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黎明魔界のティータイム〜最強の僕は、のんびりお茶を飲んでいたい〜  作者: 七割カカオ
第九章 水の都の魔王

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第32話 熱きパティシエの誓い

水の都アクア・ポリス。白石造りの壮麗な街並みを縫うように流れる運河は、午前の陽光を反射して、まるで砕いた宝石を敷き詰めたかのようにきらめいている。冒険者ギルド『蒼穹(そうきゅう)の翼』での報告を終えたエルムたちは、昨日の騒動の報奨金として手渡された、ずっしりと重い金貨袋を手に、都の北側に位置する職人街へと足を向けていた。


エルムが向かったのは、高級魔導具専門店だった。そこで彼は、ミスリルを贅沢に使用した最新鋭の調理器具一式と、精密な魔法回路を搭載した魔導冷却機を、一切の躊躇なく買い揃えた。それは、昨夜出会ったあの誇り高いパティシエが見せてくれた、テ・セレストの誇りへの、エルムなりの『礼』であった。


† † † † †


職人街の片隅に佇む、古びた、しかし隅々まで手入れの行き届いたカフェ『黒の雫』のカウンターの奥に座る主、バスティアンは昨夜から一歩も動いていなかった。彼の目の前には、無惨にひしゃげた銀のボウルと、魔法回路が焼き切れ、黒ずんだ年代物の泡立て器が置かれている。


「……バスティアンお兄ちゃん。あんまり悲しまないで?」


不意に、裾をきゅっと引っ張る小さな感触。

足元には、まだ十歳にも満たない小さな少女、ミアが、大きな瞳に涙を溜めて見上げていた。彼女はバスティアンの服の袖を、小さな手で一生懸命に握りしめている。


「……ああ、ミア。驚かせて悪かったな。泣いてねえよ。ただ、こいつの顔を見てただけだ。」


バスティアンは、大きな手でミアの頭を優しく撫でた。

彼にとって、この道具は単なる鉄の塊ではない。路地裏で飢えた野良犬のように生きていた自分を拾い、生きる術を叩き込んでくれた親父代わりの恩人――ヴァレリウス・フォン・グランツとの、唯一の物理的な絆だったのだ。


その道具を、己の未熟さゆえに守れなかった。職人としての矜持も、漢としての誇りも、昨夜の惨状と共に砕け散っていた。


「……道具は、使い手の心だ。俺の心が揺らいでいたから、こいつを傷つけちまった。職人失格だな」


「そんなことない! お兄ちゃんのお菓子は、世界一なんだから! 私、知ってるもん……!」


ミアが健気に叫ぶ。その声に救われながらも、バスティアンはカウンターの上に広がる道具たちから目を逸らせずにいた。


その時、カラン、と乾いたドアベルが、静寂を破った。


「……悪いが、営業はまだだ。」


仕事どころではないバスティアンは、顔を上げずに答えた。だが、返ってきたのは、穏やかで、しかし驚くほど透き通った声だった。


「いいや、今日からまた開店オープンだよね? そのために、これを持ってきたんだ」


そこに立っていたのは、昨日助けられた青年、そしてその仲間の女性たちだった。バスティアンは反射的に背筋を伸ばし、立ち上がる。


「職人として、見苦しい姿をお見せしました。みなさん……昨夜は、言葉では尽くせぬほど助けられました」


彼は、最大限の敬意を込めた深い一礼をした。


「礼には及ばないよ。……それより、これを使ってくれないか?」


エルムがカウンターに、布で包まれた大きな包みを置く。バスティアンが怪訝な顔でその包みを解くと、中から現れたのは、白銀に輝くミスリル加工のボウル、最新鋭の温度管理魔法が刻まれたナイフセット、そして水の都の湿気さえも完璧に制御する最高級の魔導冷却機だった。


「……っ。冗談だろ。こんな最上級の道具……今の俺には、過ぎた代物だ。そもそも、なぜあんたが、見ず知らずの俺にここまでするんだ……」


「いいや。ヴァレル……ヴァレリウス・フォン・グランツが認めた男なら、これくらいは当然だと思ってさ。」


ヴァレリウス。その名が出た瞬間、バスティアンの肩が激しく震えた。彼は目を見開き、エルムを凝視する。


「……あんた、今、なんて言った。……旦那の名を、知っているのか」


バスティアンの脳裏に、かつて公爵邸の地下室、厳しい修行の合間にヴァレリウスと交わした会話が蘇る。普段は冷徹なまでの威厳を纏い、七人の魔王さえも敬遠するあの老公爵が、唯一、一人の男の名を口にする時だけ、その瞳に神聖なまでの畏怖を宿していたのだ。


『バスティアン。いつかお前が、エルム・エリュシオン様にお会いすることがあれば……躊躇うことなくその命を預けなさい。……あの御方は、私がこの生涯で唯一敬愛し、お仕えすると決めた……私の、そしてこの世界の「光」なのだから』


あの孤高のヴァレリウスが、自ら「仕える」と断言した男。バスティアンは、目の前の青年を改めて見つめた。


穏やかな風貌。だがその瞳の奥には、すべてを包み込み、そしてすべてを圧倒するような、底知れない何かが潜んでいる。それは、力による支配ではなく、存在そのものが世界の理を書き換えてしまうような、静かなる覇気。


「……そうか。旦那があそこまで惚れ抜いた『エルム様』っていうのは、あんたのことだったんだな。……ようやく、すべてが繋がった」


バスティアンは、真新しいミスリルのナイフを手に取った。その刃に映る自分の顔は、先ほどまでの迷いが消え、職人としての覚悟が宿っている。


「旦那は、俺にこうも言った。『パティシエとしてではなく、一人の漢として、彼に付き従う価値があるかどうか……お前が見て、お前自身の意志で道を選べ』と。俺は今、その答えを見つけた」


エルムを真っ直ぐ見据える。


「決めましたよ、旦那。俺は、俺の意志で、このアニキについていく。……そして、この美しいお嬢様方が、一生甘いものに困らない世界を、俺の腕で作ってやる」


バスティアンは、エルムの前に跪き、拳を床についた。


「エルムさん。……いや、アニキ。俺のこの腕と命、あんたに預けるぜ。テ・セレストの最高峰のパティシエとして……いや、一人の旅の仲間として。あんたが見ようとしている世界に、最高のスイーツを添えてやる」


「……ああ、期待しているよ、バスティアン」


エルムがその手を力強く握りしめた。


その様子を見ていたミアが、不安そうにバスティアンの服を掴んだ。


「お兄ちゃん……旅に出るの? 遠くへ……行っちゃうの?」


バスティアンは膝をつき、ミアの目線に合わせてその肩に手を置いた。


「ああ。ミア、お前には寂しい思いをさせるかもしれない。だが、俺は行かなきゃならないんだ。このアニキと一緒に、広い世界を見て……そして、もっと凄い職人になって戻ってくるために」


ミアの瞳に、大粒の涙が溜まる。だが、彼女はそれをこぼすまいと、必死に唇を噛みしめた。彼女は、バスティアンがどれほどこの機会を、そしてエルムという存在を待っていたかを、子供ながらに察していた。


「うん。わかったよ、お兄ちゃん。……私、寂しいけど……でも、大丈夫! ここは、私がちゃんと守っておくから! お兄ちゃんが戻ってきた時に、『汚いお店だな』って言われないように、毎日お掃除するもん!」


ミアは精一杯の笑顔を作り、小さな拳を握りしめた。


「ああ、頼んだぜ、ミア。お前なら、立派にこの店を守れるはずだ。……それに、アニキたちがいる限り、この街に手出しをさせるような奴は二度と現れねえ」


バスティアンは、ミアを優しく抱きしめた。別れの寂しさはある。だが、それを上回るほどの「希望」が、今の彼の胸には満ちていた。


† † † † †


それから1時間後。

『黒の雫』の店内に漂い始めたのは、芳醇な焦がしバターと完熟シトロンの香り。最新の調理器具から生み出されたのは、アクア・ポリスの輝く水面をそのまま皿の上に落とし込んだような逸品――『碧水(へきすい)のレアチーズテリーヌ』。


「うんまーーっ! これだよ……! これこそ、私が夢にまで見た、脳を直接震わせるような糖分の衝撃……!」


エターナの藍色の瞳が幸福感で埋め尽くされ、その鋭い耳の先が、隠しきれない興奮でぴくぴくと動く。


シロハは「(あるじ)様、これ最高ですよぉ!」と頬張り、ベルもまた、その完璧な味の調和に言葉を失っていた。


「ははは、どうやら、新しい仲間は合格みたいだね、エターナ」


「……ま、まあ、ギリ合格かな。これくらい作れるなら、旅の荷物に加えてあげてもいいよ。」


照れ隠しに顔を背けながらも、フォークを止めることのできないエターナ。


『BEE』に加わった新たな情熱が、彼らの旅路をさらに鮮やかに、そして甘美に彩り始めていた。

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