第四十四話「梅子の乳」
灯里、沙織、光はS-1邸の居間に集まり、卓上へ散らばった氷の破片を検分していた。
沙織は少し離れた場所に座り、目を閉じている。
灯里が破片の一つを拾い上げ、手の中で裏返した。
「本当に、あの方のものと一致するのか、光?」
「私は藤井に触れたことがあるのよ、灯里。……遺伝情報は、ほぼ百パーセント一致している。否定しようのない数値だわ」
「それでも、あの方のものではない可能性が〇・二パーセント残っている。……我らが注目すべきはそこだ。何か、まだ掴めていないものがある」
「そうかもしれない」
光が深く息を吐く。
「私だって信じたくないわ。……でも、本当に藤井将軍が後援者たちと手を組んでいた可能性はないの?」
「わからん」
「灯里、あなたは今、将軍でしょう! 答えを持っていないと駄目じゃない!」
「無い! わからんと言っている!」
灯里が思わず声を荒らげた。
「このような立場に立つのは、私も初めてなのだ! ……藤井を数えなくても、すでに部隊の半分が不在だ。そのうえ、あの方の審理まで一週間を切っている! ……手元にある証拠を整理し、欠けているものを見つけ出すしかない!」
沙織が床へ目を落とした。
「大丈夫です、本当に。……たとえ藤井将軍が有罪だったとしても、母上を殺そうとした者たちと戦ってくれた皆さんを、私は信じています」
拳を膝の上で握り締める。
「藤井将軍を許すことはできません。……でも、私は皆さんの側にいます」
灯里が沙織のもとへ歩み寄った。
「では、お前も……藤井将軍が犯人だと信じているのだな?」
「そう考えずにいられますか? ……オシックスが姿を変えられたのは確かです。でも、藤井将軍の能力まで複製することはできない」
沙織が氷の破片へ目を向ける。
「つまり、藤井将軍が武器を提供したか、自ら手を下したかのどちらかです。……あの氷で作られた箱が、それを証明しています」
灯里が背筋を伸ばした。
「ふむ。……それでも私は、調べ続ける。敵に内側から我らを砕かせるわけにはいかん」
灯里は二人を見回した。
「これこそが、奴らの望みなのだ。わからんのか? ……我らの最強の戦士が枷を嵌められている今、奴らは遥かに大きな優位を得ている」
苛立たしげに唸る。
「奴らは、我らを土台から砕こうとしている。だが、私はそれを許さん。……二人とも卓へ来い。手元にあるものを、すべて確かめるぞ」
沙織と光は渋々、居間の卓へ集まった。
灯里が氷の破片を並べ、腕時計から劇場の記録映像を投影する。
「どうやって、その映像を手に入れたのですか?」
沙織が訊いた。
「お嬢さん、私はヴォルティアの姫だぞ。……多くのものに手が届く。そして信じてよい。実に多くのものにな」
灯里が指先で記録を遡っていく。
「事件当日まで巻き戻す。……沙織、外していたければ、それでも構わんぞ」
「私は小さな子供ではありません」
沙織が強い口調で答えた。
「真実を知りたいんです。犯人が藤井将軍でも、オシックスでも」
灯里は記録を遡り続け、やがて舞踏会当日の映像へ辿り着いた。
舞台上では、沙織と静が踊っている。
その直後、劇場の照明が一斉に落ちた。
灯里が映像を止める。
「戻して!」
光が声を上げた。
「今、何か見えた気がする!」
灯里が映像を数秒だけ巻き戻す。
照明が落ちる寸前、直哉と応輝が舞台裏へ続く扉のほうを見ていた。
沙織と光が、揃って映像へ身を寄せる。
灯里が再生すると、照明が消えたまさにその瞬間、男二人が座席から立ち上がった。
暗闇。
やがて照明が戻り、映像に腹部を刺された静の姿が映し出される。
灯里が映像を止め、画面の一部を拡大した。
さらに拡大した瞬間、三人の芯を揺さぶる光景が露わになった。
「あの人たち……逃げているの?」
光が呆然と呟く。
「扉のところにいるわ! でも、どうやって? 理屈が通らない! もし、あの二人がやったんじゃないのなら……」
確かに、直哉と応輝は逃げ惑う住民たちに紛れていた。
その一方で、舞台上では藤井が静の腹部から刃を引き抜き、その場から走り去っている。
灯里が卓へ掌を叩きつけた。
「違う、違う、違う! こんなはずがない!」
映像が突然切り替わった。
代わりに、両手を背中へ回した米村の立体映像が現れる。
「申し訳ありません、姫殿下。……ですが、これで真実を御覧になった」
「米村、どういうことだ? 貴様がこの映像を細工したのか?」
「これは未編集の記録映像です、姫殿下。我々全員が確認しました。……存在しない証拠を、私が作り出すことはできません」
米村が淡々と続ける。
「皆様は、オシックスが姿を変えられるという理由だけで、藤井将軍は潔白だと性急に決めつけられた。……ですが、それこそが藤井将軍の狙いだったとしたら?」
「残念ながら、事実は事実です。現場に残された力はあの男のものと一致し、犯行が起きた瞬間、容疑者二人は舞台上にいなかった」
「それがどうした! あの方を、このまま閉じ込めておくつもりか? ……それが我が国を害するとわからんのか!」
「裏切り者を隊列の中へ残しておくほうが、遥かに深刻な損害を招きます」
米村の表情は変わらない。
「現時点で、藤井将軍を姫殿下、ダチー、あるいは社会の誰かへ近づけることは認められません。……無実を証明する証拠がおありなら、集められることです。そして、それは疑いを覆せるだけのものでなければならない」
米村が通信を切った。
「まあ……」
沙織が静かに口を開く。
「姫殿下は、できる限りのことをしてくださいました。……私のために調べてくださって、感謝しています。……でも、もう答えは明らかだと思います」
灯里が静かに立ち上がり、腕時計を操作する。
「よかろう。……坊主どもにも伝え、あの者たちの考えを聞く。……将軍を失う危険があるのなら、この件で部隊まで割れる事態だけは避けたい」
灯里が発信釦を押した。
〈ダチーへ発信中〉
*
ダチーとアルテルナは、揃って外套をまとい、建物の屋上に設けられた露台にいた。
日除け用のパラソルの下、卓を挟んで向かい合って座っている。
アルテルナが珈琲の入った器を、ダチーの前へ押し出した。
二人の背後には、『梅子の乳』と記された喫茶店の看板が掲げられている。
客たちは、珈琲やドーナツを載せた盆を手に、店内を行き来していた。
「その外套、どこで手に入れたんだ?」
ダチーが訊く。
「アスマナ森林を思い出すな」
「応輝が用意したものです」
アルテルナが答える。
「いえ、あなたの知る名ではオシックスでしたね。……あの者は、我らの偵察役です。いつも、我らが周囲へ紛れ込む方法を見つけてくれる。……こうした機会に備え、私は常に何着か手元へ置いています」
「今も、どこかから見られてるんだろうな」
「おそらくは。……ですから、あなたに何もかもを明かすわけにはいかないのです」
アルテルナが珈琲へ目を向ける。
「ですが、珈琲だけは心から楽しんでいただきたいですね」
「そりゃどうも。……なあ、あんたがそこまでイカれた女じゃなかったら、これはけっこう楽しい逢瀬になったかもしれないぞ」
「なんですって? 失礼な方」
アルテルナが呆れたように目を回した。
「何か仰りたいことがあるのでしょう。……どうぞ」
「こうして話を続けたいなら、一つ約束してくれ。この島では誰も傷つけない。命を奪うような真似もしない。いいな?」
ダチーが片手を差し出す。
「……その代わりに、俺の連絡先を渡す」
アルテルナが片眉を上げた。
「それは、口説いていらっしゃるの?」
「違う。商談だ。……あんたら変人どもは、俺を仲間へ引き入れたいんだろ? 今のところ、差し出せるのはそれが限界だ」
「前進ではありますね」
アルテルナがダチーを見定める。
「本音を申せば、もう少し先まで進めたいところですが……そうはならない気がいたしますので」
「ならないね。……それで?」
「受け入れましょう。……そもそも、この都市を本気で平らにするつもりなどありませんでした。何しろ私は、それを守るために雇われたのですから」
アルテルナが珈琲を一口啜った。
「今度は、私的な話をしましょう。……今日は一日中、取り引きの話ばかりでしたから」
アルテルナが卓へ頬杖をつく。
「あなたは、どちらのお生まれですか?」
「知ってるだろ。エストリウムだ」
「国ではなく、街のことを訊いているのです。……まったく。女性が気軽な世間話をしてはいけませんか?」
「はあ……。シルバーオークって街だ」
ダチーが記憶を辿る。
「そこには、奥田、ミヒナ、カイって同級生がいた。親友のアヤナと、弟のマラチーもな」
アルテルナの動きが止まった。
だが、しばらくすると何事もなかったように珈琲を啜り始める。
ダチーも器を手に取り、一口飲んだ。
「あんたは? どこの出身なんだ?」
「私ですか。……我が故郷は、ここから遥か遠く離れています。ヴォルティアとは、まるで似ていない。もっと……人目を避け、閉ざされた場所です」
アルテルナの視線が、遠くへ向けられる。
「私はそこで両親に育てられました。……二人とも、戦争で命を落としました」
「そうか。……それは悪かったな」
「構いません。遥か昔のことです。……ですが、だからこそ私は黒曜の団へ加わった。両親を奪った者たちに対し、変化を起こせる立場へ立つために」
「また復讐の筋書きか」
「いいえ。変化です。……外交によってであれ、力によってであれ。変化はいずれ訪れます」
「ふうん。……俺がこれまで話した連中は、大量虐殺だの完全な殲滅だの、そんなことばかり口にしてたけどな。どうして、あんたはそんなに落ち着いてる?」
「果てのない暴力は、誰をどこへも導かないからです」
アルテルナが静かに答える。
「ヴォルティア族が死ねば、私が涙を流すか? いいえ、流しません。……ですが、あの者たちを残らず殺したところで、問題を先送りにするだけです」
その声が僅かに冷たくなる。
「我が主には、それが見えていない。……ドワーフが消えれば、次はゴブリンが立つ。世界は暴君という存在に慣れきっている。ならば、今の暴君が消えた後には、次の暴君を探すだけです」
「じゃあ、あんたは何を望んでる?」
「あの者たちを生かしたまま放置し、自らの罪の中で苦しませることです」
アルテルナは淡々と告げる。
「我らは器を手に入れ、あの者たちは残された生涯のすべてを、死への恐怖に怯えながら過ごす。……その間に、世界が追いつくかもしれない。あるいは、あの者たちを拭い去るかもしれない」
「どちらになるかは、私にもわかりません。……ですが、その頃には、もはや私の問題ではありません」
ダチーがもう一口、珈琲を啜った。
「あんたら、全員が同じ考えってわけじゃないんだな」
「まったく揃っておりません。……自らの務めなど気にも留めず、面白半分で加わっている者もいる。執拗なまでに献身的な者もいる。……そして、精鋭たちのように、何を考えているのかまるで読み取れぬ者もおります」
「そもそも、黒曜の団って何なんだ? あんたらの種族の名前か?」
アルテルナが首を振る。
「我らがかつて何と呼ばれていたのかは、長い時の中で失われました。……ゆえに、種族としては後援者を名乗っています」
アルテルナが自分を指す。
「その後援者たちを率いる者が、黒曜の団と呼ばれる。……我らは、その……あなた方にとっての将軍のようなものです」
そう説明すると、両脚を卓の上へ乗せた。
「ふむ。これは美味しいですこと」
ダチーの腕時計が震えた。
「ああ、灯里か。どうして俺に掛けてくるんだ? ようやく俺を嫌うのをやめたのか?」
「あら? 連絡先に、ほかの女性もいらっしゃるの?」
「なんで驚いた顔をするんだよ」
アルテルナが軽く手を振った。
「いえ、なんでもありません」
ダチーが通信に応じる。
「はい、こちらダチー様です。何か御用でしょうか?」
灯里の声が腕時計から響いた。
「ダチー、見つけたものがある」
「何を?」
「集めた証拠のすべてが、藤井を指している」
「なんだって? オシックスの隠れ家に繋がる痕跡も、何も見つからなかったのか?」
「無い。バタンゴの人間どもは何の役にも立たん。それに、例の端末も消えていた。……もっとも、中身には意味のある情報など何一つ残されていなかったがな」
灯里の声に苛立ちが滲む。
「捜査官どもは、ヌルスとオシックスが我らを襲ったという事実にすら目を向けていない。藤井があの二人へ手を貸したと考えている」
ダチーが片手で顔を覆った。
「どれくらい分が悪い?」
「現場に残された遺伝情報が、藤井と九十九・八パーセント一致している。……氷の破片も、藤井の刀と完全に符合した」
灯里が僅かに言葉を詰まらせる。
「そのうえ、襲撃が起きた瞬間、容疑者二人が避難する住民たちに紛れて逃げていく姿を、記録映像が捉えていた」
「なんだと? 本気か?」
「それ、ダチー?」
光の声が通信へ割り込む。
「私もお話ししていいですか?」
今度は沙織の声が加わった。
灯里が苛立たしげに咳払いをする。
「待て。今は私が話している。……ともかく、その梅子での任務を急げ。お前と私が証言すれば、この状況を覆す道を見つけられるかもしれん」
「おお、それならいい知らせがあるぞ! この状況へ光を当てられそうな相手が、こっちにいる!」
「……なんだと?」
「後援者の一人だ!」
「後援者の――何だと!?」
「じゃあ、また後でな! 切るぞ!」
「ダチー、貴様、もし――!」
ダチーは素早く通信を切り、アルテルナへ向き直った。
「聞いてたか? 本土の状況が険しくなってきてる。……オシックスとヌルスがどんな小細工を仕掛けたのか知らないけど、あんたがそれを暴かないとな」
アルテルナが喉を鳴らして笑った。
「あなたが、私との取り引きを果たしてくださったなら」
「はいはい。持ちつ持たれつだろ」
アルテルナが片手を上げる。
「それと、あなた方の民が私へ加えようとする、あらゆる報復に対する完全な免責を求めます」
「なんだって? どうしてだ?」
「私はヌルスとオシックスに繋がっています。……あの二人が殺人を犯し、名高い貴族を殺しかけたと法廷で証明すれば、当然ながら、あなた方は私の首も求めるでしょう」
アルテルナがダチーを見据える。
「ゆえに、完全な法的免責を要求します」
「俺にどうしろっていうんだ? ただの兵士だぞ」
「あの者たちにとって、極めて重要な兵士です」
アルテルナが声を潜める。
「器は、あなた自身の意思でしか力を貸さない。あの者たちは、まだその規則を知らないかもしれません。……ですが、それを知れば、あなたは交渉の主導権を握ることになる」
「その力を、私の身を守るために使っていただきたいのです」
「ふん。わかったよ。……あんたが事件へ関わってないなら、向こうだって気にする理由はないだろうしな」
「連座というものですよ、お坊ちゃん。……だからこそ、姫を襲ったのがあなただけだったにもかかわらず、あの者たちはマラチーまで共に牢へ放り込んだのでしょう?」
「どうして、それを知ってる?」
「繋がりです。……あなたが打ち倒したあの男は、あなたがこの地へ足を踏み入れて以来、ずっとその旅路を監視していました」
「あんた、本当にとんでもない女だな。……俺の頭を完全に操ろうとすること以外に、あんたの傍にいる利点はあるのか?」
アルテルナが珈琲を飲み干した。
「私の部屋へお越しくだされば、これよりも美味しいものを淹れて差し上げます」
「はいはい。……それには、俺の飲み物へ薬を盛ることも含まれてるのか?」
「なぜ、わざわざそのような手間を?」
アルテルナが器を卓へ置いた。
「この会話は気に入りました。……さて、あなたの連絡先を頂く時間です。人々に不審がられる前に戻りましょう」
アルテルナが携帯端末を差し出す。
ダチーは番号を入力し、女へ返した。
「ありがとうございます。……すべてが上手くいけば、いずれ私たちは互いを……友と呼べるかもしれませんね」
「ああ。そして、その後で俺を攫おうとするんだろ?」
「その時が来れば、あなたにもわかりますよ」
ダチーは立ち上がり、椅子を卓の下へ戻して歩き出した。
だが、数歩進んだところで足を止める。
振り返ると、アルテルナはまだ背を向けて立っていた。
ダチーがその肩を軽く叩く。
「おい? 行くのか、それとも――」
振り向いたのは、見知らぬ住民だった。
「え? ……あっ! 器だ! おい、みんな! 見ろ! 器だぞ!」
その声を聞きつけた人々が、瞬く間にダチーの周囲へ押し寄せる。
衛兵たちも、そう遠くない場所にいた。
「失礼いたします、ジョーンズ殿! 我々が同行できないのであれば、監督官は宿泊施設に留まっていただくことを望んでおられます!」
ダチーが慌てて周囲を見回した。
「なんだよ……。あの女、どこへ消えた?」
ようやくその姿を捉えたとき、アルテルナは離れた建物の屋根に立っていた。
こちらへ手を振る。
投げ口づけを一つ寄越し――
そのまま、屋根の縁から身を投げた。




