第二十八話「宴」
「ダチー? 起きてる?」
ダチーは目を開けた。
夏の日差しの温もりが、顔へ降り注いでいる。
周囲を見回すと、そこは公園だった。自分は長椅子に腰かけており、その隣にはアヤナがいる。
「やっと起きた、寝坊助」
アヤナがからかうように言った。
「昨日の夜、遅くまで起きてたの?」
「ああ」
ダチーが気怠げに答える。
「母さんがまた発作を起こしてな。平気だって言い張ってたけど、病院まで送っていった」
アヤナは地面へ視線を落とした。
「それは大変だったね。……キアさん、あれ以来ずっと調子が良くないもんね。三人とも生き延びたこと自体、奇跡みたいなものだし」
ダチーは両手を膝に置いた。
「ただ、親父が何をしてたのか気になるんだ。頭に靄がかかったみたいで、あの人に言われたことをほとんど思い出せない」
アヤナが眉を上げる。
「え?」
「なんでもない。……そろそろ海を渡る支度を始めないとな。祖父さん、俺たちを迎えに来ることまで忘れそうだ。あのぼけた頭じゃな」
アヤナは笑ったが、ダチーの表情は晴れなかった。
「最近は、傷だらけだったり骨を折ってたりして帰ってくるんだ。あの人が何の『仕事』をしてるにせよ、俺は気に入らない」
アヤナが立ち上がる。
「まあ、だから正式な許可がないと国境を越えられないんでしょ。アスマナにどんな危険があるのかもわかってないし、向こうから戻ってくるのは森野さんだけだもの」
アヤナはダチーの手を取った。
「よかったら、私も一緒に行こうか?」
「お前の母さんが許すのか?」
「許すわけないでしょ! あの過保護っぷり、知ってるくせに」
「お前まで面倒に巻き込みたくない。その案は無しだな。……でも、ちゃんと帰ってくるよ。そんなに長く向こうにいるつもりはない」
アヤナが含み笑いを浮かべる。
「何? 私に会うためだけに帰ってくるの?」
「それの何が悪いんだ? なら、母さんのために帰るってことにしてもいいんだぞ――」
アヤナの拳が腕に飛んできた。
「痛っ! なんでだよ!」
「そんなの嘘でしょ! 自分でもわかってるくせに!」
ダチーは殴られた腕をさすった。
「わかったよ。じゃあ、お前と母さんのために帰ってくる。それでいいか?」
アヤナが頷く。
「うん。そっちのほうがいい」
そこへマラチーが駆けてきて、二人の前で足を止めた。
「兄さん! 森野が僕たちを迎えに渡し船を寄越してくれた! あと一時間で出るから、急がないと!」
ダチーが立ち上がる。
だが、アヤナが二人の腕を掴んだ。
「待って、二人とも! 別れの挨拶もせずに行く気じゃないでしょうね?」
そのまま二人を抱き寄せる。
「二人の馬鹿がいなくなると、寂しくなるよ」
「僕たちも寂しくなるよ!」
マラチーが答えた。
「ああ」
ダチーも頷く。
「俺たちのこと、忘れるなよ」
アヤナは目元の涙を拭った。
「向こうに着いたら、絶対に連絡しなさいよ。しなかったら、私が乗り込んで二人ともぶちのめすから」
ダチーとマラチーが同時に身を震わせる。
アヤナはおどけて、二人の頬を指で突いた。
「さあ、行って。待ってるから」
マラチーは最後にもう一度アヤナを抱き締めると、先に歩き出した。
ダチーはその場に残り、最後にもう一度、アヤナを見つめる。
「じゃあな」
「うん、じゃあね。……私――」
アヤナは首を振った。
「なんでもない。無事に着いたら連絡して」
そしてダチーは、弟のあとを追った。
*
ダチーは寝台から転げ落ちた。
よろめいた拍子に箪笥へぶつかり、後頭部を強打する。
ぐるぐると回る視界の中で、ようやく自分の部屋にいることへ気づいた。
(ああ……夢か。ってことは、俺はエストリウムにいない。藤井は本当に捕まってて、みんなは階下で取り乱してるってわけだ)
立ち上がって装備を掴み、部屋を出て階下へ向かう。
光が居間を落ち着きなく行ったり来たりしていた。
ダチーの姿を捉えた瞬間、その頬へ平手を振るう。
ダチーは屈んで躱した。
「なんだよ! おい、お嬢さん! 気でも狂ったのか!」
「狂ったのはあなたでしょう!」
光が声を尖らせた。
「他のみんなはどこ? それに、よくも『この任務に光は連れていけない』なんて言ってくれたわね!」
ダチーは額を掻いた。
「は? 俺は寝てたぞ」
「面白い冗談ね。外へ飛び出して、全員に自分を追いかけさせて、私に恥をかかせたうえ、みんなをあなたのくだらない偵察任務へ引きずり込んでおいて? ええ、たっぷり苦しんでもらうわ!」
光の手が桃色に輝き始め、ダチーが慌てて両腕を上げる。
「待て! 本気で言ってるんだ! 俺はずっと自分の部屋にいた!」
「それを信じろというの?」
ダチーは少し黙った。
「まあ、信じなくてもいい。……けど、チーズやトマトのアレルギーにされるのは御免だから、せめて話だけは聞いてくれ」
「え? 私にそれができること、忘れているのかと思ったけれど」
「なんで忘れるんだよ」
光が一歩下がった。
「待って。……やっぱりおかしいわ。数時間前のあなたは、妙に決然としていて、『優雅』な喋り方までしていた。それが今は、私の知っている皮肉屋の馬鹿に戻っている。……話が合わないわ。まさか夢遊病だったわけでもないでしょう?」
ダチーは手で顔を覆った。
「ああ、最高だな」
「何一つ辻褄が合わない。……最初は藤井、次はあなた? まるで、この部隊のみんなが次々と別人に変わっているみたい……」
光の目が大きく見開かれた。
すぐさまダチーの腕を掴む。
「行くわよ! 今すぐ!」
ダチーが一言を発する暇もなく、光は彼を扉の外へ引っ張っていった。
外へ踏み出した瞬間、二人は同時に足を止める。
「なんだ、これ……」
周囲一帯が、巨大な路上宴会へ変貌していた。
貴族たちが踊り、衛兵たちが巡回し、通りには無数の露店が並んでいる。
山車が道を横切り、街角では踊り手の一団が舞っていた。
「何なんだ、これは」
ダチーが尋ねる。
「私にも……わからない。みんな、ついさっき暗殺未遂があったことを忘れたの? 劇場では遺体まで見つかったのよ?」
直哉が近づいてきた。
その背後には何十人もの衛兵がおり、全員が麦酒の瓶を手にしている。
「よう、お二人さん。一杯どうです?」
「直哉?」
ダチーはその顔を見分けた。
「何が起きてるんだ? それに、どう見ても酒を飲める歳じゃないのに、なんでそんな瓶を持ってる?」
直哉は陽気に体を揺らした。
「まあ、落ち着いてくださいよ。みんなのために打ち上げを開いてくれたんです。藤井にやられたまま、落ち込んでなんかいられませんからね。……王妃陛下も直々にお許しくださったんですよ」
「それで、王妃があんたらを酔わせたのか?」
「いいえ。酔ったのは自分たちの意思です」
ダチーは溜息をついた。
「なあ、俺の弟と、ほかのS-1部隊員を見なかったか? 沙織は? ナイトは? 誰でもいい」
直哉が首を振る。
「いいえ。どこか別の場所にいるんじゃないですか? ……それで、宴には加わるんですか?」
直哉が光を指差す。
「もう綺麗な御婦人も連れていらっしゃることですし」
光の顔が赤くなり、その瞳が輝き始めた。
「それ以上、余計なことを考えるのはやめなさい!」
ダチーは肩をすくめる。
「そりゃ楽しそうな話だな。人が死んだばかりだって事実を無視すれば。……踊って騒いだところで、何も解決しないだろ!」
衛兵たちが一斉に踊り始めた。
光は驚いて跳び退き、咄嗟にダチーへしがみつく。
自分が何をしているのかに気づくと、すぐさま手を放し、危うく転びかけた。
直哉がダチーの肩へ腕を回す。
「あなたは特別招待客でしょう? 一緒に楽しみましょうよ!」
衛兵たちが笑いながら、ダチーを車寄せの先へ連れていこうとする。
光が衛兵の間を押し分け、ダチーを掴んだ。
「駄目、駄目、駄目! あなたたち、絶対に正気を失っているわ!」
直哉がうんざりしたように呻く。
「もう。恋人くらいちゃんと抑えてくださいよ、ダチー。せっかくの宴が台なしだ」
「私はこの人の恋人なんか――」
ダチーが指を鳴らした。
「任せとけ、相棒。この上流階級らしい雰囲気には、どうにも抗えなくてな!」
「そんな……」
光が息を呑む。
「あなたまで!」
ダチーは衛兵たちへ手を振った。
「先に行っててくれ。何か食い物を取ったら合流するよ、我が友たちよ」
衛兵たちは一人ずつダチーと拳を合わせ、その場を去っていった。
光が呆れたように両手を上げる。
ダチーは彼女へ向き直った。
「あまりにも簡単だったな。まったく」
「変わってないの? 何かに乗っ取られたり、頭をおかしくされたりもしてない?」
「ああ。俺から離れてもらうために、仲間になったふりをしただけだ。……とにかく、何一つ辻褄が合わないなら、この辺りを調べてみよう。俺たちも宴に馴染んだふりをすれば、誰かが何か口を滑らせるかもしれない」
「ふん。自分だけは賢いと思っているのね。……私だって、それくらい思いついたわよ!」
ダチーは聞き流し、周囲へ目を走らせた。
「とにかく、何か食うにはちょうどいい頃合いだ。……ついでに、うまい噂話も拾えるかもしれないしな」
光は息を吐き、ダチーの隣へ並んだ。
二人は寿司の露店へ向かう。
店主はダチーの姿を認めた途端、満面の笑みを浮かべた。
「これは特別招待客様! お目にかかれて光栄です! そちらの御婦人はお連れ様で?」
「まあ、そんなところだよ、相棒」
光がダチーの脇腹へ肘を入れた。
「痛っ!」
店主が声を上げて笑う。
「ずいぶん気の強い御婦人ですな」
光の瞳が鋭く閃いた。
「余計な詮索はやめてくださる?」
店主は両手を上げ、鼻を鳴らした。
「承知しました。若いお二人の仲へ割って入るつもりなどございませんよ。……それで、何をお出ししましょう?」
光は腕を組み、顔を背けた。
「私はこんなもの、いらないわ」
「じゃあ、何が食べたいんだ?」
ダチーが尋ねる。
「もっと高価なものよ。私の身分に釣り合わないものは口にしないの」
「そうかよ。なら、この硬貨を持って、好きなものを好きなだけ買ってこい。終わったら、ここで落ち合おう」
ダチーが懐から大きな硬貨袋を取り出して渡すと、光の体が震え始めた。
「私一人で……行けというの? こんな不気味な連中ばかりの中を? 私まであれと同じものに変えられたら、どうするのよ」
「あれって何だよ! 俺たちだって、何が起きてるのかわかってないだろ!」
「だからこそ怖いのでしょう!」
ダチーは深く息を吸った。
「わかったよ。……あんたは綺麗だから、俺もついていってやる」
光がダチーの脛を蹴った。
「痛っ! 今度は何だよ!」
「そういうことを声に出さないで!」
「いいから歩け、お嬢さん!」
やがて二人は松阪牛の露店へ辿り着いた。
光がダチーの腕を引く。
「ここ! 私はこれがいいわ!」
「俺の硬貨がほとんど吹き飛ぶ値段じゃねえか。……まあ、あんたならそうなるよな」
「払うのはあなたでしょう? 私は貴族なのだから」
ダチーは硬貨袋の中身を露店の台へぶちまけた。
「ほら、これで全部だ。足りるか?」
露店に立っている人物を見て、ダチーの目が見開かれた。
光も気づき、咄嗟にダチーの背後へ隠れる。
「多すぎるくらいだ」
応輝が答えた。
「ラーメンもつけるか?」
ダチーは応輝と光を交互に見た。
「あんた……今度は露店の店主になったのか? っていうか、なれたのか? 何なんだよ、この宴は? なんであんたが露店をやってるんだ?」
応輝は何度か瞬きをした。
「なあ、特別招待客。俺はただ自分の仕事をして、宴の客に旨いものを出してるだけだ。……あんたは賓客だからな。あんたと、そのお連れの御婦人には、牛肉を無料で振る舞ってやる」
応輝が硬貨をダチーへ投げ返した。
光が露店の台へ両手を叩きつける。
「あのノートパソコン! どこにあるの? あれをどうしたの!」
「何のことだ?」
「へえ。とぼけるつもりなのね?」
二人の押し問答がしばらく続いたところで、ダチーが咳払いをした。
「とりあえず、牛肉をもらえないか?」
「すぐに用意する」
応輝は料理を整え、盆に載せて二人へ差し出した。
だが光は、自分の分を近くの路地へ放り投げる。
「私は遠慮するわ。人間が作ったものを、私の胃へ入れるつもりはないもの」
ダチーは構わず、自分の肉へ食らいついた。
「うちの軍装を着たほかの連中を見なかったか?」
応輝が首を振る。
「別の軍装を着た女なら見たぞ。いやはや、恐ろしい女だったな」
光とダチーが顔を見合わせた。
「ナイトだ!」
応輝が通りの先を指差す。
「あっちへ行けば見つかるはずだ。……今夜はあの女が音楽を流すらしい。特別招待客も参加させて、舞踏競技をやるんだとさ」
ダチーは残りの肉を一気に掻き込み、盆を応輝へ返した。
「わかった。ありがとよ」
そのまま歩き出し、光が慌ててあとを追う。
ダチーが通りに流れる音楽へ合わせて頭を揺らす一方、光は必死に周囲を見回しながら、その両肩に掴まっていた。
「ダチー、私、本当にこれが嫌なのだけれど」
光がとうとう認めた。
「だって、誰にこんなことができるの? 魔法だけで、これほど大勢の人間へ同時に影響を及ぼすなんて不可能よ! ……よほど強力な貴族でもない限り」
「属性ならどうだ?」
ダチーが言った。
「可能性はあるわ。でも、あなたと弟を除けば、属性を持っているのは私たちだけよ。……それに、こんなことができる属性なんて聞いたこともない」
「重力についても、あんたらは同じことを思ってただろ」
「……とにかく、ナイトを見つけて真相を突き止めましょう」
住民たちは二人の周囲に列を作り、腰を振りながら拍子に合わせて踊っている。
手を叩く者もいれば、見知らぬ貴族たちが次々とダチーへ握手を求めてくる。
この頃には、光はほとんどダチーの背中にしがみついていた。
周囲から伸びてくる無数の手を避けようと、必死に身をよじっている。
角を曲がったところで、二人はナイトを見つけた。
壁に背を預け、通りかかる子供たちへ菓子を配っている。
その頭には、風船で作られた帽子が載っていた。
二人は唐突に足を止め、呆然と立ち尽くす。
最後の子供へ菓子爆弾を渡し終えると、ナイトの視線がダチーと光へ向けられた。
「これはこれは」
ナイトが呟く。
「どうやらお二人は、この宴を楽しんでいないようですね」
次の瞬間には、ナイトの両手から扇が抜き放たれていた。
二本の扇が、それぞれダチーと光の首筋へ突きつけられる。
「説明しなさい」




