第十六話「伊呂波女王」
応輝は小刀で格子を挽き切ろうとしていた。その肩には、岩がしがみついている。
岩の両手がわずかに震え、そのせいで応輝は小刀を取り落とした。
「それ、やめてもらえるか?」
「ごめんなさい! 何も考えられなくて!」
「こっちも集中できないんだ。誰か他の奴に抱きついてくれ」
岩は一歩下がり、片腕を擦った。
応輝は小刀を拾い上げ、格子の切断を再開する。少しずつ、金属の欠片が床へ落ちていった。
「あんたの父親は、どうしてこんなことをしてる?」
応輝が訊いた。
「俺は別に頭のいい男じゃないが、戦って死にたがる金持ちなんて、いったい何を考えてるんだ?」
「あの器というものに……父上は飲み込まれてしまったのです」
岩は自分の頭を叩いた。
「もう、どうして私は何もしなかったの? あのろくでもない異星人どもが嘘を並べたとき、声を上げていれば……」
応輝が小刀を動かす手を止めた。
「嘘? あの坊主は、あんたの親父をぼろ人形みたいに振り回してるぞ。……あいつらだけが知っていて、俺たちが知らない何かがあるとしたら?」
「どうでもいいです。私はただ、この戦いが全部終わってほしいだけ」
金属の砕ける音が、二人の注意を引いた。
ダチーの体が、広間の奥にある壁の下へ横たわっている。
巌雄は枝を脚代わりにし、蜘蛛のように天井を這っていた。
「余を殺せ、器! 戯れはもう十分だ!」
巌雄が天井から落下する。
ダチーは空中でそれを迎え撃った。
力を使って蛙のように跳ね上がり、巌雄を広間の端まで弾ませるほど強烈な蹴りを叩き込む。
王の枝が砕け散った。
巌雄は再び立ち上がる。
その目は血走り、笑みは耳の向こうまで裂けるように広がっていた。
「そうだ! それだ!」
ダチーが巌雄の脚を掴み、ぼろ人形のように何度も床へ叩きつける。
最後に手首を払うだけで、その体を横へ投げ捨てた。
王が体勢を立て直すより早く、ダチーはその首を掴み、壁へ押しつけた。
歯の隙間から、荒い息が漏れる。
「王冠を被った羊だな、あんたは」
ダチーが低く唸る。
「何様のつもりだ? 手下を寄越して、俺の頭を吹き飛ばさせておいて」
「ならば復讐せよ、小僧! 話はもう十分だ!」
岩が格子へ駆け寄った。
「やめて! ダチー、お願い!」
「くそっ」
応輝が事態を悟る。
「あの坊主、完全に野獣になってる。あの時計が何をしたにせよ、見事に効いてるってわけだ」
ダチーが腕を引いた。
その場にいた全員が凍りつく。
「死ね、ドワーフ」
バキッ。
*
(ダチー? 何してるの? あんたは人を傷つけたりしないでしょ。……ふふ。弟がいじめられるまでは、あのいじめっ子たちにだって指一本触れなかったくせに)
(アヤナ……?)
(本当にやるつもり? この人を殺して、この人と同じものになるの?)
(黙れ、アヤナ! この力は俺のものだ! 閉じ込められるのはもう終わりだ。俺を閉じ込めようとする奴は、全員殺す!)
(でも、それがお母さんの望むこと? お父さんは?)
(黙れって……言ってるだろ!)
ダチーが頭を抱えた。
片方の目が変化し始める。
元の色へ戻っていく。
ダチーは足をよろめかせ、その拍子に巌雄を取り落とした。
王は即座に枝をダチーの首へ巻きつける。
「止まるな! 失敗すれば、腐り果てるまで檻へ閉じ込めてやるぞ!」
正常に戻りかけた目が、再び暗く染まった。
ダチーが跳び上がり、巌雄を踏み潰そうとする。
だがドワーフのほうが速かった。
巌雄が片腕を振り上げると、三本の樹が地面から噴き上がる。
そのうちの一本が、ダチーの顔面を真正面から打ち据えた。
「少しばかり圧力が必要なようだな、器。拳を構えよ」
三本の樹が崩れ、無数の太い棘へ変わった。
棘がダチーの首と胸を目がけて飛びかかる。
ダチーが両手を打ち合わせた。
棘は一斉に地面へ叩き落とされ、その場へ縫い留められる。
次に迫ったのは、巌雄の長柄刀だった。
刃がダチーの首を狙う。
少年は横へ転がって躱したが、片耳を切り落とされた。
巌雄は手の中で長柄刀を返し、ダチーの胸へ深い斬撃を刻む。
胸の肉が裂け、その下にある骨と心臓が露わになった。
ダチーの体が激しく跳ね、互いに逆の方向へ不自然に捻じ曲がる。
「己を不死身と思い上がるな」
巌雄が嘲る。
「余には、貴殿より遥かに多くの経験がある。……内なる良心が貴殿を引き留めるのはよい。だが余を超える脅威と戦うには、断固たる決断が必要なのだ!」
ダチーの胸が半ばまで縫い合わさる。
その直後、両膝をついた。
「情けない」
巌雄が鼻を鳴らす。
「もっと期待していたぞ。……家族に会いたくはないのか? ならば、余が拭い去ってやろうか。母親がいるのだったな? 魚のように腹を裂き、その様を貴殿に見せてやる」
ダチーの胸が、先ほどよりも速く塞がり始めた。
「すぐには殺さぬ。だが人間は脆い。体が壊れるより遥かに早く、心のほうが折れるだろうな」
ダチーの片目に、暗い光が灯る。
腕の一振りで、巌雄の上半身を覆う鎧が砕け散った。
王が言い返そうと口を開く。
だがダチーはその手から長柄刀を奪い取り、柄で顔面を殴りつけた。
続けて刃を肩へ突き刺し、それを軸に巌雄の体を勢いよく振り回す。
そして手を放した。
岩と応輝には、ただ見つめることしかできない。
ダチーが巌雄を殴りつける。
何度も。
何度も。
やがてドワーフの鎧は完全に失われ、その体は血まみれになって壁へ寄りかかっていた。
「よい……」
巌雄が漏らす。
「さあ、王としての座に就け、器」
ダチーが片手を突き出した。
巌雄の体が壁へ激突し、全身の傷口が次々と裂け開いていく。
岩は素早く応輝の小刀を奪い、ダチーの傍へ投げた。
だが狙いが逸れ、小刀はダチーの足へ突き刺さった。
ダチーが首を傾ける。
漆黒の瞳が、真っ直ぐ二人を睨みつけた。
岩が片手を上げる。
「ダ、ダチー? ごめんなさい。そんなつもりでは――!」
瞬き一つで十分だった。
気づいたときには、ダチーが二人の目の前にいた。
格子を挟んだ、すぐ向こう側に立っている。
「なあ」
応輝が口を開く。
「あんたは、あいつを散々ぶちのめした。俺たちをここから出せば、みんなで家へ帰れる。これ以上、誰も傷つかずに済むんだ」
ダチーが二人の顔へ獣のような唸り声を浴びせた。
「……こりゃ駄目だ」
二人が状況を理解する暇もなかった。
格子はすでに砕け散っている。
ダチーが応輝へ飛びかかり、その頭を片手で掴んだ。
岩がダチーの腕へしがみつく。
「やめて! お願い! 私の話を聞いて!」
ダチーは肩をぶつけ、岩を地面へ弾き飛ばした。
倒れた岩の目が、ゆっくりと立ち上がる父の目と合う。
「娘よ」
「父上! あなたがこれを引き起こしたのです! なさったことを元に戻して、ダチーを解き放ってください!」
「まだわからぬのか、娘? 解き放つことなどできぬ! 貴様が目の前に見ているものこそ、最も真なる姿の器だ! これから何を為すか選べるのは、あの者だけなのだ!」
「ならば、どうしてこんなことをしたのですか? 私たちは全員殺されます!」
「否! 余は全てを制御下に置いていた。それを貴様が台無しにしたのだ!」
ダチーが首を巡らせ、巌雄をじっと観察した。
次の瞬間、応輝を放り出し、王へ向かって突進する。
時が止まったかのようだった。
ダチーの拳が、巌雄の心臓へ迫る。
その腕を、二本の金属製の触手が寸前で押し留めた。
「うわっ! これ、どういう状況? 兄さん?」
全員が天井を見上げる。
マラチーがそこからぶら下がっていた。
一本の触手を縄のように天井へ引っかけ、残る触手をダチーへ食いつかせている。
「あの人の心臓を抉り出そうとしてたよね、兄さん!」
マラチーが声を上げる。
「それ、完全にやりすぎじゃない?」
ダチーの目がマラチーを追い、その少年が抜けてきた天井の小さな穴も捉えた。
穴の向こうでは、氷と力の弾が飛び交っている。
遠くからは、狼の遠吠えが響いていた。
「弟……」
岩は父を掴み、応輝と一緒に広間の隅まで引きずっていった。
ダチーから可能な限り離れた場所へ。
「あなた……あなたが、あの人の弟なんですね!」
マラチーが数歩先の床へ着地する。
「僕のこと、知ってるんですか?」
巌雄が血を吐くように咳き込んだ。
「当然であろう、愚か者め。我らは器の私生活について、ほぼ全てを把握している。……我らを、何の備えもない阿呆とでも思っていたか?」
「思ってませんけど? まあいいや! とにかく何が起きてるのか教えてください! どうして兄さんの目があんなふうになってるんですか?」
岩が父の頬を平手で打った。
「私の父上が大馬鹿だからです!」
「余に手を上げるな、娘! 余を器へ差し出せ!」
「嫌です!」
岩の縋るような瞳が、マラチーへ向けられる。
「お願い、マラチー! あの人を正気に戻してください! 本当に誰かを殺してしまう前に!」
ダチーが片腕を空中で払った。
広間の隅に集まった三人が、重圧によって床へ押し伏せられる。
「静かにしろ!」
マラチーが兄の腕を強く引き、その力の制御を断ち切った。
「もういいって! 何してるんだよ、兄さん!」
ダチーの歯から唾液が滴り始める。
その視線がマラチーへ戻った。
「友達のところにいればよかったんだ」
ダチーが腕を引く。
マラチーの体が兄のもとへ引き寄せられ、そのまま壁へ蹴り込まれた。
マラチーが床へ転がり落ちる。
ダチーが襲いかかると、触手を使って安全な場所まで素早く身を引いた。
マラチーは触手で体を壁へ固定し、ダチーの全身を注意深く観察する。
「よし。呼吸は普段より速い。目と口には明らかな変異。声は海の底みたいに低い。……これは何かの突然変異? 器に関係してる?」
顎を撫で、目を細める。
「たぶん。……よし、直すぞ!」
ダチーが両拳を打ち合わせた。
圧力の波がマラチーを壁へ押しつける。
マラチーの触手の一本がプラズマ砲へ変形し、火を噴いた。
光線がダチーの額を掠める。
「ごめん、今のは!」
圧力が消えた。
マラチーは四本の触手全てをダチーの体へ巻きつけ、そのまま空中へ持ち上げる。
「落ち着いて! 思い出してよ! 僕だよ! 兄さんをここから出すために来たんだ!」
ダチーが返したのは、吐息と唸りの入り交じった音だけだった。
「まずい。怒りが急上昇してる! みんな、伏せて!」
触手が弾けるように引き千切られ、広間の重力が低下した。
全員の体が、泡のように浮かび上がる。
マラチーは二本の触手を床へ突き刺し、己の体を支えた。
ダチーは眉根を寄せたまま、その正面に浮いている。
別の触手がダチーを引き寄せ、マラチーはその顔面へ拳を叩き込んだ。
「聞こえてる? 目を覚まして!」
ダチーは、ほとんど身じろぎもしない。
マラチーが拳を構える。
ジャブ。
全力の大振り。
右フック。
左アッパー。
ダチーはその全てを、片腕だけで払い落とした。
反撃しようと動いた瞬間、マラチーがプラズマ砲でその顔面を撃ち抜く。
ダチーの顔の半分が吹き飛んだ。
「うわっ、出力過剰! またごめん!」
ダチーがマラチーへ組みつき、二人は重い音を立てて床へ落下した。
片手でマラチーを押さえつけたまま、ダチーが拳を何度も振り下ろす。
マラチーの両腕が金属へ変わり、降り注ぐ打撃を防いだ。
その片腕がダチーの首を掴み、勢いよく投げ飛ばす。
広間の隅から、緑色の光が差した。
兄弟が同時にそちらへ目を向ける。
岩が広間の中央に立っていた。
その周囲に蔓が芽吹き、円を形作っている。
「何をしている、娘!」
巌雄が問い詰める。
「父上の過ちを正すのです! マラチー、あの人をその場へ留めておけますか?」
マラチーが汗を流しながら立ち上がった。
「あ、はい、ドワーフさん!」
「……その、岩です」
少女が訂正する。
「あ、そうでした」
ダチーが地面から石の塊を引き剥がし、砕けた破片を二人へ投げつけた。
マラチーがプラズマの一撃で全て蒸発させる。
両腿に小型の推進器を形成し、勢いよく前方へ飛び出した。
そのままダチーの側頭部へ拳を叩き込む。
岩も続いて蔓を伸ばし、ダチーの体へ巻きつけた。
柔らかな光が、その全身を包み込む。
「癒しの蔓よ、どうかダチーの魂を元に戻して! この人を連れ戻して!」
巌雄が片手を伸ばした。
「やめよ! やめるのだ、岩! これは命令である!」
応輝が巌雄を地面へ押さえつける。
「黙ってろ、あんたは」
ダチーが自らの頭蓋を掴み、全員が耳を覆うほどの咆哮を上げた。
片手を払って蔓を切断し、岩へ突進して、その体を掴み上げる。
マラチーが触手でダチーの足を掬った。
だがダチーは脚を振り抜き、マラチーを振り払う。
岩の蔓が再び両腕へ絡みつき、ダチーの体を柔らかな光で照らした。
「聞いて、ダチー! 父上の望みを叶えさせないで! その力を握っているのはあなたです! 私でも、父上でも、ヴォルティアナでもない! あなたなのです!」
マラチーが兄の背へ飛び乗る。
「頼むよ、兄さん! 僕のことを覚えてる? 母さんは? アヤナは? ここに囚われたままじゃ、二人には会えないんだよ!」
ダチーは慣れきった動作のように裏拳を放ち、マラチーを払い落とした。
続いて頭を勢いよく跳ね上げる。
岩の体が、重力によって天井へ縫い留められた。
巌雄の顔に笑みが戻る。
「器を止められる者などいない。貴様らの足掻きは無駄だ。……余の命を奪わせよ。さすれば貴様ら全員、自らの足でここを去れる! 自由になれるのだ!」
その言葉が、ダチーの動きを止めた。
その体が激しく震え始める。
(自由?)
(そうだ……自由だ)
ダチーが崩れ落ち、両腕で辛うじて体を支える。
(違う。こんなものは……自由じゃない!)
重力が増した。
さらに一段、跳ね上がる。
空気が濃く重くなり、息をすることすらほとんど不可能になった。
岩が自らの喉を掴む。
巌雄も同じように喉を押さえた。
マラチーの両腕だけは自由に動いた。
兄へ指を向け、一本の触手を伸ばす。
次の瞬間――
ダチーは自らの頭を殴り飛ばした。
「兄さん!」
*
ダチーは目を覚まし、再生した頭へ手を当てた。
自分の寝台へ視線を落とす。
傍らの小卓には、果物を盛った鉢が置かれていた。
窓から差し込む夏の日差しが、目を眩ませる。
ダチーは紐を引き、カーテンを下ろした。
(どうやってここへ戻った? さっきまで、王や岩と一緒にあの広間にいたはずだろ?)
扉が音を立てて開いた。
一人のドワーフの女が部屋へ入ってくる。
岩より背が高く、同じように美しい顔立ちをしていた。
「ごきげんよう、貴賓のお方! お越しいただけて、本当に嬉しいわ。珈琲はいかが? お茶は? 他に何かご入用のものはあるかしら?」
ダチーが寝台から身を起こした。
「すみません。あなたは岩さんですか?」
女はダチーを上から下まで眺め――涙を流すほど激しく笑い出した。
「あら。よく間違われるのよ。……私よ。覚えていないの?」
女が指を鳴らす。
その髪が、見る間に長く伸びていった。
「伊呂波女王よ」




