第36話 心を溶かす一杯のお茶
水の都『アクア・ポリス』の崩壊した城門前。
先ほどまでの天地を覆い尽くさんばかりの激闘が嘘のように、そこには静かな空気が流れ、温かくて甘いお茶の香りが漂っていた。瓦礫の合間に即席で整えられたテーブルと椅子。バスティアンが腕を振るった『水鏡の琥珀糖』は、陽光を浴びて透き通るような輝きを放ち、盛り付けられた皿の上で宝石のように整然と並んでいる。
その中心で、一人の少女が震える指先で茶器を包み込むように持っていた。燃えるような赤い髪をなびかせたエルフの美少女――魔王サタンとしてこの都を絶対的な力で統治してきたサフィアである。
「……温かいです。本当に、あの方が淹れてくださったお茶と同じ、澄んだ味がいたします」
サフィアが『心音の白磁』に注がれた茶を一口含むと、器から柔らかな銀色の光がふんわりと溢れ出した。その光は静かに彼女の心を潤し、胸の奥底に巣食っていた外界への恐怖や、極度のあがり症を、春の温かさが雪解けを促すように、ゆっくりと鎮めていく。先ほどまでエルムの背後に隠れ、言葉を詰まらせていた姿はもうない。サフィアはゆっくりと顔を上げ、淀みのない瞳で真っ直ぐにエルムを見つめた。
「エルム殿。そして、皆様。先ほどまでの無礼を、どうかお許しください。この器を通して、師匠の想いが私の心を支えてくれています。……このお茶のおかげで、ようやく自分の言葉でお話しできそうです」
その声は、先ほどまでの消え入りそうな囁きではなく、透明感があり、芯の強さを感じさせる、落ち着いた響きであった。
「……ふーん。その器、やっぱりただの茶器じゃないんだね。持つ人の精神を安定させて、言葉を引き出す魔法が組み込まれている……。まさにサフィアのために作ったような器だね。」
エターナが銀色の髪を指で弄りながら、淡々とした口調で言った。その表情はいつものように平坦だが、器を見つめる瞳には深い関心が宿っている。
「サフィアさん。師匠であるゼノさんのこと、教えていただけますか? 彼は、あなたにとってどのような方だったのですか」
エルムが促すと、サフィアは深く、深く頷いた。
「私は、エルフの里でも『出来損ない』として疎まれておりました。エルフは森と魔力に生きる種族。……ですが、私は生まれつき魔力が極端に乏しく、小さな火を灯すことすら叶わなかったのです。喋ることも苦手な上に、魔法すら使えない私は、里の者たちから気味悪がられ、ずっと孤独の中にいました」
サフィアは自嘲気味に目を伏せ、かつて握りしめていた「木の枝」の感触を思い出した。
「そんな私が、里の端で一人、木の枝を剣に見立てて振っていた時でした。ふらりと現れたあの方が、私を見てこう仰ったのです。『お前が手にするべきは、魔導の杖ではない。世界を切り拓くための、真実の剣だ』と。……魔法の才能が皆無だった私の中に、剣の才能を見出してくださったのが師匠でした。そして、直接お会いしている皆さんならお気づきかもしれませんが、……あの方は、ただの風変わりな隠居老人などではございません。
あの方こそが、かつてこの大陸の秩序を築いた男。――初代魔王、ゼニス・ヴァルプルギスその人なのです」
その瞬間、広場を通り抜ける風の音さえも止まったかのような、重い沈黙が訪れた。
「「「ゼニス・ヴァルプルギス……!!」」」
エルム、ベル、そしてミレイユ。事情を知る者たちの声が、驚愕と共に重なった。
「ちょっと、待ってください……。ゼニス……ヴァルプルギス……。それって、エルムさんがスノー・グレイスで話してくれた……」
かつて世界を二分して戦った勇者カイルと、そのカイルの親友でもあった初代魔王。二人の語り合いによって、戦乱を終結させるために現在の『七魔王体制』が構築されたという、歴史の裏側にある真実。その宿敵の名こそが、ゼニスであった。
「……あぁ、そうか。ようやく繋がったよ」
エルムが、信じられないといった様子で深く息を吐いた。
「霧の谷でゼノさんと対峙した時、僕は死を意識したんだ。本物の怪物だと思った。でも、ゼノさんが初代魔王だと聞いて、納得したよ……。」
エルムは自分の手を見つめ、驚愕に震えた。
「だとしたら、全盛期のゼニスと対等に渡り合った君の父、カイルもとんでもない化け物だね……。 と、とろけるー! バスティアン、これ美味しすぎ!!」
エターナは早速バスティアンの用意したスイーツに手を伸ばす。
「あ、ありがとう、エターナ嬢……。それよりも俺は、話のスケールのデカさについて行けてないんだが……」
一人だけ事情を知らないバスティアンが、おろおろと周囲を見渡す。
「ああ、君は初めて聞く話ばかりだろうから無理もないね。……たしかにゼニス・ヴァルプルギスなら納得だね。霧の谷に展開されていた術式は異常だったから。初代魔王なら、あんな芸当ができても不思議じゃない。私も背筋が寒くなったしね。」
エターナがどこか他人事のように、それでいて確かな畏怖を込めて言った。
「……ゼニス様は、強すぎたのです。そして、あまりに優しすぎた」
サフィアは、白磁の器に映る自分の顔を見つめながら言葉を続けた。
「争いを終わらせて平和を築いた後、自分のような強大な存在が『王』として居座り続けることは、新しい時代の成長を邪魔すると考えられたのでしょう。……ですからあの方は、勇者カイル殿と話し合い、歴史からご自身の名前を消しました。そして、魔法すら使えぬ一人の不器用なエルフを拾い、静かに暮らす道を選ばれたのです。
ただし、ゼノ様は7人の魔王のバランスを危惧されていました。だから、仮面を被り、第三魔王サタンとしてこの地を統治されてきました。そして、魔王サタンの後継者として私を育て、その座を私に託してくれたのです。」
サフィアの独白は、静かに響いた。本来魔法を得意とするエルフが、剣一本で魔王の座にまで登り詰めた。その異常なまでの執念は、すべて「この場所だけは美しく守り抜いている」と、いつか師匠に認めてもらうための、彼女なりの必死な祈りだったのである。
† † † † †
「……サフィアさん。僕たちが今、旅の道標にしているこの『画集』についても、何かご存知ですか?」
エルムが懐から、一冊の古びた画集を取り出した。
各地の美しい景色が描かれた、旅の指針となっている本だ。それを見た瞬間、サフィアは目に見えて激しく動揺し、顔を耳元まで真っ赤に染め上げた。
「あ、……あぁっ! そ、それは、なぜ貴方がそれをお持ちなのですか!?」
「えっ? これはエターナがメルシナの古道具屋でたまたま見つけたんだよね?」
「そう。微量の魔力を発していたから気になって手を取ったんだけど、今思うと見つけて欲しいっていうこの本が主張してたのかもね。」
「それは……それはただのスケッチブックなんです……!」
サフィアは消え入りそうな声で、しかし必死に否定した。
「……それは、私が息抜きに……魔王の鎧を脱いで、サフィアとして各地を観光していた際、あぁ、ここは美しいな、守りたいな……と思った景色を、趣味で描き溜めていた……ただの、ただのスケッチブックです……」
「「「えぇっ!?」」」
その場にいた全員の声が、これまでにないボリュームで重なった。エターナですら、バスティアンが作ったスイーツでは物足りず、追加で食べようとしていた温泉饅頭を落としそうになる。
「……じゃあ、この『伝説の画集』の作者である『フィア』っていうのは……」
「……私の、ペンネームです。本名を出すのは、その、とても恥ずかしかったので……」
サフィアは両手で顔を覆う。心音の白磁の効果が薄れてきたようだ。
「いえ、サフィアさん。絵、すごくお上手ですね。僕たち、この本の景色が大好きなんです」
エルムが純粋な賞賛を伝えると、サフィアは指の間から涙目でエルムを見上げた。
「……そ、そう、ですか? ……あ、ありがとうございます。……あぁ、もう恥ずかしすぎて死にたいです……」
† † † † †
驚愕の連続だったお茶会が収束に向かう頃。
サフィアは、傍らに控えていた本物のマルコシアスに向き直った。
「マルコシアス。……私は、エルム殿と共に行きます。私が描いた景色を、彼らがこれほど大切にしてくれた……その旅の結末を、作者として見届けたいのです。」
「……畏まりました。サタン閣下、いえ、サフィア様。……ただ、魔王の執務はいかがいたしましょうか……」
マルコシアスは、サフィアの気持ちを優先したい気持ちと嫌な予感、2つの感情を抱きながら、恐る恐るその疑問を投げかける。
「もちろんマルコシアス、私が一番信頼するあなたにお任せします。これまでも魔王の執務も実質あなたが行なっていたようなものですし、魔王代理として全権を委ねます。」
(やはりそうきますか、サタン閣下……!)
「有り難きお言葉。この地の統治は、私が責任を持って代行いたしましょう。サタン閣下の名に恥じぬよう、一分の隙もなく守り抜いてみせます。」
「……感謝します、マルコシアス。」
サフィアはかつての「魔王サタン」としての凛とした面持ちでそう告げると、再びエルムの方へと向き直った。
「エルム殿。私も、皆様の旅に同行させていただけますでしょうか。……まだ、お茶のおかわりもいただきたいですし……」
恥ずかしそうに、でも真っ直ぐに願い出るサフィア。エルムは満面の笑みで頷いた。
「もちろんです! こちらこそ、よろしくお願いします。サフィアさん」
新たな仲間が決まった。だが、そこでずっと沈黙を守っていたミレイユが、扇を閉じ、鋭い視線を一行に向けた。
「……お茶会の最中に悪いけど、一つだけいいかしら」
ミレイユの纏う空気が、一瞬で魔王のものへと変わる。
「サフィアを騙し、エルちゃんを世界の敵に仕立て上げようとしたあの『牙』……実はね、私のところにも情報が入っているのよ」
ミレイユが懐から取り出したのは、歪な紋章が刻まれた黒い石だった。
「奴らの尻尾、少しだけ掴めたかもしれないわ」
虹の架かる美しい水の都。その輝きとは裏腹に、物語は真の黒幕が潜む暗雲へと向かって、再び動き出そうとしていた。




