第五十話「震えているぞ」
王妃が玉座に座る中、灯里が玉座の間へ入ってきた。
「娘よ」
王妃が目を向ける。
「先触れもなく、何用だ」
「私はここに住んでおります、母上」
「否。お前が住んでいるのはS-1邸だ。……もっとも、城を訪れることはいつでも歓迎する。……それで、なぜ来た」
「藤井将軍のことです。あの方を解放していただけませんか」
王妃が玉座の上で背筋を伸ばした。
「なぜそのようなことを求める。……将軍代理でいることが不満なのか」
「隊の半分が失われております、母上。そして現状を安定させ得る唯一の人物が、我が国で最も警備の厳しい施設に閉じ込められているのです」
菖蒲はしばし黙り込んだ。
「明確な証拠がない限り、剣士を解放することはできぬ。それは承知していよう」
「できます! 母上は王妃なのですよ! ……たとえあの方が何かを隠していようと、たとえ事件に関わっていようと、拘束が長引くほど、敵が我らを襲う可能性は高まるのです!」
「ふん。私が言っているのは、そういうことではない。……社会を支える四人――いや、五人の長は、お前が私に英雄を演じてほしいと望んだ程度で退けられる存在ではない。……お前もよく知るとおり、藤井の解放に賛成票を投じたのは監督官のみ。商人は反対し、男爵夫人と執行官はいまだ態度を決めていない。……つまり、最後の一票は法官に委ねられる」
王妃の瞳が一瞬だけ輝いた。
「あの者は、我が国の政と秩序を支える最も重要な駒だ。……法官と剣士のどちらかを選べと迫られれば、私は法官につくほかない」
「では、私はどうなるのです。……私と、ダチーと、残されたS-1部隊は。……私たちも母上の帝国にとって重要な存在のはずでしょう。……それでも私たちを危険に晒すのですか、母上」
「灯里……」
灯里が手を振り、その言葉を遮った。
「私にも長たちの決定を覆す権限があります。私は姫なのですよ。お忘れですか。……この国が危険に晒されていくのを、傍らで眺めてなどいられません」
「小娘が……よもや、その権限を使うつもりではあるまいな」
菖蒲の瞳に炎が灯った。
「ならば私たちを助けてください、母上! 敵は強くなる一方です。そして、あの者たちが求めているものは一つしかない。――器を利用し、私たちをこの世から消し去ることです!」
「私がそれを承知していないとでも思うか。……私はこの国を率いる者であり、国家そのものの顔だ! ……王家と軍の力は、常に敵への抑止となってきた。……だが今、あの者どもは希望を手にした。だからこそ、私は慎重に進まねばならぬ!」
「ですが、母上には状況を変えられるだけの力がある! ……そもそも、長たちなど必要ないでしょう! あの者たちのことなど忘れてください! ……母上とダチーの二人が並ぶだけで、誰もこの国を襲おうとはしなくなります!」
菖蒲が片手を上げた。
「そこまでだ。この話は終わりとする」
「わかりました。では、失礼いたします」
王妃は、娘が身を翻す姿を見つめていた。
腕を組み、城を去っていくその背を険しい目で追う。
やがて腕時計に着信が入り、菖蒲が指を払うと、立体映像が浮かび上がった。
暗い卓と、その上に置かれた巨大な光る拳が映し出される。
「男爵夫人」
「王妃陛下。……御機嫌がよろしくないようで」
「才には恵まれているが、実に傲慢な我が娘が、何やら面倒を起こそうとしている。……聞かせてみよ。反抗的な子を、お前ならどう扱う」
「なんとも申し上げられません。子というものは、私には縁遠い概念ですので。……ですが、御息女を遠ざけるべきではないと存じます、陛下。……とりわけ、王家の他の方々があのような有様となった今は」
菖蒲が床へ目を落とした。
「私は五百年以上、この国の顔として生きてきた。……数え切れぬほどの命を奪ってきた。……その結果、我らには外からの支えが何一つない。我ら自身を除いてな」
その手が固く握り締められる。
「状況は理想から程遠い、男爵夫人。……認めよう。我が娘の言葉は正しい。……今は、法官や他の長たちが駆け引きに興じている場合ではない」
「我らが倒れることはありません」
男爵夫人が断言する。
「ですが、法官を説き伏せるのは難しいでしょう。……長たちの意思を執行するあの方が、望む結果を得られなかった場合、我らはさらに深い穴へ落ちかねません」
「ならば、器が我らの最後の手段となる」
菖蒲が答えた。
「我が器がな。……梅子の状況はどうだ」
「ゴブリンによる襲撃が発生しました。……そして、それ以上に重要なこととして、監督官より……興味深い発見の報告がございました」
「何だ」
「器の力を得るには、何らかの形で本人の同意を要するとのことです」
王妃が身を乗り出した。
「同意だと?」
「はい。藤田にも詳しい仕組みはわからないそうですが、これまで我らが目にしてきたものとは符合します。……あの少年の力が完全に発現した唯一の機会は、本人が敵を止めるという意志を固めていたときでした」
王妃が深く息を吸った。
「同意。……だが、どのような形の同意だ。……我らは脅しと力によって、その可能性をすでに潰してしまったのか」
しばらく考え、首を振る。
「否。もしそうであったなら、あの者はとうにその力を我らへ向けているはずだ。……慎重に動かねばならぬ、男爵夫人。……器は我らの同盟者だ。少なくとも、我らがそう考えていることを示さねばならぬ」
「承知いたしました、陛下」
立体映像が消えた。
「気になるな」
菖蒲が独りごちる。
「藤田の報告が真であるなら……あの者が我が国を心から信頼したとき、さらに強大な形で力を引き出せるのだろうか」
目を閉じる。
「試す価値はある。……この審理を片づけた後でな」
国王が玉座の間へ入ってきた。
その手には、大きな水差しと二つの金属の器を載せた盆がある。
「妃よ、茶はどうだ」
「今はそのような気分ではありません、あなた。……新たな情報によって、事態がさらに複雑になりました」
「どういう意味だ」
「問題そのものへ手を打つべき時が来たという意味です。……我が国に秩序を取り戻します。さもなくば、我らは文字どおり消滅することになる」
王妃が顔を上げた。
「審理を前倒しにせよ。二日後に始める」
*
迅雷は、巨大な竜が地面へ膝をつく姿を見つめていた。
迅雷がその光景を理解するより早く、開いた機体からダチーが飛び出し、狙撃銃を向ける。
「両手を上げろ、ゴブリン!」
迅雷がダチーへ向き直った。
「器か」
迅雷が一気に躍りかかる。
だがダチーが引き金を引き、その翼を銃弾で貫いた。
迅雷が反撃するより先に、ダチーは腰の刃を抜き、手の中で回転させながら連撃を受け止める。
そこへマラチーの触手が叩き込まれ、迅雷を兄から引き離した。
「兄さん! 間に合ったんだね! 今までどこにいたの?」
「ちょっと盗みに入るので忙しくてな。悪い」
「え?」
マラチーがダチーの新しい鎧を指で突いた。
「それに、これは何なの? 何か特別な新装備?」
「まあ、そんなところだ。ちょっとした改良をもらった! ……それより竜を見ろ。今は自分の頭で考えられるんだぞ!」
まるでその言葉に応えるように、ファイドーが咆哮を上げた。
竜の口からプラズマの光条が放たれ、ゴブリンたちを後退させる。
何体ものゴブリンが酸を吐きかけたが、ファイドーは次の光条で残らず焼き払った。
マラチーは、その姿を見つめたまま動けずにいた。
「あの子に何をしたの? どうして自分で歩いて、喋って、光条まで撃てるの? 僕にだってできなかったのに!」
「妙な人工知能を突っ込んだんだよ。……前は人間だったらしいけどな。今じゃゴブリンの尻を蹴り飛ばす気満々の、最高の竜だ」
迅雷が首を鳴らし、展示ブースを持ち上げてファイドーへ投げつけた。
ファイドーは前脚でそれを掴み、その場で握り潰す。
そして砕けた破片を、ゴブリンの主へ投げ返した。
その隙に、迅雷の分身がダチーとマラチーの間へ現れる。
二人が咄嗟に前腕を掲げたところへ拳を叩き込み、まとめて地面へ打ちつけた。
「交代だ」
迅雷が命じる。
「器は余が仕留める」
分身は躊躇なくファイドーへ向かい、本体の迅雷がダチーとマラチーを壁の向こうまで殴り飛ばした。
ルカが大猩猩へ変わり、迅雷の背へ跳び乗る。
その後頭部へ何度も拳を振り下ろすが、まるで効いていない。
迅雷が翼を一度羽ばたかせただけで、ルカの攻撃は終わった。
ルカは仲間たちのもとへ転がり込み、元の姿へ戻る。
ダチーとマラチーが身を起こす中、迅雷が三人の正面へ降り立った。
「兄弟が二人か」
迅雷が鼻を鳴らす。
「かつての余と、我が妹を少しばかり思い出させるな」
「妹? あんたの妹って誰だよ」
迅雷は笑い、ダチーの腹へ強烈な蹴りを叩き込んだ。
マラチーの触手がプラズマの刃を形成し、迅雷の両腕を斬り裂く。
続いてルカが斧を生み出し、その胸へ一撃を叩き込んだ。
戦いが続く中、ダチーは頭上の屋根に立つ公爵の姿に気づいた。
高みから戦いを見下ろしている。
「なんだ、あいつ。誰なんだ?」
ルカが迅雷の一撃を辛うじて躱し、ダチーの隣へついた。
「公爵だ。あいつが全部仕組んだ! ……でも、なぜだ? どうしてゴブリンがヴォルティアナ族の命令を聞く?」
迅雷がルカの足元へ酸を吐きつける。
ルカは狼へ変わって跳び退き、そのまま迅雷の顔を爪で切り裂いた。
その隙にダチーが踏み込み、迅雷の両膝を斬りつける。
それでもゴブリンは揺るがない。
代わりに翼を激しく羽ばたかせ、猛烈な乱気流を引き起こした。
三人の体が宙へ巻き上げられ、そのまま吹き飛ばされる。
ダチーが再び屋根へ目を向けると、公爵の姿は消えていた。
そこには外套が一着、脱ぎ捨てられているだけ。
「公爵……?」
考える暇はなかった。
ドンッ。
迅雷の突進がダチーを壁へ叩き込み、金属の表面に亀裂を走らせる。
大工場の防衛機構が作動し、周囲の建物や足場が位置を変え始めた。
ダチーは動き出した構造物の一つへ掴まり、迅雷は向かい側の建物へ降り立つ。
ルカとマラチーが足場を渡り、ダチーのもとへ辿り着いた。
ダチーは周囲を見回す。
「二人とも、何もかも筋が通ってない。……将軍たちがいない。修もいない……」
「僕もそう言ったんだよ!」
マラチーが同意する。
ダチーは、ファイドーが岳斬と迅雷の分身を相手に戦い、その足元で西山と亜斗夢がゴブリンたちを食い止めている光景を見た。
「あの公爵だけどな。どうして、あいつが仕組んだとわかった?」
「マラチーを北へ連れて行こうとしたんだ」
ルカが答える。
「それを断られた直後、この襲撃を指図しているところを俺が見た」
ダチーの目が見開かれた。
「待て。もし、あれが本当の公爵じゃなかったとしたら――」
迅雷が建物へ激突した。
それと同時に足場が動き、少年たちは揃って地面へ落下する。
ダチーは即座に起き上がり、ファイドーのほうへ走り出した。
「兄さん!」
マラチーが叫ぶ。
「どこへ行くの!」
マラチーとルカも追おうとする。
だが迅雷が飛びかかり、二人を地面へ組み伏せた。
ダチーはさらに速度を上げる。
数体のゴブリンがその後を追おうとしたが、進路へ割り込んだファイドーに激突した。
その隙に、ダチーは奥の部屋へ飛び込む。
「ダチー?」
西山が気づいた。
「どこへ行くのよ、この間抜け!」
女も追おうとしたが、その目の前でダチーが扉を閉ざした。
*
長い階段を、ダチーは一人で駆け下りていった。
やがて金庫へ辿り着く。
果たして、その扉はすでに開かれていた。
ダチーが慎重に中へ足を踏み入れる。
金庫の中央には、一つの人影が待っていた。
「やっぱりな」
人影が振り返る。
「アルテルナ」
アルテルナが腰へ片手を当てた。
「賢い。実に賢い御方です。感心いたしました。……ヌルスの報告は、あなたを正当に評価できていなかったようですね」
「どうやって誰にも見られずに竜から出た? ……あんた、ゴブリンなんだろ?」
アルテルナが片眉を上げる。
次の瞬間、その姿が明滅した。
黒い肌が緑色へ移ろい、背中から巨大な翼が生え出す。
「間違ってはいません。……かつては、そうでした」
翼が消え、肌が元の色へ戻った。
「ですが、今はもう違います。……人間も、ゴブリンも、ドワーフも、もはや何の意味もありません」
「道理で、あいつらの居場所を知ってたわけだ。……あんたはこの間ずっと、頭目みたいにあいつらへ指図してたんだな! ……それに、迅雷の妹でもあるんだろ?」
「そこまでわかっていながら、なぜここへ降りてくる危険を冒したのです。……しかも、たった一人で」
「本人の口から聞かないと駄目だったからだ。……あの公爵は、この島へ来てすらいないんだろ?」
アルテルナが首を振った。
「一度も足を踏み入れておりません。……私が関わっていると知った途端、あの方は実に素早く便を取り消しましたよ」
「展示会で俺を外に出した修も、あんただったのか」
「御名答。……本物の修たちには、我が同胞がうまく気を逸らしてくれました。……腕時計を御覧なさい」
ダチーが腕時計に梅子各地の映像を呼び出した。
そこには修と他の兵士たちが、島の各所でゴブリンと戦う姿が映っている。
「疑ってはいた。けど、これではっきりした。……あの日、藤井の姿をしていたのはあんただ! ……兵士たちを殺して、静を襲ったのも、あんただった!」
アルテルナの唇に、不気味な笑みが浮かぶ。
その姿が藤井へ変わり、手の中に氷の刀が形成された。
「私の形属性は、他者の姿だけでなく、その力までも完全に複製できます。……外見を模倣することしかできないオシックスとは違ってね」
「だから誰もが信じたのか。全部、あんたが仕組んだんだ! ……俺に嘘をついた! あんたは和平なんて望んでない!」
「望んでいますよ。……私の計画も、あなたへ明かしたことも、一度として偽りではありません。……ただ、あなたに決断を迫るため、手札を正しい順番で切る必要があっただけです」
その姿がアルテルナへ戻る。
「それで、以前の取り引きはまだ有効ですか」
「取り引き? まだ俺と取り引きするつもりなのか?」
「もちろんです。今度は、新しい条件で」
「新しい条件――?」
アルテルナの全身から、禍々しい紫の力が噴き出した。
「私を打ち負かせば、私はこの島を去ります。……ですが、あなたが敗れれば、私と共に来ていただく」
「あんた、本当に狡猾な女だな。……女だろうが、この拳は遠慮なく受けてもらうぞ!」
アルテルナが笑った。
「そうですか?」
ダチーの全身に、灰色の光が戻ってくる。
その圧力は凄まじく、金庫の壁と床へ次々に亀裂が走り始めた。
それでもアルテルナは微動だにしない。
ダチーの髪が逆立つ。
腰を落として構え、鎧の脇から刃を抜き放った。
アルテルナの体が暗い力をまとい、激しい音を立てる。
そして、ゆっくりとダチーへ歩み寄っていった。
「震えているぞ、ダチー・ジョーンズ」




