第二十五話「所見」
三人は、廃墟と化したオフィスビルらしき建物の暗い廊下を進んでいた。
壁に埋め込まれた青い灯りが不規則に明滅し、金属製の床は幾箇所も凹んでいる。
「隠れ家だ」
マラチーが囁いた。
「飛鳥の真ん中に? どうして誰も気づかなかったんだろう」
「かなり前からあるんだろうな」
ルカが辺りを見回した。
「ここは何年も放置されてる。それに、お前とダチーが来てからは、敵が潜んでいないか、あらゆる場所が調べ尽くされたはずだ」
応輝がさらに奥へ進んでいく。
「認めるが、俺にも妙に思える。こんな場所を拠点に選ぶなんてな。……ちょっとした家として使えるくらいの広さだ。もっと探すぞ」
三人は最初の部屋を調べた。
中にあったのは、大量の書類用キャビネットと、汚れた小物や失敗作らしき発明品が散乱する棚だけだった。
マラチーが方位磁針を一つ手に取る。
だが、応輝が即座に叩き落とした。
「触るな。罠が仕掛けられてるかもしれん」
「あっ。ごめんなさい」
三人は部屋を出て、次へ進んだ。
次の部屋は雰囲気が違っていた。
まるで実験室のような造りだ。
試験管の中で花が栽培され、その周囲には机と立体映像式の計算機が並んでいる。
そのすべてが停止していた。
「花の研究か」
ルカが呟いた。
「へえ。まあ、花なら悪くないよな」
応輝が試験管の硝子を指で弾く。
びくともしなかった。
応輝は小さく唸ると、二人の脇を通り過ぎ、ついて来いと手招きした。
マラチーとルカは顔を見合わせてから、その後を追う。
三人は残りの部屋も調べていった。
簡素な管理室。
箱で埋め尽くされた倉庫。
そして最後に、大きな衣裳部屋の奥へ隠された、間に合わせの寝室らしき場所を発見した。
ハンガーには商用の仕立て服が掛けられ、その下には収納箪笥が置かれている。
衣裳部屋の奥には、マットレスが一枚敷かれていた。
そのそばには、金属製の机と普通の計算機がある。
「なんだ、これ……?」
ルカが尋ねた。
「何なんだ、この箱は?」
「ノートパソコンだよ」
マラチーが答えた。
「故郷では普通に使ってる」
「なんて……原始的な」
ルカが指摘する。
「どうやって操作するんだ? 操作画面はどこにある?」
「マウスを使うか、画面に直接触るんだよ。……でも、手を中へ突っ込まないでね。壊れるから」
応輝が机の前へ座り、計算機のタッチパッドを押した。
「バタンゴでも何台か使ってる。……だが、どうしてこんな場所へ持ち込んだ?」
計算機が起動し、即座に認証コードの入力画面が表示された。
応輝は、先ほど発信した識別符号を含め、幾つかの番号を試した。
だが、すべてエラーを返してくる。
「駄目だな。……ルカ、お前でもこれを破るのは無理か?」
「藤井ならできるかも。灯里も」
「いや。呼ぶのはやめておこう」
応輝がマラチーを指した。
「お前は技術属性だったな?」
マラチーが頷く。
「自分をこいつへ接続して、認証を上書きできないか? 何しろ、相手は超高性能計算機でもない」
マラチーが顎を撫でた。
「そんなふうに力を使ったことはないですけど……やってみます!」
応輝とマラチーが席を入れ替えた。
マラチーが目を閉じる。
背中から二本の触手が現れ、その先端が計算機の接続口へ差し込まれた。
マラチーの瞳が、ゆっくりと淡い青色へ変わっていく。
「うわっ!」
マラチーが息を呑んだ。
「全部見える! コードも、アプリも、ウェブサイトまで! すごい――僕自身がプログラムになったみたいだ!」
「これは、やらせちゃ駄目だったな」
ルカが溜息をついた。
応輝が指を鳴らす。
「おい、集中しろ。目的は認証コードの突破だ。……手動でロックを外せるか?」
マラチーは目を細め、さらに力を込めた。
計算機の画面が激しく明滅する。
そしてマラチーが息を呑んだ瞬間、ロックが解除された。
「うまくいった? 僕はただ……『回避』って言葉を考えただけなんだけど」
「ああ、ばっちりだ。……さて、この中に何が隠されているのか見てみよう」
マラチーが計算機との接続を切り、マウスを使って最初の画面を調べ始めた。
空のフォルダが幾つか。
そして、『所見』と記されたメモ帳ファイルが一つだけある。
マラチーがファイルを開くと、膨大な量の文章が表示された。
記録は日付ごとに整理されている。
最初の記録まで遡るのに、数分を要した。
「ふむ。日誌みたいだな」
応輝とルカが身を寄せる。
応輝が最初の記録を読み始めた。
「一日目。バタンゴは想像以上にひどい。荒廃し、腐敗と病、死にかけた子供たちで満ちている。……劣っていると見なした者たちを、奴らはこう扱うのか。哀れなものだ」
次の記録へ進む。
「二日目。この地獄で丸二十四時間を過ごした。食事は味気なく、水は汚染されている。金を稼ぐために働くことだけは許されているが、ヴォルティアナ族の輸送車が毎月運んでくるのは、我々全員で分け合わねばならない僅かな物資だけだ。今日は硬貨八十七枚を稼いだ」
さらに次の記録。
「五日目。人間の一人が、私の目の前で死ぬのを見た。家族は、その者を医者へ連れて行ってほしいと私に懇願した。だが、門は開かなかった。輸送車が現れたとき、奴らは我々の窮状を笑い、少年が最後の息を引き取るまで傍観していた。……この経験は故郷を思い出させた。報いは間もなくだ、幼き者よ。約束しよう」
応輝とマラチーがルカを見る。
ルカはその場へ座り込み、目を固く閉じたまま聞いていた。
「十七日目。故郷を離れて二週間以上が過ぎた。人間たちが海と、その向こう側にあるものについて話すのを聞いた。楽園。アスマナで何が起きているのかも知らず、幸福な無知の中で生き、夢を見る人々。彼らはそこを『自由の地』と呼ぶ。……我々も、そのような世界に生まれていれば。そうであれば、物事はここまでにはならなかったかもしれない」
「二十五日目。バタンゴを出た。別の手段を取る時だ。人間の中で暮らしていても、私の助けにはならない。腐敗の源へ、さらに近づかなければならない。……我らの標的も、いずれ同じことをするだろう」
「五十日目。任務が始まる。ダチー・ジョーンズが到着した。あの者が我を失い、制御を失った瞬間、私はその場にいた。あの者が襲ったのは、他ならぬヴォルティアナの姫であった。姫は兄弟を容易く倒した。だが私は、あの漆黒の瞳と歯、そして襲いかかったときの憤怒を忘れられない。続報は追って送る」
「五十五日目。それ以来、多くのことが起きた。こちらが流した情報を使い、ドワーフどもがダチーを奪いに来た。奴らはダチーを手元に置くことに失敗し、あの者は戻ってきた。予想どおり、王妃はあの者の首につないだ縄をさらに短くした。……だが王妃は、あの者の正体も、自分とその暴政の帝国を滅ぼし得る唯一の道具であることも、まるで理解していない。私はあの女の力を見た。あの女も、その将軍たちも、あの厄介な属性者どもも強い。だが、器はさらに強い。……我らはあの者の忠誠を確保する。それが叶わぬならば、あの者を貴方のもとへ連れて行く……我が主よ。私はここに誓う」
応輝が読むのをやめた。
ルカとマラチーは目を見開いたまま、画面を見つめている。
「そのスパイ、人間の潜入者ってだけじゃなさそうだな」
応輝が呟いた。
「ずっと俺たちを見張ってたわけだ」
ルカが自分の手へ目を落とした。
「つまり、奴らは俺たちの中にいる。……最初からずっと? 道理で、ドワーフどもがあれだけ簡単に入り込めたわけだ。俺たちの足元を、内通者が這い回ってた」
応輝が計算機を閉じ、持ち上げる。
「行くぞ。お前らの将軍は、これを知りたがるだろう。これ以上ここにいれば、日誌を書いた本人が戻ってくるかもしれん」
ルカが片膝をついた。
「乗って」
その体が巨大なゴリラへ組み変わっていく。
マラチーと応輝が、その背中へ登った。
ルカが出口へ向かう間、マラチーは腕時計の画面を払った。
「おい、腕時計! ダチーに電話して!」
画面が電話の記号へ切り替わり、マラチーがそれを押す。
〈発信中〉
呼び出し音が鳴り始めた。
*
劇場の中で、ダチーがその着信音に気づいた。
腕を上げ、操作画面へ目を向ける。
そこにはチェック印と、×印が表示されていた。
〈マラチー・ジョーンズから着信。応答しますか?〉
ダチーがチェック印を叩く。
「ええと、どうした、弟? 今ちょっと忙しいから、噂話ならあとで――」
「兄さん! これを聞いて! あいつら、ずっと――!」
灯里がダチーの肩越しに画面を覗き込んだ。
「あれはマラチーか? それに、ゴリラになったルカ? ……隣にいる男は誰だ? 待て、見覚えがあるぞ!」
ダチーが咳払いをした。
「行かないと! じゃあな!」
通話を切り、藤井、灯里、光のほうへ向き直る。
三人とも、じっとこちらを見ていた。
「その……前後の事情なしだと怪しく見えるのはわかる。でも、あんたらが思ってるようなことじゃない」
藤井が指を鳴らした。
「心配するな、坊主。あの小さな諜報任務へ行かせたのは俺だ」
「何ですって?」
三人が同時に声を上げた。
「ん? 俺は、自分の部隊で起きることはすべて把握している。でなければ将軍ではない」
「将軍、あの二人に何をさせているのですか?」
灯里が問い詰める。
(この男には、何もかも本を読むように見抜かれる。気づくべきだった)
ダチーは心の中で呻いた。
(こいつがそばにいる限り、計画を隠すのは骨が折れそうだ)
藤井が気のない様子で肩をすくめる。
「忘れるな。我々は宴を楽しみに来たわけではない。警備に来たんだ。ならば、守るべきものを守らねばならん。……ここにいる顔ぶれを、よく見てみろ」
「その……重要人物たち、ですか?」
光が答えた。
「そのとおり。これだけの重要人物が一箇所へ集まれば、敵の目は自然とこちらに釘づけになる。その隙に、薄汚い鼠を二匹――弟を悪く言うつもりはないぞ、ダチー――走り回らせ、獲物を持ち帰らせるわけだ」
灯里がダチーをこちら側へ引き寄せた。
「この劇場は、すでに敵に侵入されている可能性があります、将軍。あの者の声は切迫していました」
「慌てるな。成り行きを見守る。……連中は我々の縄張りにいる。そして今回は、こちらにも備えがある」
藤井が一同を見回す。
「分かれるぞ。灯里、お前は俺と来い。上段に座る。光はダチーと残れ。入口近くの席だ。衛兵たちは距離を取れ。できる限り自然に見せたい。近距離に置くのは一人だけだ。……何かあれば、俺が止める」
衛兵たちが一斉に躊躇した。
「案ずるな。これは王妃陛下の利益になる。陛下がお怒りになれば、責任は俺が取る」
「はっ」
衛兵たちが答えた。
「私がダチー殿と行けます」
直哉が名乗り出る。
「ダチー?」
藤井が確認を求める。
「ああ、いいぞ。こいつにしてくれ」
光が鼻を鳴らした。
「うえ。平民がまた一人。……まあいいわ。早くして。一番いい席がほしいの」
観客たちが劇場へ入り始めた。
ダチーの衛兵たちは、場所を空けるために後ろへ退いていく。
そのうちの一人が誤って直哉へぶつかり、転ばせてしまった。
ダチーが手を差し出し、直哉がそれを取る。
「あんた、この手の仕事にあまり慣れてないみたいだな」
「慣れていません。……申し上げたでしょう。私は選抜試験の落伍者で、残りの人生を平凡な仕事で終える運命なのです」
「別の道を試してみたらどうだ? ほかに情熱を持てるものはないのか?」
「私は戦うことが好きなのです。外へ出て、人と戦うことが。……生死を懸ける、あの痺れるような高揚感が好きなんです。座って機械を作り続けたり、より多くの属性者を見つけるために働いたりはしたくない。多くの仕事は結局、我々の力を強化するか、新たな属性者を発見するためのものに行き着くのですから」
ダチーが首を振った。
「この国の連中は、もっと人生の楽しみ方を覚えたほうがいいな。そんな考え方で生きるなんて、悲しいだけだろ」
前を歩いている光を見る。
「あいつもだ。何か隠してる気がする。いくらなんでも、あそこまで見栄だけで生きてるわけないだろ」
「案外、そうかもしれませんよ」
直哉が答えた。
「多くの人は、自分を保つために他人をいじめるものです」
ダチーと直哉が光に追いつく。
ダチーがその隣へ座った途端、光はわずかに身を退けた。
「あんたは、いつもそんなに大袈裟なのか?」
ダチーが尋ねる。
「触るわけでもないのに」
「結構。触らないで」
ダチーは、ナイトが舞台裏で出演者たちと話し、一人ずつ順番に送り出している様子を眺めた。
三人の周囲にある席が、次々と埋まっていく。
「さっきの女、あんたに出てほしいって言ってたよな。あれだけ注目されるのは、貴族だからか? それとも……」
光が片手を上げた。
「知りたいの?」
「いや! ただ気になっただけだ!」
光が呆れたように目を上へ向ける。
「まあ、仕方のないことね。人間でさえ、私の魅力には抗えないのだから」
ダチーと直哉が同時に顔を覆った。
光が掌へ頬を預ける。
「まあ、少なくとも楽しい催しが始まるわ。……あなたが話していたあの子、どんな事情があるの?」
「本人が言いたがらないんだよ」
「なぜ? 貴族でしょう。誰も咎めたりしないわ」
「そういうことじゃない」
「ふん。何であれ、長くは隠せないわよ。……あの子の魔法には第二段階でもあるの? それとも、まったく別の何か?」
「まあ、それが漏れたら、あいつの人生が変わるとだけ言っておく」
光が再び目を上へ向けた。
「もう。大袈裟ね。……別にどうでもいいけれど。踊れるのなら、私としては合格よ」
最後の席が埋まり始め、劇場の灯りが落ちていく。
直哉がダチーを挟んで光と反対側の席へ座り、小銃を抱えた。
ナイトがマイクを手に取る。
一瞬だけ藤井を見つめてから、口を開いた。
「この祭の目玉――中村静様、そして御息女の沙織様をお迎えください!」
静と沙織が、絹製の虹色の衣装をまとって現れた。
沙織の衣装は虹のように明るく輝き、静の衣装はそれよりも暗い色合いだった。
二人が舞台の両端から進み出る。
舞台中央を挟んで互いに向かい合い、開始の時を待った。
「この競技に勝利した者は、ヴォルティアナ全土で最も優れた踊り手と見なされます」
ナイトが説明する。
「それでは、直ちに始めましょう」
そう告げると、ナイトは舞台を降りた。
競い合う二人が、互いに向かって一礼した。
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