第二十六話「最後の使い道」
沙織と母は、数歩ほど距離を空けて向かい合っていた。
スポットライトが二人を照らしている。
沙織は一瞬だけ客席へ目をやった。
最前列にはダチーがいた。こちらへ小さく手を振ってくる。
思わず笑みがこぼれそうになった、そのとき。
最上段に、父の姿を見つけた。
瞬き一つせず、真っ直ぐにこちらを見つめている。
沙織は息を呑み、母へ向き直った。
「大丈夫よ、沙織」
静が安心させるように告げる。
「手加減はしないこと。皆さんに、決して忘れられない舞台を見せてあげなさい」
「はい、母上!」
ナイトが片手を上げ――勢いよく振り下ろした。
天井からミラーボールが降りてきて、銀と青の光を辺りへ撒き散らす。
舞台中央の宙に、表示が浮かび上がった。
〈踊り手――中村沙織〉
スポットライトが沙織を照らす。
深く息を吸い、リズムに乗って踊り始めた。
ダチーは、それが下水道で見たものと同じバレエの舞いだと気づいた。
片足で回転し、両腕を大きく伸ばす。
客席から歓声が上がり、ダチーも拍手を送った。
「上手いですね」
直哉が感心する。
「ああ」
ダチーも同意した。
「どう思う、光?」
「悪くはなかったわ」
光が鼻を鳴らす。
「上手くて当然でしょう。静様の娘なのだから。……さあ、次は本物のプロが舞台に立つわよ」
〈踊り手――中村静〉
静は深く身を沈めると、舞台の上を滑るように動き始めた。
あまりにも速く、観客はその姿を目で追うことすらままならない。
その舞いは沙織のものよりも優雅で、一挙一動が宙に火花を散らしていた。
沙織は、母が空中で回転し、優雅に自分の前へ降り立つのを見つめるほかなかった。
その間も、健はただ舞台を見ていた。
表情を一つも変えずに。
藤井と灯里が同時にそちらへ視線を向ける。
だが、どちらも何も言わなかった。
静が舞い終えると、客席から割れんばかりの歓声が上がった。
スポットライトが沙織へ戻る。
少女の額に汗が滲んだ。
「ええと……」
気を取り直し、今度はサルサを踊り始める。
母も、観客たちも、その選択には完全に不意を突かれた。
音楽も沙織の踊りに合わせて切り替わり、ダチーが調子を取るように頭を揺らす。
沙織が踊り終えると、今度は静の番が始まった。
静はフラダンスで応じ、客席中から感嘆の声を引き出す。
二人の応酬は、終了を告げる音が鳴るまで続いた。
〈第一回戦、勝者――静。第二回戦を開始します〉
次は、再び沙織の番だった。
少女はリズムに合わせて体を揺らし、腰を落としては立ち上がりながら、肩を小刻みに震わせていく。
その間、何人かの衛兵が客席を歩き回り、炭酸の飲み物と、白い焼き菓子のような軽食を配っていた。
一人の衛兵が、光へ飲み物と、菓子を山盛りにした皿を渡す。
一方、ダチーには菓子の袋を丸ごと一つと、巨大なグラスを渡した。
光がそれを睨みつける。
「本気なの?」
「なんだよ。俺が頼んだわけじゃないぞ。……いるか?」
「いらない!」
直哉が手を伸ばした。
「では、私がいただきます。もう遠慮はしません」
菓子を幾つか口へ放り込む。
その間も、踊りは続いていた。
ダチーは食い入るように舞台を見つめている。
二人の女は互いを上回ろうとし、その動きは次第に軽業めいたものへ変わっていった。
沙織が床を転がり、そのまま独楽のように頭で回転する。
あまりにも速く回ったため、その体が虹色の光に包まれた。
静が即座に動きを止める。
「沙織!」
沙織は後方宙返りを打ち、両足で着地した。
口元を覆い、慌てて周囲を見回す。
「まずい、まずい! ごめんなさい!」
健はなおも舞台を見つめていた。
その顔には今、鋭い集中の色が浮かんでいる。
静は首を振り、軽く咳払いした。
「たいした魔法ね、沙織! ……さあ、公平に勝負しましょうか」
「は、はい!」
母の番が始まる。
灯里が藤井の耳元へ身を寄せた。
「今のを御覧になりましたか。あれは魔法には見えませんでした、将軍。……母親の反応も、それを明かしています」
「虹属性だ」
藤井が頷く。
「だが、どうやって得た。三百年近く確認されていない属性だぞ」
「ですが、あの娘が持っているのは確かです。……そして、それこそダチーが隠そうとしていたものに違いありません。露店で急に走り出したのも、おそらくそれが理由でしょう。あの娘を庇っているのです」
「責められんな。今のところ、露骨には晒していないのが幸いだが……これが長引けば、司令官と王妃陛下の耳に入るのは時間の問題だ。そうなれば、誰かの首が飛ぶ」
「どうなさいますか、将軍」
「待つ。依然として敵のほうが優先だ。連中は間もなく動く。……あの娘の属性など気にも留めんだろうが、事態をさらに複雑にはするだろうな」
マラチーとルカが、藤井と灯里のもとへ駆け寄ってきた。
「二人とも!」
マラチーが声を上げる。
藤井が唇へ人差し指を当てた。
「声を落とせ。何を見つけた」
「日誌だ」
ルカが答える。
「敵は二ヶ月近く、俺たちの中で暮らしてた。……選抜試験の一件よりも前から」
灯里の目が見開かれる。
「つまり……」
「連中はあの場にいたんだ。全部見てた。ドワーフをここへ導き、防備を破る手助けまでしていた。……くそ、今この劇場の中にいてもおかしくない。それに、敵は一人じゃない」
藤井が拳を強く握り締めた。
「思ったとおりだ。敵は最初から我々を弄んでいた。……ならば、こちらが一枚上手を行くしかない。マラチー、兄のところへ行け。ルカはここに残れ。すべてを自然に見せておく必要がある」
「わかった」
マラチーはダチーの姿を見つけ、前方の席へ向かった。
ダチーが短く顔を上げる。
「マラチー?」
「うん! 無事に戻ってきたよ!」
光が呻いた。
「もう! どこか別の場所へ行けないの? 人間一人の相手をさせられているだけでも大変なのに、二人も管理したくないわ!」
「ちょっと機嫌が悪いんだ」
ダチーが説明する。
「そのうち落ち着くから、気にするな」
「誰が誰の――」
そこへ応輝が歩み寄ってきた。
頭巾はまだ顔を覆っている。
光が眉を上げた。
「それで、この人は誰? ……どうして人間に見えるの?」
「人間だからだよ、お嬢さん」
応輝が答える。
「あんたの親友の母親が、毎日現場へ送り出してる人間の偵察さ。……何か問題があるとは思えんがね」
直哉が喉を鳴らして笑った。
「いやはや、一箇所に人間が三人ですか。バタンゴの外では、まず見られない光景ですね。人生、何が起きるかわからないものです」
「そのとおりよ!」
光が声を張り上げる。
「全員バタンゴへ送り返して、鍵を捨ててしまえばいいのだわ! この催しが汚されたじゃない!」
ダチーとマラチーが揃って顔を覆った。
「ともかく」
マラチーが話を戻す。
「すごいものを見つけたんだよ、兄さん。……王妃が炙り出そうとしている内通者たちは、最初からずっとここにいた。何ヶ月も前からね」
「そうか。……ってことは、あのドワーフの襲撃も」
「あいつらの仕業だよ。兄さんがどこにいたかも、どこへ連れて行かれたかも、全部見ていたはずだ」
光のふくれっ面が消えた。
身を乗り出し、三人を見る。
「待って。どうしてそんなことを知っているの?」
応輝がダチーへ目を向ける。
ダチーが頷いた。
「面倒な女だけど、信用はできると思う」
光がその耳を掴む。
「口に気をつけなさい!」
応輝が溜息をついた。
「わかったよ。ほら、見るといい。ただし、他の誰にも言うな。どこまで本当なのか、まだ確かめられていない」
手にしたノートパソコンを開き、日誌の記述を見せる。
光は一行ずつ目で追い――即座に口元を覆った。
「これ、本物なの?」
「廃墟になった事務所で見つけた。少なくとも、大筋は本物だと思うね」
「では、王妃陛下は正しかったのだわ! あの者たちは私たちを狩っている! ……いいえ、正確にはダチーを狩っているのね!」
直哉がダチーを肘で突いた。
「貴殿方は、秘密裏に調査でも進めておられるのですか?」
「まあな。ドワーフが話していた後援者たちについて、もっと情報が必要なんだ」
「それを私たちに言わなかったの?」
光が問い詰める。
「え? あんたにとって、そんなに重要なことだったのか?」
「重要よ!」
「まあ、これで知っただろ。……それより問題は、これをどうするかだ。あいつらが、お茶とパンケーキを持って挨拶に来るとは思えないからな」
光が両手を膝の上へ置いた。
「私には……わからないわ。藤井将軍なら、どうすべきか御存じよ! あの方には話したの?」
マラチーが頷く。
「ダチーの隣にいろって言われただけだよ。……たぶん、またあの人の妙な策の一つなんだと思う」
三人の知らぬところで、沙織が一瞬だけそちらへ目を向けていた。
静の舞いが終わり、沙織が自分の番を始める。
手をつかずに側転し、そのまま開脚して床へ着地した。
脚を振り上げた勢いで跳ね起き、高い蹴りを放って踊りを締めくくる。
静も思わず娘へ拍手を送り、認めるように頷いた。
客席から、ダチーが親指を立ててみせる。
(あの人、何をしているの?)
沙織は訝しんだ。
(どうして急に、あんな真剣な顔をしているの? 何か問題でも起きた? ……私の踊りのせい?)
静が蝶のように舞う中、藤井の腕時計に通信が入った。
将軍が立ち上がる。
「灯里。ルカとここに残れ。王妃陛下から、襲撃者についての情報が入った」
「承知しました」
ルカが藤井を引き止めようと手を伸ばす。
だが将軍はすでにその場を離れ、夜の中へ跳び出していた。
「待って、将軍! 何なんだよ!」
「どうした、ルカ」
灯里が尋ねる。
ルカが額を押さえた。
「これがあいつらの狙いだ! もし今の通信が、王妃からじゃなかったらどうする!」
灯里が笑いを噛み殺す。
「ルカ、お前は時々、本当に鈍いな。あの方のそばに最も長くいたのはお前だろう。将軍が迂闊な男だと思うか?」
「思う」
「……一理ある。だが、命令の真偽を見極めるときの話だ」
「ああ。つまり、敵を欺くために、わざと釣られたふりをしてるってこと?」
「当然だ。お前が慌てて騒げば、すべて台無しになる。……下の光を見ろ。幼子のように落ち着きなく動いている」
ルカが座席へ深く腰を下ろした。
「危ない策だよ。あいつらからダチーへの射線が通る」
「否。それこそ、連中にそう思わせたいのだ」
健は、その会話を一言残らず聞き取っていた。
横目で二人を見る。
だが、何も言わなかった。
応輝とマラチーがダチーの前の席に座り、舞台を眺めている。
ダチーが炭酸を啜る横で、直哉が落ち着かなげに菓子の袋からもう一つ摘まんだ。
「あの子は誰なの?」
マラチーが尋ねる。
「さっきから、ずっとこっちを見てるよ」
「ダチーの可愛い文通相手よ」
光が答えた。
「何それ?」
「ただの、最近知り合った友達だよ」
ダチーが訂正する。
「妙なくらい俺を信用してるけどな」
第二回戦が終わり、結果が表示された。
〈第二回戦、勝者――沙織。第三回戦を開始します〉
ナイトが前へ出る。
「最終回戦を始めます! 今夜、静様が王座を守るのか。それとも御息女が、その座を奪うのか! ……ええ、あとはまあ、その手のお決まりの口上です。では、始め――!」
照明が落ちた。
全員が闇の中へ取り残される。
ダチーが即座に立ち上がり、周囲を見回した。
「おい! みんないるか!」
光の片手が桃色に輝いた。
それを灯り代わりに掲げる。
「二人とも! そこを離れなさい! 今すぐ!」
混乱した声と叫びが場内を満たし、駆け回る足音が響き渡る。
ダチーがマラチーとぶつかった。
だが光が二人をまとめて引き寄せ、そのまま座席を飛び越えて退避する。
灯里も自らの力で明かりを作り出した。
それをルカへ向けると、すでに巨大なゴリラの姿へ変わっていた。
「ルカ、場内を洗え! 今すぐだ!」
ルカが飛び出し、遠ざかる足音を追っていく。
ナイトは素早く劇場の扉へ向かい、取っ手を引いた。
施錠されている。
「くそっ! 皆さん、身を低くして動かないで! いいですね! ……ダチー・ジョーンズはどこです! 衛兵、今すぐ確保しなさい!」
衛兵たちは手元の灯りをつけ、目にも留まらぬ速さで劇場の中央へ集まってきた。
ダチーが身を起こす。
舞台の辺りで、虹色の光が明滅しているのに気づいた。
「沙織?」
照明が戻った。
そして、舞台上の光景が露わになる。
静が立っていた。
その腹部を、背後から氷の刃が貫いている。
そして、その刃を握っているのは――
――他ならぬ藤井剣士、その人だった。
「悪いな、静殿」
藤井が嘲るように告げる。
「だが、これがあんたの最後の使い道だ」
藤井が刃を引き抜いた。
静が床へ崩れ落ち、劇場中から悲鳴が上がる。
「母上!」
沙織が泣き叫んだ。
ナイトが即座に動き、両手の扇で藤井へ斬りかかる。
だが藤井は跳び退き、ナイトの腕を斬りつけて退けると、舞台裏の扉を突き破って消えた。
健が急いで舞台へ飛び降り、妻の体を抱き起こす。
ダチーもそのもとへ駆け寄った。
「父上……」
沙織が嗚咽を漏らす。
「母上が、血を失っています!」
健が傷口の上へ手をかざした。
「反転」
流れ出た血が傷口へ逆流し、静の体内へ戻っていく。
――だが、すぐにまた溢れ出した。
ダチーが三人のそばに立つ。
「この人、助かるのか?」
「ダ……チー……」
静が掠れた声を漏らす。
「母上、喋らないで!」
「そうだ、力を蓄えなさい。……すぐに最寄りの病院へ運ぶ!」
健が舞台裏の通路を睨みつける。
「あの狂人め! 味方に手をかけるというのか!」
光が駆け寄ってきた。
「私なら助けられるかもしれない! 全員、どいて!」
三人が光を見た。
すぐに場所を空ける。
光は、再び血が漏れ始めた傷口へ両手を押し当てた。
傷がゆっくりと塞がっていく。
「これで、開いた傷は塞いだわ。でも、内臓の損傷は残っている。……これ以上治せば、この人の生命力まで奪ってしまう。もうほとんど残っていないの」
健が妻を抱き上げ、沙織がその体を支える。
「ならば病院へ運ぶ。今すぐだ!」
マラチーがダチーのもとへ駆け寄った。
「将軍が……」
ダチーは、襲撃者が走り去った舞台裏の通路を指した。
「あっちへ行った! 追うぞ!」
光や他の誰かが止めるよりも早く、少年たちは舞台裏へ駆け出していた。
「待ちなさい!」
*
前方から、逃げていく足音が響いていた。
ダチーの体が灰色の光に包まれ、一気に加速する。
マラチーも触手を縄のように伸ばし、自らの体を前へ引っ張っていった。
「今のは将軍じゃないよね?」
マラチーが尋ねる。
「なんであんな馬鹿な真似をするの?」
「知るか! 本人を捕まえて問い詰めるぞ!」
二人は通路の奥へ駆け込み、やがて小さな倉庫へ辿り着いた。
ダチーが扉を押し開ける。
中の光景を目にした瞬間、胃の中身がこみ上げた。
数十人ものヴォルティアナ族の衛兵が、ばらばらに引き裂かれていた。
そして、その奥の壁には――
少年二人が、あまりにもよく知る言葉が記されていた。
『血には血を』




