第三十七話「梅子島」
数日後。
上半身裸のダチーは、洗面所で歯を磨きながら、髪へ油を馴染ませていた。
(あの狂人が、命懸けの罠を持って俺の周りを嗅ぎ回ってこないと、妙な感じがするな)
(……何で、あの間抜けぶりが少し恋しくなってるんだ?)
顔を洗っていると、沙織が洗面所へ入ってきた。
ダチーの姿を目にした瞬間、小さな悲鳴を上げて跳び退く。
その頬が一気に赤くなった。
「わっ! な、何をしているんですか!」
「ああ、悪い。……男はいつも二階の洗面所を使うんだ。一階は女子にほとんど占領されてるからな」
沙織がダチーの腕を指で突いた。
「どうして、そんなに引き締まっているんです?」
「ん? こんなの大したことないぞ。よくて平均より少し上ってところだ。……俺が通ってたウェイトトレーニングの授業の連中なんて、ベンチプレスで百四十キロを挙げてた。……いや、よく考えたら俺も百四十キロ挙げられるな」
沙織が慌てて駆け出していく。
「楽しいお話でした! では!」
ダチーは走り去る背中を見送った。
(走って逃げる姿も可愛いな。……いや、今のは何か違うな)
支度を終えて服を着ると、マラチーとルカが階下で待っていた。
「今日は灯里も光もいないのか?」
「もう飛鳥とバタンゴの現地調査へ出たんじゃないかな。ヌルスとオシックスについて、何か手掛かりがないか調べに」
ルカが答える。
「沙織は置いていったのか?」
「まあ、あの子は今回のことで深い心の傷を負ってるからね。……いきなり現場へ放り込むより、しばらく部隊での暮らしに慣れさせたほうがいい」
ダチーが長椅子へ身を投げ出した。
「そうか。……静様と沙織、二人とも立ち直れるといいんだけどな。あんなことを経験したら、簡単には癒えないだろ」
「そうだね!」
マラチーが同意する。
「あの子、十分いい人そうだよ! ……少なくとも、姫殿下と光よりはね」
廊下の角に隠れながら、沙織がその言葉を聞いていた。
頬を一筋の涙が伝う。
誰かに見つかるより早く、少女は再び洗面所の中へ消えていった。
ルカが壁へ背を預ける。
「そういえば、森野将軍はいつ迎えに来るの?」
マラチーが腕時計で時刻を確認した。
「もうすぐだと思うよ。二日後って言ってたから」
ダチーが映像装置を起動する。
画面にはB房棟の中継映像が流れており、房の中に藤井が座っていた。
男性記者が、その房の外に立っている。
「速報です、皆様! 藤井将軍の正式な殺人裁判が、来週末から始まります! 法官自らが裁判官を務め、その御息女が検察を担当。そしてS-1が弁護を任されることとなりました!」
「うわ、最高だね」
ルカが溜息をついた。
「この調子じゃ、あの人は一生あそこだ」
「その娘も、そんなにひどいのか?」
「もっとひどい」
ルカが認める。
「藤井を有罪にするためなら、どんな藁にでも縋るよ。……この国の裁判で、ほとんど無罪判決が出ない理由の一つだ。……街じゃ、あの人は『無法者』って呼ばれてる」
記者が話を続ける。
「我らが最も名高き将軍の運命やいかに! そして、新たな隊員を迎えたばかりのS-1はどうなるのか! 続報をお待ちください!」
画面が別の記者へ切り替わった。
損壊した飛鳥の街路を背に、女性記者が立っている。
その後方では、巨大な機械が復旧作業を進めていた。
「ありがとうございます! 私は今、飛鳥復興事業に携わる建設作業員の方々と一緒にいます! すみません、そちらの方!」
作業員の一人を呼び止める。
「飛鳥の戦いについて、ご意見をお聞かせください」
「茶番もいいところだ!」
男が声を荒らげた。
「あれだけ大勢が死んだんだぞ! S-1はどこにいた? 自分たちの将軍が静様の腹を刺したとき、奴らは何をしていた? そもそも軍なんか信用できるのか? ……それに男爵夫人は、いったいどこにいるんだ!」
男が鼻を鳴らす。
「もういい。どうせ知らぬ顔を決め込んでるんだろう」
そう吐き捨て、立ち去っていった。
「――以上、現場からでした! 飛鳥が元の姿を取り戻すまでには、かなりの時間を要しそうです! 民衆の軍への信頼が失われつつある中、軍はどう応えるのでしょうか!」
ダチーが映像装置を消した。
「まったく。あの戦い以来、みんな相当荒れてるな」
「うん」
ルカが同意する。
「それが人生ってやつだよ」
ダチーが立ち上がった瞬間、足元をふらつかせた。
マラチーが慌てて、その体を受け止める。
「ちょっと! 大丈夫?」
「ああ。……ただ、力が感じられないんだ。……久しぶりに、自分が……弱くなったように感じる」
「妙な領域を見て、年寄りが変身の力をくれたって言ってたよね。……それが兄さんの属性に影響したのかな」
「わからない。あの場所のことも、あの爺さんのことも理解できてない。……でも、この感覚は最悪だ。重力を返してほしいよ。文字どおりにな」
ダチーは何とか真っ直ぐ立ち直した。
「梅子なら、何が起きてるのか突き止められるかもしれないよ」
ルカが請け合う。
「歴史上でも最先端の技術が揃ってるからね」
そのとき、外からクラクションが二度鳴り響いた。
「ちょうどいいタイミングだ!」
マラチーが声を上げる。
「祖父さんのクラクションだよ!」
ルカ、マラチー、ダチーの三人が外へ駆け出した。
そこには巨大な装甲指揮車が、彼らの車両のすぐ隣に停まっている。
森野がその傍らに立っていた。
「坊主ども! ウーバーのお迎えだぞ!」
「ウーバーって何?」
ルカが尋ねる。
「聞くな。人間の言い回しだ」
ダチーが答えた。
三人は森野へ歩み寄り、装甲指揮車の中へ案内される。
中田が扉の傍らで待っており、兄弟が乗り込む間、その姿を鋭く見つめていた。
ダチーが一度、身を震わせる。
だが、それ以上にダチーを身震いさせたのは、車内を埋める何十人もの兵士だった。
全員が、それぞれの座席を占めている。
数人は気のない様子で手を振り、ほかの者たちは鋭い視線を向けてきた。
「俺たち、歓迎されてないよな?」
「気にするな、坊主。新入りだからというだけだ。……そのうち打ち解ける」
扉が閉まるより早く、沙織が家から駆け出してきた。
その顔は、先ほどよりもさらに赤い。
必死に手を振っている。
「またね、ダチー! またね、マラチー! またね、ルカ!」
少年たちも手を振り返した。
「またすぐ会おうな!」
ダチーが叫ぶ。
沙織は小さく声を上げ、もう一度だけ手を振ってから駆け去っていった。
ルカが低く含み笑いを漏らす。
「いつものダチーだね。女の子を逃げ出させてる」
「俺、何もしてないだろ! 確かに可愛いけど、それで何で逃げるんだよ!」
「はあ……」
中田が溜息をつき、扉を閉めた。
「座りなさい。長旅になります」
少年たちは扉の近くに並んで座る。
ほかの兵士たちの見張るような視線は、なおも三人へ注がれていた。
マラチーが落ち着かなげに片手を上げる。
「僕たちに何か用ですか?」
ダチーがその手を下ろさせた。
「知らないふりをしてろ」
「でも、それは失礼だよ!」
「違う。常識だ。……俺たちはあいつらを知らない。あいつらも俺たちを知らない」
森野が操縦席につき、中田が航法席へ腰を下ろした。
二人が短く目を交わす。
「副将軍は基地に残してきたんだな、中田?」
「はい」
中田が頷く。
「そちらも同じでしょう」
「当然だ。誰かが戻るまで、留守を守る者が必要だからな。……さて皆、掴まれ!」
装甲指揮車が発進し、街路を駆け抜けて飛鳥の門へ向かう。
中継映像を通して、ダチーには不安げな顔で窓から見送る沙織の姿が見えた。
(俺がいなくて寂しいのかな)
(……ふ。悪くない気分だ)
車両は門を抜け、ショノラ区を離れ、外部への出口へ向かった。
森野と衛兵たちの間で確認が交わされたのち、装甲指揮車は門を通される。
旅が始まる中、ダチーは車内の最奥に座る若い男へ気づいた。
伸びた髪が、両目を覆っている。
(顔立ちが灯里とそっくりだ。……あれが、例の兄貴か?)
男がその視線に気づいた。
ダチーは慌てて目を逸らし、指先で床を叩く。
その後の道程は、何時間にもわたって滞りなく続いた。
森野が鼻歌を歌い、中田はその隣へ黙って座り、時折、進路上の障害物や野生動物を指差して知らせる。
一行は森の中を走り抜けた。
ルカが身を起こし、中継映像へ目を向ける。
狼の群れが逃げていく様子が映っていた。
その瞳に一瞬だけ悲しみが浮かび――すぐに消える。
さらに木々の間を抜けると、山脈へ辿り着いた。
装甲指揮車が、鋭い峰と深い谷の間を進んでいく。
険しい山道を苦労の末に越え、一行は砂浜へと辿り着いた。
その先には、水晶のように透き通った広大な海が、何マイルにもわたって広がっている。
「ああ」
森野が声を漏らした。
「梅子海だ。橋の位置を探すか」
中田が立ち上がる。
「私が確認します」
中田は苦もなく優雅に装甲指揮車から跳び降り、そのまま走り出した。
ダチーが動きを目で追うことすらできないうちに、すでに指揮車へ戻っている。
「橋の起動板は二時の方向です、正人殿」
「承知した」
森野が車両を右へ向け、そのまま前進させる。
全員の耳へ、車体の真下で金属板が鳴る音が届いた。
地面が揺れ始める。
金属製の橋が地中からせり上がり、海上へ向かって次々と連結されていった。
やがて斜路が形成され、装甲指揮車がその上を走れるようになる。
指揮車が橋を一区画ずつ渡るたび、通過した後方の区画が順番に消えていった。
マラチーは、口元から涎を垂らしながら、その光景を一心に見つめている。
涎の一滴が、ダチーの肩へ落ちた。
「おい! 前にも来たことがあるみたいな顔をしろ!」
「来たことないけどね」
ルカが指摘する。
「それでもだ! ただで子犬をもらったみたいな顔しやがって。まったく。……いや、確かに格好いいけどさ。でも撃てない、飛べない、強化もしてくれないなら、俺の中じゃ並だ」
マラチーがダチーの襟を掴んだ。
「並だって? 僕たちが今、何の上を走ってるかわかってる? こういう技術の粋こそ、伝説って呼ばれるものなんだよ!」
「うん。並」
「原始人みたいな頭だね」
やがて、巨大な島が視界へ入った。
島全体に、途方もない規模の都市が組み込まれている。
都市そのものが淡い青色の防壁に包まれ、その姿が徐々に近づいてきた。
森野が車両を防壁へ近づけると、何十人もの衛兵が待ち構えていた。
全員が銃を向けている。
大型の狙撃銃とプラズマ砲を組み合わせたような形状だった。
衛兵たちが一斉に前へ踏み出す。
「止まれ!」
一人が声を上げる。
「所属部隊と目的を述べよ!」
森野が拡声器を起動した。
「S-3およびS-4部隊だ! 王妃陛下より、島への立ち入りを許可する正式な命令書を預かっている!」
「森野正人将軍! お久しぶりです! 証明書を提示してください。確認でき次第、お通しします!」
森野が装甲指揮車を止め、車外へ降りた。
衛兵たちは、なおも銃を構えている。
森野が腕時計を払うと、立体映像の文字で記された文書が表示された。
『我、森野正人将軍および中田菊将軍に対し、我が国への脅威増大を鑑み、梅子への立ち入り、ならびに装備一式の改良発注を許可する。――女王・菖蒲』
衛兵たちが身を強張らせた。
「では、本当だったのですね!」
「申し訳ありません、森野将軍。……このところ、警戒を怠るわけにはいかず」
「構わんよ。面倒は起こさん。……少なくとも、そう願いたいところだがな」
森野が装甲指揮車へ戻ると、衛兵たちは一行を通した。
指揮車が低い唸りを上げながら彼らの横を通過し、橋を進んで梅子の門へ辿り着く。
接近すると、巨大な門が開いた。
都市内部は、絶えず姿を変える、完全に最適化されたナノテクノロジーの楽園だった。
建物が意のままに位置を入れ替え、道路は搬送帯のように流れ、途方もない大きさの機械人形が通りを巡回している。
森野が駐車場を見つけ、装甲指揮車をその中へ停めた。
電気式の錠が車輪へ食らいつく。
走査装置から光が放たれ、森野の全身を読み取った。
〈登録済み――森野正人〉
「すごい!」
マラチーが息を呑む。
興奮のあまり凄まじい速さで震え始め、ダチーが体を押さえる羽目になった。
「次はどうするんだ、祖父さん?」
「今度は技術の長を探す。……儂らは発注書を渡しに来たんだからな。お前らは、できるだけ早くS-1へ戻してやらんといかん」
「で、その人はどこにいるんだ?」
「もうすぐ技術博覧会が開かれる。監督官が顔を出すとすれば、まずそこだろう。……ほかに当てもないしな」
ちょうどそのとき、何十台もの空飛ぶ車が接近し、装甲指揮車の前へ次々と降り立った。
灰色の燕尾服をまとった捜査官たちが降り、複数の衛兵もそれに続く。
ダチーがマラチーを後ろへ引き戻した。
捜査官たちへ近づきすぎようとしていた。
森野が男たちへ敬礼する。
「やあ、諸君! 何か手伝えることでもあるか? それとも、ただの挨拶かな?」
「その両方を少しずつ、といったところです」
最も背の高い捜査官が答える。
「監督官は皆様の来訪を把握されており、ご自身の居室までお越しいただきたいとのことです」
「それは光栄だ」
車の間を縫うように、一台の飛行輸送車が滑り込んできた。
部隊の前へ静かに降り立つ。
「お乗りください」
しばらくの躊躇ののち、全員が輸送車の後部へ乗り込んだ。
車両は、遠方にそびえる巨大な塔へ向かって走り出す。
その後部で、ダチーが片手を前へ差し出した。
(どうして何も感じない? もう何日も経ってる。……あの力の影響なら、とっくに切れてるはずだろ?)
輸送車は進み続け、やがて塔の門を通過した。
周囲では、別の輸送車が次々と積荷を運び出している。
金属製の梱包箱を積み、機械の運転手が操縦していた。
輸送車が工場の一階層へ停車する。
そこでは人間の作業員と機械の技師が入り混じり、連携して作業を進めていた。
一行が車両を降りると、捜査官たちは昇降機まで案内していく。
遠く離れていても、ダチーには炉から放たれる熱が感じられた。
昇降機へ到着すると、ダチー、マラチー、森野の三人が、ほかの者たちから分けられた。
「皆様には、いくつかの組に分かれていただきます。……監督官は、まずこちらの三名と面会したいとのことです」
「では、私はこちらで見張っております」
中田が答える。
「上でうまくやってね」
ルカが付け加えた。
昇降機の扉が閉まり、同行する捜査官が千階のボタンを押す。
次の瞬間、昇降機は撃ち出されたような勢いで上昇した。




