第四話「故郷」
二人の少女が邸内へ足を踏み入れると、ダチーとマラチーは揃って後ずさった。
ルカが頭を掻きながら、少女たちと兄弟を交互に見る。
「気まずい再会だね」
姫が拳を強く握り締める。
もう一人の少女は、持っていた買い物袋を床へ落とした。
ルカが小さく咳払いする。
「ダチー、マラチー。こっちが光。で、こっちが灯里姫」
灯里へ一瞬だけ目を向ける。
「まあ、灯里のほうはもう知ってるだろうけど。紹介は一応、義務だから。以上」
続いて、兄弟を手で示した。
「そっちにも一応。こいつらが新入り」
灯里の瞳が白く閃く。
「ルカ。その人間どもから離れろ。何故そのように馴れ馴れしくしている」
「え? 別にいいでしょ」
光が震える指を兄弟へ突きつけた。
「ここ、私たちの家よね……? どうして人間がいるの?」
嫌悪を隠そうともせず、さらに声を上げる。
「小屋でも檻でも地下室でも造って、そこに閉じ込めておけばいいじゃない!」
(はいはい、始まったよ)
ダチーは顔をしかめた。
(綺麗な奴って、なんで一番面倒な騒ぎを起こすんだ)
マラチーが慌てて両手を前へ出す。
「お二人とも、ご迷惑はおかけしないと約束します。おとなしくして、邪魔にならないようにしますから!」
「げっ」
光は顔を歪め、灯里の背後へ回り込んだ。
「小さいほうが喋った。私、この子たち嫌よ、灯里」
「安心しろ。母上があれほど強く言い張らなければ、今頃はすでに処理されている」
灯里がダチーへ歩み寄り、その喉を片手で掴んだ。
「では改めて、正式に問おう」
細い指に力が込められる。
「何故、我が国にいる。何故、私を襲った。答えろ。さもなくば、衛兵に命じて処刑させる」
灯里の目が鋭く細まった。
「王族の命令を拒むことも、反逆の一種だ」
マラチーが動こうとしたが、ルカが片手で制した。
「やめたほうがいいよ。王族と貴族は、必ず自分たちの望みを通す」
ルカは淡々と続ける。
「違うのは、その過程でこっちがどれだけ痛い目を見るかだけ」
「なあ……!」
ダチーが絞められた喉から、どうにか声を押し出す。
「この話は、もう済んだだろ! 俺たちは祖父さんを探してただけだ!」
灯里の手を掴み、必死に引き離そうとする。
「この力がどこから来たのかも、なんで手に入ったのかも知らない。でも誓って、あんたを傷つけるつもりはなかった!」
苦しそうに息を吸い込む。
「俺は女を殴らない! というか、誰だって殴らない! 向こうから襲ってこなければな!」
灯里を真っ直ぐに見返す。
「悪かったよ、姫殿下! これ以上、何を言えば信じるんだ!」
灯里の瞳が、再び白く閃いた。
「嘘の気配がする」
「そうよ、灯里。私も同感」
光が大きく頷く。
「こいつらは有罪よ。顔を見ればわかるわ。人間に化けて偵察に送り込まれた、ドワーフの実験体かもしれない」
灯里が僅かに首を傾ける。
「あり得るな」
ルカがため息をついた。
「あの闘技場で、本当は何があったの、灯里? 何かにそこまで感情を出すなんて、珍しいよね」
「新との試合に割り込んできた」
答えている間も、灯里の視線はダチーから離れない。
「規定上は、私の勝利となった。だが、あのような勝ち方は好かぬ」
灯里の表情が険しくなる。
「ヴォルティアナの姫が、中断裁定で勝利など……」
ダチーはその手の中でもがいた。
「でも、それのどこが俺の責任なんだよ……? 金か? 食い物か? 何を渡せば気が済むんだ?」
灯里は答えず、ダチーを部屋の反対側へ投げ飛ばした。
ダチーの身体は台所の調理台へ叩きつけられ、そのまま床へ落ちる。
「もうよい。終わったことだ」
灯里は光へ顔を向けた。
「光、行くぞ」
マラチーとルカを肩で押しのけ、階段へ向かう。
途中で一度だけ、倒れたダチーを振り返った。
光はマラチーを大きく避けて通り、吐く真似をしてから、友人の後を追った。
「大げさすぎるだろ……」
ダチーは頭をさすりながら呻いた。
「言ったでしょ。あの二人は血筋が特別なんだ」
ルカが答える。
「お前らよりも、俺よりもね」
「どうして、そう思うの?」
マラチーが尋ねた。
「俺は平民だから。この国で育ってすらいない」
ルカは自分の汚れた服を見下ろす。
「部隊のほかの連中は、全員が貴族か王族の類だ。でも俺は、近くの森で狼に育てられた」
ダチーが眉を上げる。
「本当か? じゃあ、だからそんなに……」
ルカの汚れた服を指さす。
ルカは気にした様子もなく肩をすくめた。
「まあね。どうせまた汚れるのに、服を洗って何の意味があるの?」
「振れ幅が極端すぎるよ」
マラチーが小声で呟く。
「この国は、進みすぎた技術と不安定すぎる人格で満ちてる」
ルカは冷蔵庫を開け、炭酸飲料の缶を取り出した。
「この家でうまく生きるコツを教えてあげる」
指を一本ずつ立てていく。
「女の子とは目を合わせない。見られたら頭を下げる。見られていない間に避ける。それから、居間には近づかない」
缶を軽く振る。
「あそこは二人の共有スペースだから」
「藤井が、あの二人を抑えられないのか?」
「できるよ。でも、やらない」
「俺の首には刀を突きつけるのにな。……なるほど。筋が通ってる」
ダチーはマラチーを脇へ引き寄せ、声を潜めた。
「あいつらの様子、こっそり探りに行かないか?」
「正気なの!?」
マラチーが目を見開く。
「僕たちは、あの姫に二戦二敗だよ! それなのに三回戦をやる気!?」
階段のほうを指さす。
「それに、あの友達まで強かったらどうするの!」
「光?」
ルカが会話へ割り込む。
「あの子は……まあ、いろんな意味で厄介だね。でも能力はかなり役に立つ。欲しがっていた部隊はいくつもあったよ」
「つまり、行けば返り討ちに遭うってことか」
「まさにそう言ってる」
ルカは調理台へ飛び乗り、炭酸飲料の缶を開けた。
「藤井が兵士をあまり取らないのには理由がある。あの人は、属性者しか引き入れないんだ」
「ルカも属性者なの?」
マラチーが尋ねる。
「違うよ。俺はただの清掃係」
一拍置いて、面倒そうに付け加える。
「……なわけないだろ。もちろん属性者だ。見てて」
ルカは両腕を伸ばし、そのまま調理台から飛び降りた。
緑色の閃光が、室内を満たす。
光が収まったとき、そこには緑と白の毛並みを持つ一匹の狼が立っていた。
狼となったルカは再び調理台へ跳び乗り、缶へ口を近づける。
犬のように舌を伸ばし、中身を舐め始めた。
「なあ、ルカ?」
ダチーが指を鳴らす。
「おい。聞こえてるか? ただの野生の狼になったのか、それとも――」
マラチーがルカの前へ屈み込んだ。
「声は聞こえてると思う。でも、返事も反応もないね」
ルカは顎で缶を潰し、そのまま屑籠へ放り込んだ。
調理台から飛び降りると、再び緑色の閃光が弾ける。
毛皮が消え、ルカは元の人間の姿へ戻った。
「ね? これが獣属性ってやつ」
自分の身体を軽く叩く。
「野生の獣に変身できるんだ」
「すごい!」
マラチーが思わず声を上げる。
「竜にもなれるのか?」
ダチーが尋ねた。
「無理だけど?」
「なんだ。つまらん」
ダチーは長椅子へ腰を下ろし、背もたれに頭を預けた。
「そもそも、なんであんたらの種族は、そこまで俺たちを嫌うんだ?」
天井を見上げる。
「バタンゴ地区にいたときは、貧困と死と飢えしかなかった。選抜試験で生き延びられたのも、この力があったからだ」
ルカは抽斗から一本の干し肉を取り出し、噛み始めた。
「俺たちは、そう教え込まれて育つんだよ」
壁へ寄りかかる。
「逆境を知らない。苦労もしない。他種族より圧倒的に強い。頭を下げるのは相手であって、自分たちじゃない」
ルカは干し肉を一度置いた。
「……少なくとも、みんなはそう信じてる」
気怠げな目が、僅かに細くなる。
「そんな常識に疑問を挟まないほうがいい。追放されるだけだ。もっとひどい目に遭うかもしれない」
「でも、ルカはみんなと違うだろ?」
「俺だって、国境の内側で育っていたら、間違いなく同じようになってたよ」
ルカは自嘲気味に笑った。
「平民だって人間を憎んでる。自分の怒りをぶつけられる相手が必要だからね」
マラチーが床へ視線を落とした。
「つまり、力が偏見を生むってこと?」
言葉を整理するように、ゆっくりと続ける。
「誰もヴォルティアナ族を力で抑えられない。だからヴォルティアナ族は、人間やほかの種族を好き放題いじめる?」
「考えてみて」
ルカが答える。
「何でも思いどおりになって、理解するより征服することしか教わらず、他国の助けを必要としたこともなく、本当の苦難も知らない」
干し肉をもう一口噛む。
「そんなふうに育ったら、どうなると思う?」
ルカは階段のほうへ目を向けた。
「灯里と光は、自分たちの信念を揺るがすほどの屈辱を経験したことがない。王家も、周囲の貴族も、将軍たちのほとんどもね」
その瞳が、不意に硬くなった。
気怠げだった表情が消えている。
「でも、藤井は違う。それは感じる。森野将軍もそうだ」
ルカは静かに続ける。
「森野将軍が人間だから、というだけじゃない。あの二人は、何を見てきたんだろうな。あれほど地に足をつけていられるほどの、何かを」
「そういえば、祖父さんはどうやって将軍になったんだ?」
ダチーが尋ねる。
「あんたらがそこまで人間を憎んでるなら、その地位には就けないはずだろ」
「複雑なんだ」
ルカは腕を組んだ。
「昔、人間への憎しみさえ押し通せなくなるほど、伝説的な何かを成し遂げたらしい」
ダチーへ視線を戻す。
「でも、あの人は例外だ。原則じゃない」
「待て。それってつまり、あいつらだって俺たちに歩み寄れるってことか?」
「あのさ……俺は……」
ルカは何かを言いかけ、首を横に振った。
「いや、なんでもない。喋りすぎた」
大きく息を吐く。
「まったく。俺まで、あの人みたいなことを言い始めてる」
腕に力を込め、身体を伸ばした。
「それで? 邸の続きを見たい? どうする? 次の訓練までは時間があるし、別に急ぐ必要もないけど」
マラチーが勢いよく立ち上がった。
「あ、うん。研究室を見せてくれない?」
目を輝かせながら、ルカへ詰め寄る。
「今、何か複雑な装置を造ってる? 空飛ぶホバーボードとか、超改造ジェットパックとか?」
「うわ……」
ルカが呻いた。
「人間がヴォルティアナ族以上のオタクになれるとは、知らなかったよ」
「ごほん。僕は分析官と呼ばれたい」
「はいはい」
ルカとマラチーが歩き去っていく。
ダチーはその場に座ったまま、自分の両手を見つめていた。
(森野を見つけて逃げ出せたとしても、こいつらの軍事力なら、俺たちを一生追い回すには十分すぎる)
顔を両手で覆う。
(藤井、姫、王妃、あの衛兵ども……あいつらは、この力の限界を俺よりもよく理解してる)
胸の奥が締めつけられる。
(どうやって母さんのところへ帰る? アヤナのところへ?)
指先に力が入った。
(こんなの望んでなかった。何一つ、望んでなかったんだ! ただ家に帰りたいだけなのに……)
目元を押さえる。
(俺にとっての家は、母さんとアヤナのいる場所なのに。どうして帰れない?)
ダチーは目を閉じた。
もう何日も、まともに眠っていなかった。
そして、一つの記憶が頭の中に蘇り始める。
*
――一か月前。
「それ、スプーンで食べるものだよ、ダチー。……ふふっ、本当に変な人」
「あ? なんでだよ。ただのアイスだろ」
ダチーは溶けかけたアイスを見下ろす。
「溶ける前に食っちまったほうがいい。じゃなきゃ、どっかの馬鹿ないじめっ子に横取りされる」
「はいはい。『強い男』さん」
ダチーと、長い黒髪をした褐色肌の少女が、公園の長椅子に並んで座っていた。
そこには、左右へ位置を変える摩天楼もない。
空飛ぶ車もない。
巨大な金属の城もない。
代わりにあるのは、オフィスビル。木々。晴れ渡った空。そして、道路を走る普通の車。
一機の飛行機が頭上を通り過ぎていく。
ダチーはその姿を見上げた。
「アヤナ。お前、自分が将来何になるか、考えたことあるか?」
「わかんない。この前、レスリングに申し込んだんだ」
アヤナは少しだけ頬を膨らませる。
「男子にはみんな笑われたけど」
やがて口元を手で覆い、自分でも笑い始めた。
「馬鹿みたいでしょ?」
「いや。お前、いつも俺を簡単にねじ伏せるからな。馬鹿な選択だとは思わない」
アヤナがダチーへ向き直る。
「じゃあ、もう一回勝負する? 今すぐ腕相撲!」
「本気か? ここで? 台もないだろ!」
「膝の上でやればいいよ」
アヤナが挑発するように笑う。
「怖いなら、やらなくてもいいけど。ダチー」
「……ああ、もういい。やってやるよ」
二人は互いの手を組み、肘を太腿の上に立てた。
ダチーは歯を食いしばり、アヤナの腕を押し倒そうとする。
だが次の瞬間、アヤナが一気に力を込めた。
ダチーの腕が膝へ叩きつけられる。
その勢いで、身体ごと長椅子の背もたれを越え、反対側へ転がり落ちた。
「わっ! ダチー!」
アヤナが長椅子を飛び越える。
「大丈夫?」
「平気だ。こうなるのはわかってた」
アヤナはダチーの両肩を掴んで引き起こし、そのまま強く抱き締めた。
「じゃあ、行く前に、最後にもう一回恥をかかせてくれてありがとう」
アヤナが身体を離す。
その明るかった表情が、静かで寂しげなものへ変わっていた。
「本当に、あの場所へ行くの?」
ダチーを心配そうに見つめる。
「海を渡るのは危険だって、みんな言ってる。森野おじいちゃんがいい人なのは知ってるよ。でも、もう歳でしょ?」
一度視線を落とす。
「もし、判断を間違えていたら?」
ダチーはアヤナの腕に手を置いた。
「母さんは病気で、もう俺たちを家に置いておけない。次に頼れるのは祖父さんだ」
穏やかな街並みを見渡す。
「俺だって、あんな遠くに住んでなければって思うよ。でも政府が、近親者じゃなきゃ駄目だって言うんだ」
アヤナは腕を組んだ。
「そんな決まり、なくなればいいのに。……本当に馬鹿みたい」
「そういえば、母さんの顔も見に行かないとな。マラチーは今、そっちにいるはずだ」
「わかった。じゃあ、行こう」
二人は並んで通りを歩いていった。
郊外の家々が道の両側に並んでいる。
その突き当たりには、控えめな桃色の一軒家。
表札には、こう記されていた。
〈ジョーンズ家〉
ダチーが扉を叩くと、マラチーが中から開けた。
「おかえり! アヤナとのデートはどうだった?」
「待て。誰がデートだって言った?」
ダチーは眉をひそめる。
「別にデートじゃなかったとは言わないけど、誰がそう言った? アヤナが一緒に来てほしいっていうから、出かけただけだ」
アヤナの拳がダチーの腕へ飛んできた。
「痛っ! なんでだよ! 今の何!?」
振り返る。
アヤナは顔を真っ赤にして、そっぽを向いていた。
(最高だ。また始まった)
アヤナはマラチーを抱き締めた。
「やあ、マラチー! 馬鹿な兄のことは無視していいよ」
「いつもそうしてる。入って。母さんは中だよ」
マラチーが二人を家の中へ案内する。
台所では、車椅子に座った長身の女性が料理をしていた。
右手に持ったスプーンで、鍋の中身を器用にかき混ぜている。
扉が閉まる音を聞き、女性が振り返った。
「マラチー? そこにいるのは誰?」
「ダチーとアヤナだよ」
「ダチー! もう出発したと思ってたわ」
「まだだよ、母さん。迎えが来るのは今日の後だ」
ダチーは母親へ歩み寄り、その身体を抱き締めた。
「森野将軍の家、本当に安全なんだよな?」
母親の肩へ顔を寄せる。
「別に怖いわけじゃない。でも……もし俺たちが帰ってこられなかったら?」
母親は人差し指を、ダチーの唇へそっと当てた。
「しっ。大丈夫よ。私にはわかるの」
「なんで、そう言い切れるんだ?」
母親は少しだけ間を置いた。
「マラチー。アヤナと一緒に、戸棚から香辛料をもう少し取ってきてくれる?」
「すぐ行くよ、母さん!」
マラチーとアヤナが台所から離れる。
二人きりになると、母親は長男をさらに強く引き寄せた。
「楽な道ではないわ」
ダチーの背中へ腕を回し、強く抱き締める。
「あの人たちは、あなたに地獄を見せるでしょう。でも、あなたは真実を知らなければならないの」
「真実……?」
「あなたは、自分で思っている以上に特別な子なの」
母親の声が震え始める。
「そして、その時が来たら、私にはもう、あなたを守る力も、導く力も残っていない」
「母さん、何を言ってるんだ?」
母親の瞳に涙が滲んだ。
「一つだけ約束して。弟を守ること」
ダチーの頬へ手を添える。
「そして、あなた自身も面倒に巻き込まれないこと。あなたたち二人を失うなんて、私には耐えられないの」
「……わ、わかった。約束する、母さん」
「ありがとう、私の子」
ダチーも母親を抱き締め返した。
「でも、俺は家を離れたくない。ここにいたいんだよ!」
「わかってる」
母親は優しく、ダチーの髪を撫でる。
「あなたは帰ってこられるわ。時が来たら、すぐに」
涙を浮かべたまま、微笑んだ。
「私はここにいる。ずっと、あなたたちを待っているから」
*
ダチーが目を覚ますと、ルカが顔を覗き込んでいた。
「あー……なあ」
「なんだよ」
「お前……泣いてるよ」




