技場へお集まりください! 第一回戦を間もなく開始いたします!』


 ヴァプロンが背筋を伸ばした。


「時間切れですな。……もう一人の隊員を見つけ、急いで闘技場へ向かわれよ!」


 そう告げると、煙に包まれて姿を消した。


「この人たち、どうして揃いも揃って煙なのよ」


 光が苛立たしげに言う。


「見当もつかない。……とにかく、アオキを連れていこう。この機会を逃すわけにはいかない」


    *


 アオキを連れ出した三人は、競技者の列の最後尾へ並んだ。


 複数の隊が、次々と闘技場の門へ導かれていく。


「ふん」


 アオキが唸った。


「またこれね」


 やがて三人の番が来た。


 後援者の衛兵が、門の向こうへ通していく。


 だが、その直前にダチーだけが呼び止められた。


「御武運を、器《ホルダー》」


「……どうも?」


 衛兵が道を空ける。


 ダチーは警戒しながら、その先へ進んだ。


 観客はすでに席を埋め尽くしていた。


 ウェニレは最上段の席へ腰を下ろし、拡声器を唇へ当てている。


『ようこそ、競技者の皆様!』


 観客が大歓声を上げ、方々から拍手が巻き起こった。


『皆様は、この奈落へ挑むために私の前へ立っておられるのですね? ……ならば、いらっしゃい! 闘技場へ入り、それぞれの位置へおつきください!』


「来るわよ」


 アオキが二人へ告げる。


「一人足りないからって、失格にはならないよな?」


 ダチーが訊いた。


「どうでもいいでしょう。私はいつも一人で出ているのだから」


「ああ。だから今でも、ここにいるんだな」


「そのとおりね」


 三人が闘技場の中央へ進む。


 その途端、背後の門が不意に閉ざされた。


 何人もの競技者が振り返る。


 ダチーも同じように門を見た。


『あら? これほど早く始まるとは思っていなかったのですか? ……それなら、今すぐ覚悟を決めることです。――奈落は、すでに始まっています!』


 直後、無数の雷が闘技場へ降り注いだ。


 轟音とともに、床の一部が幾つも砕け散る。


 光がダチーの腕を掴み、強引にその場から引き離した。


 二人が立っていた場所へ、再び雷が落ちる。


『目的は単純です!』


 ウェニレが立ち上がる。


 その声と重なるように、さらなる雷が闘技場へ降り注いだ。


『最後まで生き残る八隊――その一つとなることです!』

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