第十七話「記憶の中を歩く」
伊呂波女王が果物鉢から林檎を取り、ダチーへ差し出した。
「どうぞ、貴賓の方。一口いかが?」
「ええと……俺はあんたが誰なのか知らないんだ。これが一体どういう状況なのか、詳しく説明してくれないか」
「あら? 昨夜はよく眠れなかったの? 今日は寝惚けたお顔ね。珈琲を淹れましょうか」
「俺はここを出てもいいのか? 弟と部隊が、今頃は心配で死にそうになってるはずなんだ。何か方法は――」
女王が息を呑んだ。その目が、子供のように見開かれる。
「ご家族がいらっしゃるの? まあ、貴賓の方! 私、ぜひお会いしなければ!」
ダチーが身を引いた。
(よし。こいつが正気じゃないか、俺がいるべきじゃない場所にいるかのどっちかだ)
(どっちにしても、突き止めるにはもう少し時間が要るな)
女王は果物鉢から取ったバナナを食べていた。
ダチーは立ち上がり、林檎を一口齧ってから、近くの屑籠へ放り込む。
「それで、女王さん。次はどうするんだ?」
「え?」
「いや、俺たちは何をすることになってる? どうしてこの寝台にいたのかも思い出せない。あんたが俺に果物を食わせてる理由もな」
女王が戸口へ向かう。慎重に一歩進むたび、その後ろには蔓が残された。
「こちらへどうぞ。……あなたとお連れの方々から伺った情報について、お話ししたいのです」
(情報?)
伊呂波女王はダチーを食堂へ導いた。
そこには、今より若い姿の一成と岩、そして巌雄が座っていた。
部屋のあらゆる隅には護衛が配されている。
ダチーが姿を現した瞬間、全員が顔を上げた。
一成は腕を組み、睨みつけながらも、意識をこちらへ集中させている。
岩は顔を背け、落ち着かなげにフォークを弄んでいた。
巌雄だけは、さして感心した様子もなく座っている。
妻がその頬に口づけを落としてから、隣の椅子へ腰を下ろした。
王が食卓の端にある椅子を手で示す。
「ようこそ、貴賓の方」
巌雄が迎えた。
「貴殿は、器を捕らえればヴォルティアナを止められると申された。それが何であるのか、詳しくお聞かせ願えるか」
ダチーの手が、勝手に動いた。
指を鳴らす。
その背後に、三つの影のような姿が現れた。輪郭があまりに曖昧で、顔までは判別できない。
見て取れる限りでは、一人は背の高い女だった。自分とほとんど同じ高さの巨大な槌に、体を預けている。
もう一人は落ち着きのない男だった。食卓を見つめながら、体を前後に揺らし続けている。
最後の一人は、ダチーの真後ろに立っていた。腿まで届く髪を持つ男。両手を背へ回し、静かに頷いてみせる。
ダチーが三人を見回した。
「あんたら、一体誰なんだよ」
三人の目が、同時にダチーの目と合った。
「ご命令を、我が王」
中央の男が尋ねる。
ダチーの声は、自分が理解するより先に口から出た。
「我らが交わした取り引きについて話せ。海の向こうに何が在るのかを伝えよ」
ダチーは即座に自分の口を覆った。
中央の男が、食卓の傍らを歩き始める。
「器」
男が宣した。
「この錠前を開く鍵。……幾世紀もの間、我らを縛り続けてきた錠前を開く鍵だ。この特別な宝は、来たる年月のうちに見出されるだろう。二つの属性能力を――劣った頭脳の者どもはそう呼ぶが――操る少年だ」
「属性が二つだと?」
一成が割って入る。
「偽りだ。同時に二つ以上の属性を持つヴォルティアナ族など、我らは一度も見たことがない」
「その耳で聞いたこともない言葉を、勝手に我が口へ押し込むな」
風変わりな影が、ダチーの顔へ身を寄せた。
その息から、焦げた木の匂いが微かに漂ってくる。
「主。本当に、この樹上暮らしどもを後押しするんですかい? こいつら、ろくに拳も振るえませんぜ」
ダチーは再び、自分の意思とは無関係に口を開いていた。
「我らは交渉に来た」
ダチーが答える。
「戦いにではない。器を回収し、それを用いて共通の敵を打ち砕くことを望むのなら、ドワーフを我ら共通の盟友として遇さねばならぬ」
ダチーは自分の頭を叩いた。
(なんで俺がこんなことを言ってるんだ? こいつら、俺の様子がおかしいことに気づいてすらいないみたいだ! ……けど、女王は気づいた。どうやって? なんでだ?)
伊呂波女王が口を開いた。
「器の価値について、もう少しお聞かせいただけますか。二つの属性というのは大変強力に聞こえますが、私たちの敵は複数の属性を持っています。……十三、ですね」
「それは我らにとって問題ではない」
ダチーが誇らしげに答えた。
「だが、よい着眼だ、女王よ。正面から直接戦えば、我らは皆滅びる。ゆえに、得体の知れぬもののために死ねなどと、貴殿らへ求めるつもりはない」
ダチーが手を差し伸べる。
虚無にも似た物質が、その手を包み込んだ。
それを撃ち放つと、緑色の門が形を成した。
その向こうに映ったのは、巨大な橙色の、顔を持たない存在だった。
六本の脚。四枚の翼。その体は山々をも見下ろしている。
そして、ヴォルティアナと不気味なほどよく似た国が現れた。
その存在が国境を引き裂いていくのを、ドワーフたちは驚愕とともに見つめた。
巨大な橙色の刃が形を成し、城へ突き立てられる。その過程で、いくつもの区画が破壊された。
白い光が反撃する。
門は即座に途切れた。
「これが、過去だ」
ダチーが告げる。
「では次に、未来を見せよう」
門が別の光景へ切り替わった。
同じ存在が戦場を歩いている。その傍らにはドワーフたちが並び、画の外にいる襲撃者へ向けて武器を放っていた。
遠くで白い閃光が弾ける。
悲鳴と怒号が響き渡った。
「ヴォルティアナはどこだ」
巌雄が尋ねる。
「滅びた」
ダチーが答える。
「これは、あの者どもの最後の抵抗だ」
指を鳴らし、門を消す。
配下の者たちが、再びダチーの背後へ戻っていく。
ダチーは、王と女王が声を潜めて何かを話し合うのを見ていた。
(今のは、本当に未来なのか? 過去も? 俺は今、何をした? あれは何なんだ? ……それに、本当に全員を殺し尽くすのか?)
(いや、はったりかもしれない。……けど、全員が完全に信じ切ってる)
鋼牙が部屋へ入ってきた。ダチーは危うく跳び上がりかける。
「陛下、いかがなさいますか。客人方をお送りいたしましょうか」
巌雄が首を振った。
「この者たちの言葉を検討する。ヴォルティアナは我らを短い綱に繋いでいる。今のままでは、あの者どもに抗えぬ。必要なのはただ――」
プラズマの一撃が鳴り響き、護衛の一人の胸を貫いた。
残った護衛が即座に食卓の周囲へ集まる。ダチーの配下も同じように動いた。
「来たぞ!」
ヴォルティアナ族の兵が窓を突き破って飛び込み、護衛へ武器を放つ。
ほかの数人は刃を抜いた。
護衛たちが迎え撃つために駆け出す。
その間に鋼牙が、王家とダチーの一団を部屋の外へ導いていった。
「こちらへ! 行かねばなりません! ここは私が食い止めます!」
ヴォルティアナ族の一人が巌雄へ飛びかかる。
鋼牙がそれを打ち払った。
「何が起きているのですか!」
岩が声を上げる。
「あの者たちがここにいるはずがありません! この森へ来ることすら滅多にないのに、まして軍勢を率いてくるなど!」
「時は尽きた」
ダチーが漏らす。
「器を最優先せねばならぬ。今、この時に」
一同が廊下を駆け抜ける。
だが角を曲がった先では、襲撃隊が待ち構えていた。
背後からも別の部隊が迫ってくる。
ダチーの掌が光を帯びた。
「これ以上、ここに留まることはかなわぬようだ。……では回収の折にまた会おう、親愛なる同志たちよ。貴殿らが代々の王へ施すものと同じ儀式を、器に施せ。あの者を王に据え、領土を守らせるのだ。すべてが済めば、あの者は我らと共に、この世界をよりよいものへ変えるために働くだろう」
「待たれよ――!」
巌雄が呼びかけた。
ダチーと配下の者たちが、門の中へ飛び込む。
だがダチーだけが、外へ弾き返された。
ドワーフたちはもう、こちらへ声をかけようとしない。その横を走り抜け、次の廊下へ消えていった。
(もう俺が見えないのか? ……まあ、関係ない。追わないと!)
ダチーは廊下を駆け抜け、階段を下りていく王家の者たちに追いついた。
そのまま後を追う。
暗がりを抜けた先で、そこが明らかに見覚えのある場所だと気づいた。
儀式の広間。
「ここなら安全だ」
巌雄が言う。
伊呂波女王が、その両肩を掴んで揺さぶった。
「どこが安全なのですか! 上では民が屠られているのですよ! 何かしなければ! 嘆願でも、戦いでも、何でも!」
「妃よ、できぬのだ! 鋼牙と兵たちが対処する! 今の我らには、あの者どもの軍勢と戦うだけの力がない!」
岩が二人の間へ踏み出した。
「母上、父上! 民が私たちを必要としています!」
「そうだ! 見殺しにはできない!」
一成も同意する。
伊呂波が家族から身を離した。
「私は上へ戻ります。あなたたちはここに残りなさい。……私はこの王家に生まれた者です。民を見捨てることなどできません」
「妃よ、やめよ!」
その足が、不意に止まった。
ダチーは何を見つめているのか確かめようと振り向く。
そして、それを捉えた。
S-1の軍装をまとった、ヴォルティアナ族の少女。
赤い瞳。後ろで一つに束ねられた白い髪。
腰には刃を吊り、その眼差しは、その場にいる全員を震え上がらせるほど鋭い。
(灯里?)
(待て。あれは灯里じゃない!)
伊呂波女王が即座に振り返った。
「全員、逃げなさい! 通路を使って!」
少女が動く。
速い。
速すぎる。
伊呂波の胸元を斬り裂き、その首を掠めた。女王は蔓を使い、後方へ身を引く。
「ふざけんな」
少女が鼻を鳴らす。
「今ので首が飛ぶはずだったんだけど」
女王が蔓で砲を形作り、棘だらけの茂みを襲撃者へ撃ち放った。
同時にもう一方の手で蔓を球状に編み、家族をその中へ閉じ込め、そのまま奥へ押しやる。
「行きなさい! 今すぐ!」
「母上、やめてください!」
一成が叫ぶ。
「やめて、お願い!」
岩が続ける。
「妃よ、これをしてはならぬ!」
巌雄が訴えた。
ダチーが二人の間へ踏み込む。
だが襲撃者はその周囲を掠め抜け、回転しながら放った斬撃で砲を真っ二つに断ち切った。
伊呂波が蔓の巨兵を形作り、その操縦席へ座る。
巨兵の拳が、襲撃者の立つ地面を叩き潰そうと振り下ろされた。
だが少女は、その腕を一本削ぎ落とした。
(動き方が……将軍と同じだ!)
ダチーは察した。
(けど、もっと攻撃的で、もっと荒々しい! ……いや。ここが過去なら、この人を助けられるかもしれない!)
ダチーは空へ跳び、少女の刃が伊呂波の首へ届く直前に、その体へ組みついた。
自分の両腕を見下ろす。
「効いたのか?」
少女が動きを止め、こちらへ意識を向けた。
「あんた? あんたは……」
その刃が持ち上がる。
だが伊呂波が蔓で遮り、少女をダチーから引き離した。
「ごめんなさいね、ダチー」
女王が言った。
ダチーが凍りつく。
「でも、あなたにこれを変えさせるわけにはいかないの」
二本の蔓が天井へ伸び、そのすべてを引き落とした。
そして家族とダチーを、開いた穴の向こうへ投げ放つ。
次の瞬間、少女の斬撃が女王の首を断ち切った。
*
ダチーが目を開けたとき、そこは街の通りだった。
城の下に大きく開いた穴へ向かい、身を引きずっていく。
穴の中を見下ろす。
そこには伊呂波女王の壊れた体があり、襲撃者と――藤井が、その傍らに立っていた。
「またやりすぎだ」
藤井が息を吐く。
「本気で自制を覚えろ。さもなくば、また追放処分にするぞ」
少女が鼻を鳴らした。
「する気もないくせに。前の部下は、みんな死んだか引退したかでしょう。今さら誰を脅してるつもりなのか、私にはさっぱりですね、将軍」
「まだルカがいる」
「新人でしょ。入ったばかりの新顔」
「関係ない。お前にも新人の頃はあった」
少女が刃を鞘へ収めた。
「どうでもいいです。……次に誰かを殺す必要が出たら、呼んでください」
立ち去る前に、少女が短く足を止めた。
「そうだ。妙なものを見ました。属性が作用していたのかもしれません」
「なぜそう思う」
「少年です。人間の少年。ドレッドヘアの。……私に攻撃を当てて、そのまま消えました」
藤井が顎を撫でる。
「妙だな。実に妙だ」
少女は目にも留まらぬ速さで去り、藤井も同じようにその場を離れた。
ちょうど入れ違いに、王家の者たちが広間へ駆け込んでくる。
岩が即座に母の体を抱き起こした。
「母上? 母上! 聞こえますか?」
一成も駆け寄る。
数歩離れた場所には、沈痛な面持ちの巌雄が立っていた。
「母上! 何か仰ってください! 母上は、この程度で倒れるような方ではないでしょう!」
伊呂波が、ほんの短いあいだ目を開けた。
「ごめん……なさい……子供たち……民を……守れなかった……」
「母上! お願い、息をして! それだけでいいから!」
「そのようなことを仰らないでください!」
巌雄が歩み寄り、その頭を抱きかかえた。
「妃よ」
伊呂波がその顔を見上げる。
「あなた……器を見つけて……あの子は……あの者たちとは……違う……あの子なら……救える……私たち全員を……」
もう一言を発しようとして――そのまま力なく崩れ落ちた。
ダチーは何も言えないまま、それを見ていた。
岩が、通りにまで届くほどの声を上げて泣いた。
一成は地面を殴りつける。
巌雄は、石のような顔で立ち尽くしていた。
「父上」
岩が嗚咽の合間から言う。
「わからないのですか? 後援者たち――あの下郎どもが、暴君をここへ連れてきたのです! なぜあの男とその手下を、私たちの家へ入れたのですか! これこそ、あの男の狙いだったのでしょう! 私たちに、あの男の戦争を戦わせることが!」
巌雄が拳を握り込み、妻の体を見つめた。
「あの者の勝ちだ」
「え……?」
「止めねばならぬ。あの者どもを、残らず。屠り、拭い去り、絶滅へ追いやる」
巌雄が踵を返す。
だが、その足が何かを踏んだ。
屈み込み、それを拾い上げる。
首飾りに繋がれた時計だった。
そこに結びつけられた紙片には、こう記されていた。
『今後のご協力を楽しみにしております、巌雄王』
巌雄が吠え、地面へ崩れ落ちた。
*
ダチーは通りに立ち尽くしていた。
目を逸らそうとすらしていない。
伊呂波がその隣に現れ、肩へ手を置いた。
「ようやくお会いできて嬉しいわ、ダチー」
「あんた、最初から知ってたのか」
「もちろん。私はもう生きていないもの。……ただの記憶よ。自分自身の記憶の中を歩いているだけの」
「だったら、なんで俺を止めた」
「止めなければ、あなたは真実を見ることができなかったから。……もう起きてしまったことは変えられないの。ただ、それをありのままに見る必要があるだけ」
「けど、俺はあいつに組みつけた」
「そうよ。あなたも今、この記憶の一部なの、ダチー。……そして未来をどうするかは、これからのあなた次第」
「つまり、何が言いたいんだ」
その瞳が一度、閃いた。
「この物語がどう終わるのかを、あなたに決めてほしいの。……私の家族と民が敗れれば、ほかの者たちがあなたを求めてやってくる。あなたを利用するために。私は、あの者たちの遊戯の犠牲になった」
女王が一歩下がる。
その姿が、徐々に薄れ始めた。
「同じことがあなたに起こらないよう、祈っています、ダチー。……どうか、正しい選択を」
その姿が消える。
同時に、ダチーを取り巻く世界が崩れ始めた。




