第十一話「岩姫」
――アスマナ森林――
城内の食堂。
ダチーと巌雄は、石造りの卓を挟んで向かい合っていた。
鎖はもうない。代わりに、ダチーの体は毛皮の外套に包まれている。
少年は落ち着かなげに周囲へ目を走らせた。入口にはドワーフの護衛が並び、隣の厨房では数人の料理人が食事の支度をしている。
「こうして直に顔を合わせられて何よりだ、ダチー殿」
巌雄が言った。
「聞きたいことが山ほどあるのであろう?」
「まあ、そうだな」
ダチーが答える。
「まず、なんで鎖を外した? 別に文句を言ってるわけじゃないぞ。それと、どうして俺はここにいる? あんたは俺が器だって言うけど、俺自身、自分が何なのかも知らないんだ」
巌雄が両手を打ち合わせた。
料理人たちが皿を運んでくる。
焼いた肉。新鮮な果物。大きな杯に注がれた茶。
さらに、灰色がかった大きな塊が石板に載せられ、ダチーの前へ差し出された。
甘い香りが漂ってくる。
「我らの岩菓子だ」
巌雄が説明する。
「我が民の間では珍味とされている。試してみよ。手で掴み、そのまま齧りつけばよい」
ダチーは菓子を見つめた。
次に護衛を、料理人を、そして巌雄を順に窺う。
一分近く経ってから、ようやく菓子を持ち上げて齧りついた。
味がたちまち口いっぱいに広がる。
滑らかで濃厚。それでいて、強い旨味があった。
「うわ」
ダチーが息を呑む。
「トリュフみたいな味だ! いや、アイスクリームか? ……くそ、うまく言えないな。これ、どうやって作ったんだ?」
「我らはただの樹の民ではない。得意とするものもある」
ダチーは岩菓子を食べ進めた。
気づけば、すべて食べ尽くしている。
巌雄は辛抱強く見守っていた。その視線がダチーから外れることはない。
食べ終えた少年は茶を一口あおり、口元を拭った。
「でも、俺の質問には答えてないぞ」
「そうであったな。うむ」
巌雄が林檎を齧る。
「貴殿を鎖で繋いでおくことに意味はない。何しろ、貴殿の力を制御できるのは貴殿自身だけだからな」
「じゃあ、俺を武器にしようって計画はそれで終わりか? なら帰らせてくれ。弟がヴォルティアナに残ってるんだ。一人にしておけない」
巌雄が林檎を脇へ放った。
「まさに、そのヴォルティアナについて余は話したいのだ。あの者どもは、数え切れぬ非道の元凶だ。我らドワーフは、息をする一日一日を、あの者どもへの恐怖の中で生きねばならん。……貴殿を連れ出せたのは奇跡だった。あと少し長引けば、我らは司令官を失っていただろう」
「それはご立派な話だけどな。それが俺とどう関係するんだ?」
「貴殿の助けが欲しい。器の力は、その使い手に神にも等しい強さを授ける。貴殿が我らへ力を貸せば、ヴォルティアナに勝ち目はない」
「俺の属性は、その……神みたいなもんじゃないぞ。強く殴って、高く跳んで、速く動ける。それだけだ。別に特別じゃない」
巌雄が喉を鳴らして笑った。
「確かにな。今の貴殿では、戦を終わらせる者とは到底呼べぬ。……だが、余は見誤っておらん。貴殿の内に、それを感じる」
ダチーが片手を差し出す。
見慣れた灰色の光が、掌の周囲に灯り始めた。
「あんたが言ってる力って、これか?」
「否。……だが、その力が完全に開花すれば、万一の備えとしては申し分あるまい。器の力を余さず引き出せば、それに耐えられぬ肉体は破滅する。ゆえに貴殿こそが完璧なのだ。その作用を釣り合わせる、もう一つの属性を持っているからな」
「じゃあ、この属性が何なのか教えてくれるのか?」
「知らぬ。属性は、我らの理解を遥かに超えている。確かに言えるのはただ一つ……貴殿は二つの属性を持っている」
ダチーが眉を上げた。
「二つ?」
「そうだ。今のものと、器としてのもの。……重要なのは、どうやって得たかではない。ヴォルティアナが攻めてくる前に、我らがその力を引き出せるかどうかだ」
ダチーが茶をもう一口あおる。
「でも、話が通ってないぞ。あんたらは、この手のことに詳しいんじゃなかったのか?」
巌雄が深く息を吸った。
「我らの知識は、我ら自身の経験から得たものではない。あの者たちから、必要なだけの情報を与えられたのだ。……必要なだけで、それ以上は何もない」
「また『あの者たち』か。誰なんだよ?」
「この世界の歴史から、自らの存在を消した民だ。ヴォルティアナの残虐さによって、誰よりも深く傷つけられた。そして暴君どもが倒れるのを見るためなら、何でもする」
ダチーが顎を撫でた。
「自分たちを消した……つまり、隠れたのか? ヴォルティアナに追い込まれて?」
巌雄が肩をすくめる。
「貴殿の推測も、余の推測と大差ない。あの者たちは姿を現さぬ。秘密の経路であり、仮面なのだ」
王が立ち上がり、拳を握り込んだ。
「何を為すべきかを知る仮面。……アスマナ大陸を、あの魔法を操る殺人者どもからついに解き放つため、我らに何が必要かを知る仮面だ」
ダチーが首を横に振った。
「無理だ。悪いけど」
巌雄が振り返る。
「なに?」
「戦争に参加した覚えはない。それに、もし俺が加わったら、あいつらは弟をどうする? 祖父さんもあいつらの下で働いてる。危険に晒される。それに故郷には、母さんと親友もいる」
巌雄が目を細める。
ダチーは卓から離れた。
「それに、俺は今の属性すらまともに制御できない。あんたの言うような二つ目があったとしても、使えるようになるまで永遠にかかる。……そうなったら、全員死ぬ」
「では貴殿は、我らに自らをあの者どもへ差し出せと申すのか? 戦を終わらせ、あの権威に服せと?」
「違う。でも、交渉はできないのか? 互いに結べる条約とか、取り決めとか、何かあるはずだ。あいつらはあんたらの森に手を出さない。あんたらも、あいつらに手を出さない。……見込みが薄いのはわかってる。でも、それでもだ!」
巌雄が掌を卓へ叩きつけた。
床を割り、何本もの蔓が芽吹く。
「取り引きなどあり得ぬ! あの者どもは幾度となく、我らを絶滅の淵まで追い込んだ! 貴殿をあの者どもへ引き渡せば、我らは自らの滅亡を確実なものとする! ……貴殿は、自分が何であるかを理解しているのか? あの者どもが貴殿の力を解き放てば、世界はその気まぐれひとつで歪められるのだ!」
「だからって、試さないと駄目だろ! 血を流す必要はない。話し合えばいいんだ! あいつらには十分な領土があって、あんたらにはこの森がある! それで十分だろ? な?」
巌雄が頭を抱え、目を閉じた。
護衛と料理人が、一瞬だけ二人へ目を向ける。
だが巌雄がそれに気づくと、全員がすぐさま視線を逸らした。
「もうよい。これでは埒が明かぬ」
王が呟く。
「その力は、器本人にしか使えぬ。あの者たちは、貴殿が厄介な存在になると知っていた。……だが余は、この結末を受け入れられぬ」
背筋を伸ばす。
「鋼牙!」
司令官がすぐさま部屋へ入ってきた。
「陛下」
「我らの客を、森の中へ案内してやれ。少し外を歩けば、見方も変わるかもしれぬ」
鋼牙が頭を下げる。
「はっ」
分厚い手をダチーの背へ置き、部屋の外へ導いていく。
入れ替わるように巌雄の息子が現れ、去っていくダチーを睨み据えた。
「父上、あの小僧は己の故郷に背を向けません。すでに毒されております。自ら進んで我らへ力を貸させるなど不可能です。となれば、我らの最大の好機も潰えます」
「毒は治せる、我が息子よ。理によってか、力によってか。……鼠どもを根絶やしにすれば、檻の中にあれを繋ぎ止める者はいなくなる」
巌雄の瞳が光る。
「忘れるな。あれは今、我らの領内にある。あの者どもが欲しいのなら、ここまで来て奪うしかないのだ」
*
鋼牙がダチーを森の通りへ連れ出した。
ドワーフたちが道を削り出し、金床の上で武器を鍛え、炉で鎧の素材を溶かしている。
幼い子供たちが走り回り、鉄の棒を振りながら追いかけ合っていた。
「あんたら、幸せそうだな」
ダチーが言った。
「まさに。……そのような地に、貴様は背を向けるというのか? 貴様に何一つ悪を為していない、幸福で穏やかな安息の地に」
「あんた、俺の頭を殴り飛ばしただろ。何が『何一つ悪を為していない』だよ」
「必要な犠牲だ」
鋼牙は城から離れるように歩いていく。
ダチーがその後に続いた。
幾つもの石造りの家。
鎧を扱う店。
街角で肉を売る肉屋。
二人は、それらの前を通り過ぎていく。
鋼牙はその間、ずっと黙っていた。まるで何かを深く考え込んでいるかのように。
ダチーへ注意を払うこともなく速足で進むため、少年は追いつくのに苦労した。
「どこへ行くんだ?」
「ある場所だ。極めて重要な場所だ」
鋼牙が振り返った。
「貴様が本当に望むものは何だ。ドワーフを助けることか。それとも、あの暴君どもを助けることか」
「両方を助ける道はないのか?」
ダチーが訊く。
「あいつらが差別なんてくだらない真似をやめるなら、俺は喜んで手を貸す。やめないなら、その……武器だけ壊すんじゃ駄目なのか?」
鋼牙が息を吐いた。
「話しても無益だな」
男は速い歩調で進み続け、ダチーへ最後に一度だけ視線を向けた。
その背を小走りで追いながら、ダチーは周囲を見回す。
すでに、何人ものドワーフが少年へ注目していた。
子供たちが遊ぶのをやめる。
肉屋が肉を刻む手を止める。
鍛冶職人たちまで仕事の手を止めた。
「おい、器だ!」
「どけよ、俺にも見せろ!」
「話しかけに行こうぜ!」
瞬く間に、ダチーはドワーフたちに囲まれた。
鋼牙の姿は、もうどこにも見当たらない。
子供たちが腕を引っ張る。
鍛冶職人が顔を寄せ、その髭から汗を滴らせる。
肉屋まで、すぐそばから覗き込もうとしてきた。
ダチーは身をよじって振りほどこうとするが、群衆はますます膨れ上がっていく。
(まったく、こいつら風呂の入り方を知らないのかよ)
ものの数秒で、聞き慣れない声が耳を埋め尽くした。
幾つもの体が押しつけられ、身動きが取れなくなる。
そのとき突然、力強い手がダチーの腕を掴んだ。
群衆から引き剥がすようにして、近くの家へ引きずり込む。
ダチーが消えた後も、群衆はなお押し合いながら集まり続けていた。
一方のダチーは床へ投げ落とされ、外套をまとった謎の人影が、その背後で扉に鍵を掛けた。
ダチーが頭をさする。
「痛っ。……最高だな。ありがとよ、司令官さん。次は何だ? 家の中でも案内してくれるのか?」
人影が窓の外を窺う。
やがて全員がダチーの消失に気づき、周囲へ散らばって捜し始めた。
人影が振り返り、頭巾を外す。
「あ、あんた、司令官じゃない……女の子か!」
頭巾の下から現れたのは、若いドワーフの少女だった。
長い茶色の髪と、美しい茶色の瞳。
ほかのドワーフより少し背が高く、ダチーとほぼ同じ高さだった。
「ごめんなさい」
少女が言う。
「慌ててしまって。あんなに強く投げるつもりはなかったの」
ダチーが立ち上がる。
「平気だよ。……で、あんたは誰? 王の手先か何か?」
少女は顔を赤くし、目を逸らした。
「実は、あの人の娘なんです。名前は岩。……その、姫です」
ダチーが呻いた。
(最高だ。また姫か。姫ってのはいつも可愛くて、いつでも俺の腸を引きずり出す準備ができてる)
岩は木製の遮蔽板を使い、窓を塞いでいく。
ダチーはその様子を見つめた。
「え? 何をしてるんだ?」
「父上に見つからないようにするんです」
岩が答える。
「あの奇妙な男たちが、父上に都合のいい話を吹き込んだんです。でも、私はあの人たちを信じていません。……大量虐殺が正しいとも思いません。たとえ相手がヴォルティアナであっても」
ダチーが首を傾げ、身を寄せる。
「本当に?」
「はい。殺すことは間違っています。父上と兄上は憎しみに目を塞がれ、ほかの解決策を何一つ見ようとしない。……あの者たちを消し去っても、私たちが彼らより善くなるわけではありません。それに、報復へ動く同盟者がいるかどうかも、私たちにはわからないんです」
「ああ。あんた、頭いいな。それに可愛い」
「……え?」
「なんでもない。それで、ここから出るのを手伝ってくれないか? 俺の部隊が来る前に抜け出せれば、ひどい戦いを丸ごと避けられるかもしれない」
岩が両手を組み合わせた。
「やってみます」
ダチーは窓の外を覗こうとして――不意に動きを止めた。
「待った。ここにはもう一人、人間がいるんだ。応輝っていう。あいつも助け出すのを手伝ってくれないか?」
「あの偵察の人?」
「ああ」
「やってみます……」
岩が扉を細く開けた。
すでにドワーフの大半は、周囲を捜すために散っている。
岩は扉を閉め直し、外套を脱いでダチーへ渡した。
「これを着てください。私は人前を歩けますけど、あなたはそのままでは歩けませんから」
ダチーは外套を持ち上げてから羽織った。
「これ、香水の匂いとか染みついてないよな?」
「ええと……いいえ?」
「そうか。訊いてみただけだ」
外套が体を覆い、顔を隠す。
岩が扉を開け、ダチーの両腕を背中へ回して押さえた。
ダチーが一瞬だけ首を捻る。
「おい――!」
少女が人差し指を唇へ当てた。
「しっ! 信じてください」
ダチーは口を噤み、目を細めてから再び前を向いた。
数人の護衛が通りを駆けてくる。
少女の姿を見つけ、足を止めた。
「姫殿下! その者は誰です?」
「もう一人の偵察です」
岩が説明する。
「おそらく、最初の者を助けに来たのでしょう。でも、簡単に捕らえました」
蔓がダチーの胴へ巻きつき、両腕を背中に縫い留める。
護衛たちが武器を構え、そのうちの一人がダチーの頭巾へ手を伸ばした。
「我らの衣装を着ておりますな。ドワーフとは似ても似つかぬ体格では、愚かな変装ですが」
岩がその手を叩き落とした。
「触らないで。ヴォルティアナが何かを仕込んでいる可能性があります。あの者たちの技術は、私たちの理解を超えています」
護衛たちが顔を見合わせる。
「承知いたしました。せめて護送はお任せください、姫殿下。……王が城へお戻りいただきたいと仰せです。器が姿を消しました」
岩が護衛たちを睨みつけた。
「父上には待っていただきます。手に入れてから数時間も経たぬうちに、司令官と揃って器を失うほど無能なら、その失態に苦しませておけばよいのです」
少女は護衛たちを押しのけ、ダチーを地下牢へ連れていく。
護衛たちはその背を見送った後、再び通りの捜索へ戻った。
岩がダチーを地下牢へ押していくと、働いていた住民たちが次々と目を向けた。
「全員、下がりなさい! この者は危険な人間の偵察です! 敵が迫っています! 何が起きてもいいよう、備えていなさい!」
住民の何人かが手を叩く中、ダチーは地下牢へ引き込まれた。
岩が背後で扉を閉め、ようやくダチーを解放する。
ダチーはできる限り足音を殺し、階段を駆け下りた。
応輝は、先ほどとまったく同じ場所――房の中にいた。
「器か」
応輝が言う。
「話でもしに来たのか?」
ダチーが首を横に振った。
「違う。ここから抜け出す。同じ人間を置いていきたくなかった」
岩が蔓を使って錠を開け、房の扉を開いた。
応輝が外へ出てくる。
「姫まで味方につけたのか。やるな」
だが、その顔が不意に険しくなった。
「……だが、来るべきではなかった。お前がどちらに忠誠を置くか知られた以上、連中は俺たちを逃がさない」
「どういう意味――」
次の瞬間、武装した護衛たちが扉を破って押し入ってきた。
その先頭には、鋼牙、巌雄、そして巌雄の息子がいる。
「ちっ」
巌雄が鼻を鳴らす。
「これは何事だ?」
「父上!」
岩が声を上げた。
ダチーが応輝へ振り向く。
「あんた、俺たちを罠に嵌めたのか?」
「望んでやったことじゃない」
応輝が答える。
「俺はあいつらの手下じゃない。……ヴォルティアナと同じだ。優位に立つためなら、使えるものは何でも使う」
巌雄が首を横に振った。
「娘よ、余は貴様にもっと期待していた。我が民へ偽りを述べ、器を助けたと? ……そして貴殿もだ、ダチー。実に失望した。選択を貴殿自身に委ねれば、より良い結果になると思っていたのだがな」
岩がダチーの前へ立つ。
「父上――!」
巌雄が娘を指した。
「全員を捕らえよ! 今すぐだ!」
護衛たちが霞のように動いた。
次の瞬間、ダチーは顔から地面へ叩きつけられていた。




