第十二話「海の向こう」
玉座の間。
岩は、護衛たちに両脇を固められていた。
そのまま回廊を通って玉座の前まで連行される。そこには、父である巌雄が座っていた。
娘の姿を見るなり、巌雄は首を横に振った。その眼差しが、ほんのわずかに和らぐ。
「娘よ。まことに余の心を打ち砕いてくれたな」
岩は父を睨みつけた。
護衛たちの手を振りほどき、身を縛る鎖を強く引く。
「私は父上の大量虐殺には加担しません! わからないのですか? あの仮面の協力者たちは、父上に嘘をついているのです! あの者たちは私たちのことなど考えていません。自分たちのことだけです!」
巌雄が息を吐き、護衛たちへ頷いた。
「放してやれ」
「し、しかし陛下――!」
「我が娘を放せ。命令だ」
護衛たちは従った。
岩の鎖が外される。
巌雄は玉座から続く段を下り、娘の前へ立った。
岩は、父より頭一つ分も背が高い。
「父上。どうか、お願いです。これをやめてください。ヴォルティアナへ兵士を返してください。さもなければ、私たちの家は焼かれ、民は皆殺しにされます」
巌雄が、娘の腕を両手で取った。
「娘よ、それはできぬ。あの小僧を取り戻されれば、我らは皆死ぬ。勝つ道はただ一つ。あの者どもに殺される前に、こちらが一人残らず殺すことだ」
巌雄が息子へ向き直った。
「一成! 貴様もそう思うであろう?」
一成の顎が引き締まり、拳が固く握られた。
「母上にしたことを、私は決して許さない。全員殺します。一人残らず」
「兄上!」
岩が訴える。
「これは正しくありません! 兄上にもわかっているはずです! 母上は、私たちにこのような報復を望まれません!」
一成は答えなかった。
「岩」
巌雄が命じる。
「貴様が我らの最良の機会だ。行って器を説得し、我らに力を貸させよ。……あの者の愛する者どもを脅す手も、最後の手段としては有効だ。だが余は、それを望まぬ」
「なぜです?」
一成が訊いた。
「我らは一日中、あの者の忠誠を得ようと試みました。しかし、聞き入れるつもりなどありません」
「器の力を使うには、本人の完全な協力が必要だ。わずかでも不忠の兆しがあれば、あれを利用する望みは潰える」
岩の目が見開かれた。
「そんなことは――!」
巌雄の鋭い眼差しが、その体を凍りつかせる。
「忘れるな、娘よ。貴様は王家の血を引く者だ。余の血をな。……アスマナ森林を守ると誓った務めを果たさぬなら、その身分も力も直ちに剥奪する」
さらに一歩、娘へ近づく。
「そして器は、その誓いによって課された務めの最上位にある」
岩は抗議しようと口を開いた。
だが周囲を固める護衛たちに気づき、頭を垂れて顔を背ける。
「……承知しました、父上」
巌雄が一成へ頷く。
「同行せよ。だが、器には一切関わるな」
「承知しました、父上」
一成と数人の護衛が、暗い回廊へ歩き出した岩の後に続いた。
幾つもの石造りの扉と、弱々しく燃える松明の前を通り過ぎていく。
道中は完全に静まり返っていた。
聞こえるのは、ドワーフたちの足音と、岩の乱れた呼吸だけ。
一同は、回廊の突き当たり近くにある部屋の前で足を止めた。
一成が腰帯から鍵を取り出し、錠を開ける。
岩を中へ通すと、その背後で扉を閉ざした。
「ダチー? ここにいますか?」
ダチーは寝台に腰かけていた。
片脚には、タングステン製の鉄球付きの鎖。
窓には、補強された格子が嵌められている。
そしてダチーは、マンゴーを食べていた。
(移されたの? これも父上の策? ……でもダチー、少し、その……寛いで見える)
「ああ、あんたか。放してもらえたのか?」
岩がその隣へ腰を下ろす。
「そういうわけではありません。父上たちは、私にあなたを仲間へ引き入れさせようとしています。……あなたの力は、同意がなければ使えないそうです。だから何としてでも、こちら側へ連れてこいと言われました」
ダチーがマンゴーを置いた。
「どっちにしろ、どちらかを選ばされるみたいだな。……この力を使って家族を連れ出し、静かに隠れて暮らす方法はないのか?」
そして頭を抱える。
「いや。そんなことをしても意味ないか。あいつら、俺への当てつけだけで、閉じ込めてる人間を殺しかねない」
岩がその顔を見つめた。
「そこは、どのような場所なのですか?」
「ヴォルティアナのことか?」
「いいえ。海の向こうにある、あなたの故郷です。……話を聞いたことがあります。私たちの土地よりも遥かに人道的で、戦争も苦しみも必要としない場所だという噂を」
「俺たちは、世界のもう半分をエストリウムって呼んでる。住んでるのは人間だけだ。魔法を使うヴォルティアナ族もいない。ドワーフも、属性もない。ただの普通の、近代社会だよ。……海の向こう側に何があるのか知らない奴も多い。知ってる奴は、二度と帰ってこない」
「そこで暮らしてみたいです」
岩が打ち明ける。
「姫という称号は、父上の血への渇望を満たすために、私へ恐ろしいことをいくつもさせてきました」
「もし機会があれば、あんたを連れていけるかもしれない。……でも、こいつらがここまでやる連中だってわかった以上、海を渡る旅なんて許してくれるとは思えないな」
岩が部屋を見回した。
「あら? もう一人の若い方は、どこに?」
「尋問されてる。人間に関することなら何でも、全部あいつから聞き出そうとしてるんだ。天秤を自分たちの側へ傾けるための、もう一枚の手札ってわけだ。……俺が協力すれば、あいつを解放するって言われた」
岩が両手を組み合わせる。
「あなたは善い人のようです。私たちの戦争へ引きずり込んでしまったことが、ただ申し訳なくて」
ダチーがその背へ手を置いた。
「得したこともあるよ。この鎧は格好いい。力だって格好いい。……でも、大量虐殺しようって流れと、全員が完全な優越主義者みたいに振る舞うのは大嫌いだ」
「どちらの道を選ぶか、もう決めましたか?」
ダチーは長いあいだ黙り込み、目を閉じた。
「たぶん、ヴォルティアナだ。あいつらは手札を持ちすぎてる。……それに、俺が抵抗せずについていけば、この場所を粉々に吹き飛ばさずに済ませる可能性もかなりある」
岩が小さく頷いた。
「そうですか」
しばらくして、寝台から立ち上がる。
「あなたを助けたいのです」
「本当か? でも、その……あんたや家族に、もっと問題を起こすことにならないか?」
岩は扉へ目を向け、それからダチーへ向き直った。
「あの男たちは、器が私たちの種族同士の戦争を終わらせるうえで重要だと言いました。……私は、あの者たちを微塵も信じていません。でも、それには同意します。あなたの体から、とても大きな力が放たれているのを感じるのです」
ダチーが自分の手を見た。
「俺はそんなに特別じゃない。ただの普通だ」
「そんなことはありません」
岩が返す。
「少なくとも、それだけは明らかです」
扉の向こうから、低いざわめきが聞こえてきた。
岩は素早く蔓を伸ばし、ダチーの鎖を引き千切る。
「この部屋の外壁を破って、走ってください。私はできる限り長く、あの者たちを引きつけます。森の出口は南です。……約束してください。これ以上血が流れるのを避けるため、できることは何でもすると」
「……ああ。やってみる」
鍵の触れ合う音を、岩とダチーが同時に聞き取った。
少女は急いで、ダチーを外壁のほうへ向かせる。
「早く! 行かなければ!」
「応輝はどうする? あいつは大丈夫なのか?」
「あの方のことは私に任せてください。あなたはとにかく、ここからできるだけ遠くへ走って!」
*
一成と護衛たちは、扉の向こうで武器を構えて待っていた。
一成が鍵を手に取り、もう一度錠を開けようとする。
だが、突如響いた轟音に鍵を取り落とした。
ドォンッ。
全員が地面へ倒れ込む。
「何だ、今のは!?」
「寝室からです!」
一成が立ち上がり、扉を蹴り開けた。
そこには、腕で顔を覆った岩がいた。
その背後の壁には、大きく口を開けた穴。
そして、ダチーの姿はどこにもない。
「どういうことだ、妹! 何をした!」
岩が目元の埃を拭う。
「私は何もしていません! 器が――あの人が逃げたのです! あなたたちが、きちんと拘束していなかったからでしょう!」
「何を言っている? 愚かな妹め。何という過ちを犯した!」
岩は両手を上げるだけで、何も説明しなかった。
一成はその横を押しのけ、壁の穴へ向かう。
そこから外を見ると、ダチーはすでに数区画先まで逃げていた。
「妹は放っておけ! その失態の処分は後だ! 全員、器を追え!」
護衛たちが次々と穴を跳び抜ける。
一成も身を屈めて穴を抜け、その後を追って外へ飛び出した。
岩が胸へ手を当てる。
(逃げ切って、ダチー。お願い、逃げ切って)
通りでは、ダチーが全速力で駆けていた。
角笛が鳴り、その音が街中へ響き渡る。
体が灰色の光を帯び、さらに速度を増した。
建物の横を、弾丸のように駆け抜けていく。
住民たちが飛び退いて道を空け、ダチーはその間を縫うように走った。
地面を掻き分け、数十体の鉄巨兵が這い出してくる。
巨兵たちは壁を作り、ダチーの進路を塞いだ。
ダチーは道を引き返そうとした。
だがそのときにはすでに、背後を護衛の軍勢に塞がれていた。
先頭には、鋼牙と一成。
「またやるのかよ」
ダチーが呻く。
一成の手には、大型の鋼鉄製の棍棒が握られていた。
「我らは何十年も探し続けてきた」
一成が答える。
「器は、ついに我らの手中にある。それなのに貴様は、このまま歩いて自由になれると思っているのか? ……これが最後の警告だ。穏やかに我らへ力を貸せ。さもなくば、力ずくで働かせる」
「協力関係を成立させるには、俺の同意が必要なんだろ? 残念だけど、俺は同意しない」
「同意しないだと?」
護衛たちが一斉に武器を構えた。
「……ええと。やっぱり話し合わないか?」
「攻めよ!」
護衛の第一波がダチーへ突進する。
その後ろから、数体の鉄巨兵も続いた。
ダチーの瞳が灰色に閃く。
その光を見て、護衛の何人かが足を止めた。
「気をつけろ!」
一成が警告する。
「痩せっぽちでも、器であることに変わりはない! 侮るな!」
護衛の一人が、斧でダチーの腕を斬り落とそうとした。
だがダチーは武器を殴り飛ばし、そのドワーフを掴んで、後方から進んできた別のドワーフへ投げつける。
さらに前へ出た者たちが、武器を投げ槍のようにダチーへ放った。
ダチーが地面を強く踏み鳴らす。
放たれた衝撃波が、飛んできた刃の軌道を逸らした。
ドワーフたちが風に耐えるため顔を覆う。
その隙に、二体の鉄巨兵がダチーを掴もうとした。
だが外れる。
ダチーの体に力が迸り、最も近い家の屋根へ跳び上がった。
何も知らずに家の中にいたドワーフたちが、驚いて外へ飛び出していく。
「悪い!」
ダチーが声を投げた。
鋼牙が大剣を弧を描くように振り回し、その建物へ投げつける。
一撃で家が倒壊した。
だがダチーは、その間に隣の家へ移っている。
屋根の一部を引き剥がし、鋼牙へ投げ落とした。
司令官が拳の一撃で粉砕する。
ドワーフたちが横一列に並び、ダチーへ矢を放った。
その左胸を外すよう、慎重に狙いを調整しながら。
ダチーが矢を次々と打ち払う。
鉄巨兵が屋根を突き破り、這い上がってきた。
もう一体がダチーの真上へ飛びかかる。
ダチーはそれを躱し、二体の巨兵を激突させた。
その間も、巌雄は城の最上階にある露台から戦いを見下ろしていた。
両手を背中へ回している。
「馬鹿らしい」
巌雄が評する。
「あの暴君どもから己を解放した、その同じ者たちと戦うというのか。……道を誤った若者だ。だが、よい。逃げ切ることはできぬ。間もなく、我らの計画を理解するようになる」
岩はその背後に立ち、祈るように両手を固く組み合わせていた。
口元から、小さな言葉が幾つも漏れている。
巌雄が娘へ視線を投げた。
「見よ、娘よ。貴様の愚かさが何を招いたかを。この小僧を焚きつけ、決して換金できぬ小切手を握らせたのだ。……だが構わぬ。抗えば抗うほど、我らはあの力への理解を深められる」
岩は答えなかった。
憂いを帯びた目が、ダチーの姿を追い続けている。
通りでは、ダチーが何人もの護衛を次々と殴り飛ばしていた。
鋼牙が前へ出る。
大剣を背後へ引きずりながら。
「器」
低い声が漏れる。
「お、デカいドワーフさんか?」
ダチーが返した。
「再戦といこうではないか。な?」
鋼牙が動くより先に、ダチーが跳び上がった。
そのまま拳を地面へ叩きつける。
巨大な陥没穴が生まれ、鋼牙と複数の鉄巨兵、さらに大勢の護衛を丸ごと飲み込んだ。
一成は近くの店へしがみつき、辛うじて穴を避けた。
「貴様は敵を見誤っている」
一成が言う。
「だが、好きにするがいい」
腕を一払いする。
地面から太い蔓が噴き出し、巨大な手を形作った。
その手が、ダチーを掴み取ろうと伸びる。
ダチーの体が灰色の光を帯びた。
蔓の手へ跳び乗り、何度も拳を叩き込んで削り落としていく。
ドワーフの王子は目を細め、その様子を見つめていた。
次の瞬間、戦いの中へ飛び込み、ダチーを蹴り抜く。
ダチーの体が鍛冶屋へ飛び込み、建物を丸ごと崩落させた。
だが瓦礫の破片が空中へ浮かび上がり、弾丸のように一成へ殺到する。
ダチーが瓦礫の中から、ゆっくりと立ち上がった。
自ら引き起こした光景を、ほんの一瞬だけ驚きとともに見つめる。
その目が、金床を捉えた。
ダチーは金床を持ち上げ、一成へ投げつける。
それが王子の顔面を横殴りに叩いた。
一成の顎が、ばきりと鳴る。
その瞳が燃え上がった。
「者ども!」
武装したドワーフたちが、続々と現場へ駆けつける。
鋼牙が陥没穴から這い上がった。
鉄巨兵も同じように這い出し、さらに新たな巨兵がその横から現れる。
周辺の区画が、護衛たちで埋め尽くされていった。
その間も、巌雄と岩は高みから戦いを見つめていた。
「器を父上のもとへ連れてこい」
一成がダチーを指し、命じる。
「今すぐだ!」
軍勢が前進を始める。
ダチーは拳を上げ、腰を低く落とした。
先頭に立つのは鋼牙。
大剣を背後へ引きずり、その後には数百人の護衛が続いている。
「さあ、これですべてに決着を――」
ヒュンッ。
瞬き一つの間に、数十人もの護衛が足を凍らされ、腕を斬りつけられ、武器を細かく刻まれていた。
ダチーには、何が起きたのか理解する暇もない。
誰かの腕が胴へ回され、少年の体がその場から一瞬で運び去られる。
その場にいた全員が呆然とした。
ダチーが顔を上げる。
「藤井将軍?」
藤井はダチーを抱えたまま、屋根から屋根へ跳び移っていた。
ドワーフたちを、瞬く間に遥か後方へ置き去りにしていく。
「よく持ち堪えたな、坊主!」
数秒後、藤井は通りの中央へ降り立った。
そこには、巨大な装甲指揮車が待っている。
そして――残りの仲間たちも、全員揃っていた。




