第四十二話「九十九・八」
岳斬が小柄なゴブリンたちを押しのけ、ダチーの顔へ威嚇するように息を吐きかけた。
鋭い爪が薙ぎ払われると同時に、ダチーは素早く小銃を抜く。
数発の銃弾を撃ち込むが、岳斬はそのすべてを受けても倒れない。
岳斬が大きく口を開き、ダチーへ酸を吐きつけた。
だが、酸は空中で静止した。
そのまま地面へ落下し、コンクリートを溶かしながら、その奥へ消えていく。
双方が動きを止め、同時に脇へ顔を向けた。
そこには西山が立っていた。
先ほどよりもさらに怒りに満ちた顔で、その目元は苛立たしげに引き攣っている。
「ちょっと」
西山が割って入る。
「誰が、こいつとの話は終わったと言ったのよ。この間抜け」
岳斬が西山を指差した。
「その女を殺せ!」
周囲のゴブリンたちが一斉に西山へ飛びかかった。
その体が光の中で明滅し、やがて完全に姿を消す。
西山は静かに目を閉じた。
「呼吸は聞こえているわ。……この小さな技術都市は騙せても、私は騙せない」
その瞳が鋭く閃いた。
ゴブリンたちが一斉に姿を現し、空中で身動きを封じられる。
西山が拳を強く握ると、ゴブリンたちは呼吸を乱し、激しく咳き込み始めた。
そこへ容赦なく銃弾を撃ち込み、一体ずつ仕留めていく。
だが、さらに多くのゴブリンが押し寄せてきた。
亜斗夢、ルカ、マラチーも戦場へ戻り、西山の周囲へ着地する。
三人がゴブリンの群れを食い止める一方で、岳斬は巨大な拳を振り上げ、ダチーを叩き潰そうとした。
ダチーが撃ち続けた銃弾は、執行者の肉体へ小さな穴を穿っていく。
それでも岳斬は、平然と立ち続けていた。
次の瞬間、その巨体が透明になる。
ダチーには、見えない何かにあらゆる方向から殴りつけられるのを耐えることしかできなかった。
腰の刃を掴み、手当たり次第に空を薙ぎ払う。
しかし岳斬は頭上へ現れ、鋭い爪をダチーの肩へ食い込ませた。
そこへマラチーの触手が巻きつき、岳斬を強引に引き剥がす。
「大丈夫だよ、兄さん! 僕がついてる!」
岳斬の意識がマラチーへ移った。
マラチーは何発ものプラズマ弾を撃ち込む。
三本の触手を脚代わりにして動き回りながら、残る一本で岳斬を何度も殴りつけた。
「技術属性か……」
岳斬が見抜く。
「二人とも連れていけ!」
マラチーの触手が岳斬の片腕へ絡みつき、強引に引き下ろした。
その隙を突き、ダチーが岳斬の顎へ拳を叩き込む。
だが不運にも、岳斬はほとんど身じろぎすらしなかった。
爪が一度振るわれただけで、ダチーの腕が肩から外れる。
「痛っ! くそっ! なんで俺ばっかり、こうなるんだよ!」
岳斬がダチーへ飛びかかり、その巨体で地面へ押さえ込んだ。
直後、マラチーが形成した巨大な金属の腕が、岳斬を横から殴り飛ばす。
「大丈夫?」
「腕だけだ。……また、不死身じゃない普通の人間に戻った気分だよ」
「ほら、直してあげる」
マラチーがダチーの腕を掴み、一気に関節へ嵌め直した。
ダチーが苦痛に顔を歪め、痛む肩を慎重に撫でる。
だが、そこへ意識を割いている余裕はなかった。
岳斬が二人の頭上へ舞い上がり、マラチーの攻撃を縫うように飛び回る。
二人が岳斬へ引きつけられている間、狼となったルカはゴブリンの群れを爪と牙で切り開いていた。
酸が唾のように飛び交う。
その一部がルカの尾へ付着し、肉を溶かしながら、やがて尾そのものを消し去った。
それでもルカは構わず、ゴブリンたちの足首や脛へ次々と噛みつき、骨ごと砕いていく。
西山と亜斗夢は背中合わせになった。
気づいた西山が、即座に亜斗夢を押しのける。
「向こうへ行きなさい、このろくでなし!」
「信じてもらって構わんが、余とて可能な限り貴様から離れていたい。……だが、今は任務中だ。これを果たさねば家へ帰れん」
西山が不満げに唸る。
「わかったわ。でも、私には近づかないで」
一体のゴブリンが爪を立て、西山へ手を伸ばす。
西山はその動きを空中で封じ、そのまま頭蓋を銃弾で撃ち抜いた。
別の一体が背後から首を掴む。
だが次の瞬間には地面へ崩れ落ち、息を求めて喘ぎ始めた。
亜斗夢はその様子を横目で眺めながら、振り返ることさえせず、硝子へ変えた片腕で別のゴブリンを払い落とす。
さらに一体が正面から迫ると、その腹部へ渾身の拳を叩き込んだ。
少しずつ、ゴブリンの群れが薄れていく。
やがて三人は、岳斬がダチーとマラチーを片手に一人ずつ掴み、宙へ吊り上げていることに気づいた。
「馬鹿げているわ」
西山が鼻を鳴らす。
自由に動かせるマラチーの触手が振るわれ、岳斬の片目を突き刺した。
だが岳斬はその一撃にも耐え、二人を掴む手を僅かにも緩めない。
「為すべきことを為すぞ」
亜斗夢が命じる。
二人が踏み出そうとした、その直前――
二本の斧が唸りを上げて飛来した。
岳斬の肉を深く削り取り、掴んでいた少年たちを手放させる。
岳斬が顔を上げたときには、すでに首へ鎖が巻きついていた。
凄まじい力で引かれ、その巨体が地面へ叩きつけられる。
直後、森野が岳斬の正面へ降り立った。
「悪いな」
森野が告げる。
「儂の孫どもを連れて逃げさせるわけにはいかんのでな」
「孫?」
西山が目を見開いた。
「将軍、この間抜けどもと血が繋がっているのですか?」
「失礼な女だな」
ダチーが鼻を鳴らす。
「祖父さん!」
マラチーが歓声を上げた。
岳斬の体が一度明滅し、その姿が消える。
森野は静かに目を閉じた。
頭部へ迫る爪の風切り音を捉えると、振り向きもせず斧で軽々と逸らす。
空中に威嚇するような息遣いが響き、さらに多くのゴブリンが戦場へ飛び込んできた。
一斉に森野へ酸を吐きかける。
将軍は間髪を入れず、突風を生み出すほどの勢いで二本の斧を回転させた。
酸は空中で軌道を変え、そのまま襲撃者たちへ跳ね返る。
ゴブリンたちの肉体が、悲鳴と共に溶けていった。
さらに四体が、同時に森野へ飛びかかる。
――一閃。
次の瞬間には、四体すべての翼が斬り落とされていた。
岳斬が姿を現し、森野の斧へ拳を叩きつける。
二本の斧が淡い青色の光を放ち――次の瞬間、巨大な青い炎の柱が噴き上がった。
あまりの眩しさに、その場にいた全員が後ずさる。
岳斬の両腕が、青い炎の中で焼き尽くされた。
森野が斧を一閃させ、その片脚まで斬り落とす。
岳斬が体勢を崩しながら後ずさった。
「化け物め! 人間の身で、なぜそのようなことができる!」
「何年もの鍛錬の成果だ」
森野が答える。
「それと、この可愛い相棒たちのおかげでな」
二本の斧を誇らしげに掲げてみせた。
岳斬はその隙に透明化する。
森野は、翼の羽ばたく音が次第に遠ざかっていくのを黙って聞いていた。
「ああ。逃げたな」
森野が斧を収め、少年たちへ向き直る。
ダチーとマラチーは、ただ呆然と祖父を見つめていた。
「今の、どうやったんだよ、祖父さん?」
ダチーが訊く。
「言わなかったか? 努力は報われるんだよ、坊主。……お前ら二人には属性がある。十分に励めば、いずれこの水準まで来られる」
マラチーが興奮しながら、森野の斧を指で突き始めた。
「すごい! これを見てよ! 炎を出せるの? これは技術? それとも魔法?」
「両方が少しずつ、といったところだ。……詳しい話はまた別の日にな」
森野が声を潜める。
「だが、秘密を一つだけ教えてやろう。――この斧には、魔法が込められとる」
「本当に?」
西山が腕を組んだ。
「この者たちは、本当に将軍の血縁なのですか?」
「そうだ」
亜斗夢が認める。
「では、なぜ揃って、戸惑う子犬のような顔をしているのです? ……人間とは、本当に奇妙な生き物ですこと。……もちろん、将軍は別ですが」
「西山」
森野が呼びかける。
「お前は丁組だったはずだろう。中田と高本と一緒にな。……なぜ、ここにいる?」
西山の顔が赤くなった。
「ええと……その……将軍……」
森野が呆れたように息を吐く。
「まあいい。すでにここにおるし、群れも追い払った。……よくやった、皆」
「恐れ入ります、将軍」
亜斗夢が答えた。
森野がダチーの肩を掴み、少し離れた場所へ連れていく。
「気分はどうだ、坊主?」
「全身が痛い。腕も痛い。少し腹が減ってるし、今すぐ眠りたい気分だ。……つまり、力はまだ消えたままってことだな」
森野はダチーの周囲を歩きながら、その体を観察した。
「飛鳥で引き出した、あの力の奔流だが……どのような感覚だった?」
「その……神になったみたいな感じかな。うまく説明できないけど」
ダチーが自分の手を見つめる。
「玄三には、真の力のほんの一片だと言われた。それなのに、あの区画を丸ごと一撃で平らにできる気がしたんだ。……恐怖も、焦りもなかった。……世界そのものが、俺の気まぐれに従って曲がるみたいだった」
「ふむ。……となると、儂はお前を見誤っていたようだな、ダチー」
「どういう意味だ?」
「あの力による反動は、儂が考えていたよりも遥かに大きい。……二つの属性を持つ者は極めて稀だ。おそらく、その二つが同じ力の蓄えへ干渉しとる」
森野が指を一本立てる。
「属性者は、言ってみれば電池のようなものだ。心臓だけの話ではない。……二つの能力へ同時に力を回している状態で、その片方が力を使いすぎれば――」
「もう片方まで空になる?」
ダチーが訊く。
「まさに、そのとおりだ」
森野がダチーの腕へ目を向ける。
「このことを隠し続けるのも、そう長くはもたんかもしれんぞ、坊主」
「でも知られたら、俺が役立たずだと判断されたらどうする? 今この瞬間、誰も俺を魚みたいに捌こうとしないのは、俺が世界を壊せると思われてるからだけだぞ」
森野が笑った。
「なら、こう考えてみろ。……電池切れなら、また充電できる。だが、壊された電池は元へ戻せん」
「それ、同じことじゃないのか?」
「お前には、まだこの先の人生があるということだ、坊主。……案ずるな。誰かがお前を役立たずと見なそうとするなら、そのときは儂が傍にいる」
「そうか。……ありがとう、祖父さん」
「当然だ。……それと、お前らの母さんのことだがな。ひどく心配しとるぞ。……宿へ戻ったら、二人とも便りを送ってやれ」
ダチーが息を呑んだ。
「そうだ! 軍のごたごたに集中しすぎて、母さんとアヤナのことを忘れてた!」
すぐさま弟の腕を掴む。
「来い、宿へ戻るぞ!」
「えっ、なんで?」
「後で話す!」
*
飛鳥の劇場内は、かつてないほど静まり返っていた。
空気は冷たく、座席は埃に覆われ、灯りは一つも点いていない。
黄色い規制帯が場内の至るところに張られ、とりわけ舞台の周辺へ集中していた。
一つだけ、明らかなことがある。
――この現場には、すでに何者かの手が入っていた。
灯里、光、沙織が中へ入ると、背後で重い扉が勢いよく閉まった。
灯里以外の二人が同時に跳び上がる。
「きゃっ!」
光が悲鳴を上げた。
「今の何!」
「扉だ」
灯里が冷静に答える。
「集中しろ。あの者どもがどの座席にいたのか、正確に突き止める必要がある」
灯里が黄色い規制帯へ目を向けた。
「執行官は、すでに独自の調査を済ませたようだな。……間違いなく、『無法者』へ情報を渡すためだろう。……光、襲撃が起きたとき、お前はどこにいた?」
光が前方に並ぶ座席の一角を指し、そこから右側へ指先を動かした。
「あそこよ。あの人たちが姿を消したのも、あの辺りだったわ」
「ならば、そこから始める」
灯里が観客席へ飛び降りる。
光も深く息を吸い、その後へ続いた。
一人残された沙織の視線が、ほんの一瞬だけ舞台の上へ留まる。
「母上……」
首を振って記憶を振り払い、二人の後を追った。
足取りは重い。
まるで、脚そのものが痺れているかのようだった。
一歩。
そして、もう一歩。
沙織はようやく、ほかの二人が調べている場所へ辿り着いた。
灯里が座席を次々とひっくり返し、光は輝く手で周囲を照らしている。
「何もない」
灯里が不満げに呻く。
「まったく。マラチーかルカが、ここにいてくれたらな」
光がその脇腹を指で突いた。
「あら。今、なんて言ったの?」
「始めるな。あの者たちの能力のほうが、調査には私の力より役立つという意味だ。……そもそも、梅子へ行く必要などなかった。こちらは時間との勝負だというのに」
光が目を回す。
「ええ、そうね。たぶん、そのとおりだわ」
沙織は身を屈め、座席の下へ這い込んだ。
掌から放つ虹色の光で進路を照らし、一つずつ区画を調べていく。
だが見つかるのは、埃や綿屑、それに散らばったキャンディーボムの包み紙だけだった。
二列目の座席の下から這い出した沙織へ、ほかの二人が視線を向ける。
沙織は何もなかったと首を振った。
三人が舞台の傍らへ集まる。
「舞台裏を調べてみない?」
光が提案した。
「遺体が見つかったのは、あそこよ。……米村様が見落としたものが残っているかもしれない」
「よい考えだ。沙織は?」
沙織が頷く。
「私も行きます」
三人は舞台裏へ向かった。
その廊下は観客席よりもさらに暗く、途中で足元の黄色い規制帯を踏みつけてしまう。
壁は不自然なほど清潔だった。
床も同じだ。
争った痕跡も、襲撃が起きた痕跡も、一つとして残っていない。
倉庫も徹底的に清掃され、中にあった物はすべて運び出されていた。
残されているのは、小さな箱が一つだけ。
灯里がそれを開ける。
「空だ」
周辺の部屋も、同じように何も残っていなかった。
電気設備室は整然としている。
ボイラー室には塵一つない。
控室にさえ、証拠になりそうな痕跡は残されていなかった。
沙織と光は、光を使ってあらゆる隅を照らしていく。
それでも、証拠と呼べるものは一片たりとも見つからない。
「まだ何もないか?」
灯里が訊く。
二人は揃って親指を下へ向けた。
「立件させぬために、現場を徹底して清掃したようだな。……米村は、いったい誰のために働いている? ……国の側に立つ男だと思っていたが」
「忘れないで」
光が指摘する。
「法官は、この国の内側では実質的に全知に近い存在よ。……ほかの長たちが逆らおうとしない理由の一つでもある。あの方は、全員の弱みを握っているの。……そのうえ、個人としての力も途方もない」
「ふん。だが、私より上位ではない」
「そうかもしれない。でも、あなたより下にいる全員に対しては、あの方のほうが上よ。……厳密に言えば、そこには藤井将軍も含まれる」
光が周囲を見回した。
「もっと深く調べないと。どれだけ徹底したとしても、すべての痕跡を消せたはずはないもの。……何らかの生物学的証拠を見つけられれば、静様を襲ったのがオシックスだと証明できる」
沙織は口を挟まず、その言葉を強く聞き入っていた。
「倉庫へ戻ろう」
灯里が提案する。
「何かを見落としたのかもしれん。……光、お前はオシックスとヌルスの両方に触れたな?」
「触れたわ」
「その痕跡を、感知器や探知機のように捉えられるか?」
「ここに残っているなら、できるはずよ」
「ついてこい」
三人は倉庫へ戻った。
今度は一寸の隙間も残さず、すべての場所を二度ずつ調べていく。
最後に、残されていた箱を持ち上げ、中で何かが動かないか振ってみた。
それでも何も見つからない。
苛立った灯里が、箱を壁へ投げつけた。
箱が砕け散る。
「灯里!」
だが、砕けたはずの箱の破片が、三人の目の前で形を変え始めた。
硬い箱の欠片が透き通り、鋭い氷の破片へ変わっていく。
沙織が大きく目を見開いた。
「あれ……。あれは、母上の体内から見つかった破片と同じです!」
三人が一斉に駆け寄る。
光が氷の破片へ手を触れた。
「どうだ?」
灯里が訊く。
「誰の遺伝情報が残っている?」
光が息を呑んだ。
その目が驚愕に見開かれる。
灯里と沙織は顔を見合わせ、答えを待った。
「これは……藤井将軍のものよ」
光の声が震える。
「……一致率、九十九・八パーセント」




