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第四十話「失われた力」

ゴブリンは翼を羽ばたかせ、屋根から屋根へ飛び移りながら、盗んだ技術品の詰まった袋を運んでいた。


 次の建物へ降り立ったところで、アルテルナがその行く手を塞ぐように屋根へ舞い降りる。


「それは、あなたのものではないと思いますが」


 ゴブリンが牙を剥き、威嚇するように息を漏らした。


 口から飛び散った唾液が、雨粒のように周囲へ降り注ぐ。


 アルテルナは片手を振り、鬱陶しそうに払いのけた。


「およしなさい。それがあなたの持てるすべてなら、私を怯えさせようとするだけ時間の無駄ですよ」


 ゴブリンが袋を下ろし、威圧するように背筋を伸ばした。


 アルテルナも退かず、静かに一歩踏み出す。


 一寸も譲らぬまま、二人は互いの周囲をゆっくりと回り始めた。


 ゴブリンが飛びかかろうとした、その直前――


 ダチーが顔面から屋根へ落ちてきた。


「痛ってえ! くそっ、今のは効いたぞ! まったく!」


 鼻を押さえて転がるダチーへ、二人の視線が一斉に向けられる。


 ダチーは鼻を擦りながら、ふらついて立ち上がった。


 そこへマラチーとルカも飛び移り、隣へ着地する。


 マラチーが心配そうに兄の背中を叩いた。


「大丈夫、兄さん?」


「鼻、折れてないか? なんでこんなに治りが遅いんだ? ……まさか、再生能力までおかしくなってるんじゃ……」


 ゴブリンが動きを止め、訝しげに三人を眺めた。


「これは何だ? 人間……? それにヴォルティア族? 貴様ら、手を組んでいるのか?」


 ダチーが鼻をつまんで軽くひねると、小さく骨の鳴る音がした。


「いろいろ複雑なんだよ。……だから、その荷物を渡して機嫌よく帰ってくれ」


「断る」


「なんだよ。ずいぶん余裕じゃねえか」


 ゴブリンの口内に炎が灯る。


 直後、燃え盛る光線が放たれ、真っ直ぐルカへ迫った。


 ルカはその下を転がって躱しながら、巨大なゴリラへ姿を変える。


 アルテルナは邪魔にならない位置まで退き、その様子を観察し始めた。


 ルカがゴブリンの胴体を両手で掴む。


 ゴブリンは鋭い爪を振るい、ルカの両目を抉り取った。


 視界を完全に失ってなお、ルカは怯まず、その顔面へ強烈な頭突きを叩き込む。


 アルテルナが小さく頷いた。


 その目は、ルカの動きと能力を細部まで見極めようとしている。


 腕を組んだまま、戦いの続きを眺めていた。


 ルカがゴブリンを屋根の端へ向けて投げ飛ばす。


 すかさずマラチーがプラズマ砲を撃ち込み、その翼の片方を削ぎ落とした。


 ゴブリンが向き直り、弾丸さながらの速度でマラチーへ突進する。


 そこへ二本の金属製の触手が伸び、空中でゴブリンを迎え撃った。


 マラチーは触手で組みつきながら、至近距離からプラズマ弾の雨を浴びせていく。


 さらにルカが肩から体当たりを食らわせ、狼へ変身してゴブリンの背中へよじ登った。


 ダチーは片膝をつき、小銃を抜いて引き金を引く。


 ゴブリンは翼を盾にして銃弾を防いだ。


 そして、その視線がダチーを捉える。


 まるで、その正体を走査しているかのように。


「器《ホルダー》……」


 瞬き一つの間に、ゴブリンが襲いかかってきた。


 真っ直ぐダチーへ突進する。


 ダチーは腰の刃を抜き、ゴブリンの腹部を横薙ぎに斬りつけた。


 だが、刻めたのは浅い裂傷だけだった。


 ゴブリンは傷をものともせず、爪でダチーの腕を斬り裂く。


 ダチーは武器を取り落とし、傷口を押さえて後ずさった。


「痛えぞ、こいつ!」


 マラチーの触手がゴブリンへ絡みつき、ルカもその背中を爪で斬りつける。


 だがゴブリンは残された翼を激しく羽ばたかせ、二人を一気に振りほどいた。


 全身から血を流し、肩で荒い息をしている。


 その視線が、屋根へ置かれた袋を捉えた。


 ゴブリンとダチーが同時に駆け出す。


 だが、ゴブリンのほうが速かった。


 翼の一撃でダチーを弾き飛ばし、低空を滑るように舞い降りて袋を掴み取る。


 ダチーは転がりながら体勢を立て直し、アルテルナのもとへ駆け寄った。


「おい! 助けないのか!」


「助けておりますよ。……私は追い立てられていないときにこそ、最もよい働きができますので」


 アルテルナが平然と答える。


「それに、器《ホルダー》に何ができるのかも確かめておく必要があります。……あなたは追わないのですか?」


 ゴブリンが袋を抱え、空へ飛び去ろうとしていた。


「見ろ、逃げてるだろ! これを切羽詰まってるっていうんだよ! 俺が空を飛んで追いかけられるわけでもない! このままじゃ負けだぞ! 『気楽にやれる状況』なんかじゃない!」


「いいえ。負けたのはあなたです」


 アルテルナが飛び去るゴブリンへ一瞥を投げた。


「そして今から、私が勝ちます」


 次の瞬間、その片腕が一気に伸びた。


 ゴムのようにしなやかに伸長した腕が、ゴブリンの手から袋を奪い取る。


 さらに、その袋を鞭のように振るい、ゴブリンを空中で殴り飛ばした。


 少年たちは信じられないものを見るように、その光景を見つめていた。


 アルテルナは袋を手元へ引き戻すと、無造作に脇へ放り投げる。


 屋根の縁から落ちる寸前、マラチーが慌てて受け止めた。


「正気ですか! この中に、どれだけ価値のある発明品が入っていると思って――」


 マラチーが袋を開き、中身の一部を屋根へ出す。


 金属同士のぶつかる音と、回路の擦れる音が周囲へ響いた。


「……屑鉄?」


 袋から零れ落ちたのは、何十枚もの金属板と壊れた回路だった。


 その一枚がアルテルナの足元まで転がっていく。


 女はそれを拾い上げ、興味深そうに眺めた。


「随分と切羽詰まっているようですね。……本物の装備ではなく、ただの屑にまで手を出すとは。……可愛らしいこと」


「今、何をしたんだ?」


 人間の姿へ戻りながら、ルカが訊いた。


「今のは何の属性だ? あんな力は見たことがない」


「それについては、後ほど説明いたします。……少々、詳しい説明が必要になりますので。見ず知らずの屋根の上で、気軽に語れるようなものではありません」


 アルテルナの視線がダチーへ移る。


「それよりも、今は私のことなどよろしいでしょう。……あなたは光を放つことも、力を使うこともなかった。……なぜです?」


「あれか? ああ……ただ力を温存してるだけだ」


 ダチーは何でもないように肩をすくめた。


「これから、あんな奴がもっと出てくるんだろ? 今から全力を出す必要はない」


「ふむ。……あなたがそう仰るのなら」


 アルテルナが目を細める。


「私には、実に怪しく見えますけれどね」


 ダチーの体が強張った。


「俺のことは心配するな! それより、早く宿へ戻らないと! 降ろされたからって、監視されてないとでも思ってるのか? ここの連中は、街中のどこにでも目を光らせてるぞ!」


「そのとおりだ」


 修の声が頭上から響いた。


 一行が見上げる。


 巨大な回転翼機が、音一つ立てることなく真上に浮かんでいた。


「うわ、まずい」


 修が回転翼機から屋根へ飛び降りる。


 彼に割り当てられた警護部隊も後に続き、即座に一行を包囲した。


「全員、宿へ戻ってもらう。……器《ホルダー》と属性者二人、それにこの後援者を自由に歩き回らせておくなど、惨事を招くようなものだ」


 修が指を鳴らす。


「衛兵」


 五人の衛兵がダチーを囲み、回転翼機へ連行する。


 別の五人がアルテルナの傍らへ残り、マラチーとルカも機内へ案内された。


「後で迎えに来る。それまで、面倒を起こすな」


「夢にも思いません」


 アルテルナが微笑む。


「どうぞ、私の言葉をお信じください」


 回転翼機が屋根を離れた。


 アルテルナは衛兵たちと共に残され、その全員から銃口を向けられている。


 それでも女は悠然と、飛び去るダチーへ手を振ってみせた。


 回転翼機が宿泊施設へ向けて一気に加速する。


 機内で、ダチーは修へ話しかけたい衝動を抑えられなくなった。


「どうして、俺たちがあそこまで行くのを黙って見てた?」


「戦力評価だ」


 修が答える。


「あの女は、かなりの速さでゴブリンを発見した。……公の場に個体が姿を現したのは、数週間ぶりだ。……つまり、我らの把握していない繋がりがあの女とゴブリンの間に存在するか、あるいは、あの女の能力が何らかの形でゴブリンどもに結びついているか。そのどちらかだ」


 修が顎を撫でた。


「貴殿には、もう少し動いてもらえると予想していたのだがな。……あの女が何をするのか、観察していたのか?」


「ああ。まあ……そういうことだ」


「興味深い。……いずれにせよ、助力には感謝する」


 修は回収した袋を掲げた。


「今日のところは、ゴブリンどもの負けだ」


 ほどなくして、回転翼機は宿泊施設の発着場へ着陸した。


 少年たちが降りると、修は監視役として数人の衛兵を残した。


「もう一人の客人には、必要以上に近づくな。……何を言おうと、あれは依然として敵だ」


「はい」


 少年たちが揃って答える。


 修を乗せた回転翼機が飛び去り、一行は施設の中へ向かった。


 ダチーだけが少しその場に残り、アルテルナを迎えに戻っていく回転翼機を遠くから見つめた。


「まったく……」


 中へ入ると、森野が自室の前に立って待ち構えていた。


「お前ら、死んどったかもしれんのだぞ! この老いぼれた祖父さんを心配させおって! ……正体も知れん後援者と一緒にゴブリンを追いかけようなどと、いったい何を考えとった!」


「あの女が何か企んでないか、確かめる必要があったんだよ、祖父さん」


 ダチーが答える。


「でも、そのおかげで、あいつに何ができるのか少しはわかった。……自分の体を自在に操れるんだ。オシックスみたいに」


「本当か? ……興味深いな」


 森野が顎へ手を当てた。


「オシックスが自ら命を絶ったとき、あの女は近くにいなかった。ならば、骨属性を継承したはずはない。……何か別の力を操っとるのかもしれんな」


「その件なんだけどさ。祖父さん、少し話せるか?」


「ん? ああ、構わんぞ、坊主」


「その……二人だけで」


 森野は一瞬だけ躊躇った後、自室の扉を開いた。


「入れ。中田とほかの客人たちは、全員分の食事を取りに出とる」


 ダチーが部屋へ入り、マラチーとルカは廊下に残った。


「必要なら、部屋にいるから呼んでね!」


 マラチーが言う。


「俺もね」


 ルカも付け加えた。


 森野が扉を閉める。


「どうした」


「俺の力だ。……消えてる」


 ダチーが切り出した。


「さっき外で戦おうとしたけど、何も起きなかった。……再生能力までおかしくなってる。あの器《ホルダー》へ変身した一件以来、ずっとだ」


 森野は一言も発さず、ただ黙って続きを待った。


「だから、祖父さんならどう対処するか訊きたかったんだ。……将軍なんだろ? 原因に心当たりはないのか?」


「残念ながら、ない。……だが、一つ言えることはある」


 森野が腕を組む。


「属性とは、生体に生じた変異だ。ウイルスに近い面すらある。……お前の属性に異常が起きとるのなら、問題は精神や感情ではなく、細胞の水準から生じとる可能性が高い」


「じゃあ、俺は病気なのか?」


「必ずしもそうとは限らん。……あれほどの力を使ったせいで、体が回復状態に入っとるのだと儂は思う」


 森野がダチーの体を見つめた。


「何しろ、あのときお前が引き出した力は、今のお前が扱える水準を遥かに超えとった。……そもそも、ほとんどの属性は人間の肉体と相性が悪い。だからこそ、お前とマラチーはこれほど稀な事例なんだ」


「どうすればいい? 祖父さんなら、どうする?」


「儂は訓練と反復によって強くなってきた。……お前も、身体へ刺激を与えることで力を再び呼び覚ませるかもしれん。まずは体を動かすだけでも十分だろう」


 ダチーが片腕を伸ばし、力を込めた。


「ああ。あの戦い以来、ほとんど体を動かしてなかったからな。……でも、早く力を取り戻さないと。あの女か監督官に、力がないと知られたら、俺は終わりかもしれない」


「ならば、明日から始めよう。……お前と坊主どもを見回りへ連れていく。ゴブリンを探しながら、お前は失った力を取り戻せばいい」


「わかった。ありがとう、祖父さん」


 部屋を出る直前、ダチーが振り返った。


「あと、祖父さんが今の地位に辿り着くまで、どれくらいかかった? ……俺も重要な存在にはなった気がするけど、まだ誰からも尊敬されてない」


「何年もだ」


 森野が答える。


「あの姫を救ったことで、少しは早まった。……だが、今お前が見とる儂は、何年もの苦労を積み重ねた末の姿だ」


 森野がダチーの頭を撫でる。


「急ぐな、坊主。……お前がどんな男なのか、いずれ皆が理解する。……ただし、それまでにどれだけの時間がかかるかは、誰にもわからん」


「何かを変えられるように、全力を尽くすよ」


「よし。それが今できるすべてだ」


 ダチーが部屋を出ていき、森野だけがその場に残された。


    *


 その頃、S-1邸では――


 沙織が寝台の上で何度も寝返りを打っていた。


 枕で顔を覆っても、記憶は次々と蘇ってくる。


 母の腹を貫いた刃。


 オシックスと戦うダチー。


 そして、藤井の投獄。


 沙織は勢いよく身を起こした。


 その頬を涙が伝っている。


 寝台から降りると、近くにあった布で目元を拭い、鏡台の前で髪を整えた。


 部屋を出ようと扉を開いたところで、すぐ外に立っていた灯里とぶつかりそうになる。


「沙織」


「わっ! 姫殿下? ……何か御用ですか?」


「気分はどうだ?」


「大丈夫です」


「それはよかった。……調査に、お前の助けが要る。藤井将軍の審理まで、あと八日しかない。そして『無法者』は、準備の面で我らより遥かに先行している」


 沙織が自分の腕を撫でた。


「藤井様とは、どのような方なのですか?」


 灯里が動きを止め、答えを考え込む。


 一分ほど経ってから、ようやく口を開いた。


「奇妙。予測不能。伝説的。そして謎めいている。……好きな順番に並べるがいい」


「では、本当にあの方が今回の件へ関わっていた可能性はないのですか?」


 灯里が首を振った。


「ほぼ皆無だ。……藤井将軍が、部隊を危険に晒してまでお前の母君を襲うはずがない。とりわけ、あの方はお前が属性者だと知っていた。……故意にお前の憎しみを買うなど、指揮官としてあまりにも愚かな行いだ」


「知っていたのですか?」


「当然だ。私も気づいていた。……お前の力は、単なる魔法と呼ぶには奇妙すぎる」


 灯里が沙織の顔を覗き込む。


「なぜ訊く? あの方を助けることに迷いが生じたのか?」


 沙織は小さく首を振った。


「わかりません。……皆さんと違って、私は藤井様へ直接お会いしたことがありません。……今は皆さんの仲間ですから、助けたいと思っています。でも、あの方が母上を襲った可能性を、完全に無視することもできないんです」


「そうか。……なるほど」


「ごめんなさい」


「構わん。理解できる。……私とて、あの方が百のうち百まで無実だとは言い切れない」


 灯里は静かに頷いた。


「だからこそ、証拠を集めるのだ。お前と法官、その双方を納得させるためにな」


「そうできればいいのですが……」


 灯里は階下へ向かいながら、沙織へついてくるよう手招きした。


「あの役立たずの人間どもは、ヌルスとオシックスが滞在していた場所を一つも突き止められなかった」


「では、私は何をすればいいのですか?」


「現場へ戻る。……劇場とその周辺を調べ、奴らの正確な潜伏場所を絞り込む。……例の計算機も大して役には立っていないが、そちらの解析結果も改めて見直す」


「わかりました。行けます」


 沙織と灯里が屋敷を出る。


 外では、光が装甲指揮車の傍らに立って待っていた。


「少しは調子が戻ったみたいね」


 沙織が頷く。


「はい。あの怪物たちが残した損害を、少しでも元に戻したいんです。……たとえ、あの恐ろしい光景をもう一度見ることになっても」


 光がその肩へ優しく手を置いた。


「耐えられなくなったら、すぐに言いなさい」


「はい」


 三人は装甲指揮車へ乗り込み、灯里の運転で出発した。


 移動の途中、沙織は窓の外で進められている復興作業を眺めながら、落ち着かなげに指をいじっていた。


 やがて装甲指揮車が、劇場のすぐ脇へ停車する。


 少女たちは車外へ降り、灯里が先頭に立った。


「すべてが起きた場所だ。……外で待っていたいのなら、それでも構わんぞ、沙織」


「いいえ」


 沙織がはっきりと断る。


「私はもう、S-1の一員です。ですから、私も手伝うべきです」


「よし。……ならば、奴らが何を残していったのか確かめよう」


 少女三人は劇場の中へ足を踏み入れた。


 その背後で、重い扉が静かに閉じた。

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