第31話 呪われた血と誇り
水の都アクア・ポリスの北端。かつては都の推移を調整するために築かれ、今や地図からも消されて浸水のなすがままに放置された巨大な石造りの遺構――『月光水門』。
高く円い天井には湿った苔がへばりつき、わずかに差し込む月明かりが、足元に溜まった泥水を鈍く、寒々と照らし出している。都の華やかさから完全に切り離された、沈黙が支配する廃墟だ。
「……約束通り一人で来た。ミアを返せ」
男――バスティアンの低い声が、伽藍とした水門内に重く反響した。正面の闇の中から、足音もなく現れたのは一人の男だった。仕立ての良い濃紺の礼装を隙なく纏い、感情を削ぎ落としたような眼差しを向ける男。独立組織『テ・セレスト』の壊滅を目論む、犯罪組織『牙』の幹部――ゾルダンである。背後には、彼の部下と呼ぶには品がない、明らかに暴力しか取り柄がない輩が10名ほど控えている。
「よく来てくれた、バスティアン。君のような実力者が、たった一人の少女のためにこれほど容易く、無防備に姿を現すとは。テ・セレストも随分と甘くなったものだな。」
ゾルダンの指し示す先、太い石柱の影にミアの姿があった。彼女の喉元には、複数の魔獣を歪に繋ぎ合わせたような巨体を持つ、合成魔獣『キメラ』が、粘ついた涎を垂らしながら低く唸っている。その鋭い爪は、今にもミアの細い喉を切り裂かんばかりに突き立てられていた。
(あれは、ヴァレリウスの旦那が言っていたキメラか……なぜこんなところに。奴らの指示に従っているということは、操っているのか? それとも、自然発生型ではなく、まさか、やつらが作り出したの人工型のキメラか?!)
「……動くなよ。君が指一本でも動かせば、この獣の爪がその子の柔い喉を裂く。君がどれほど速かろうが、その瞬間の速度には勝てまい?」
バスティアンは拳を握り締め、屈辱を押し殺してその場に膝を突いた。険しさを宿した鋭い目元には、生涯消えることのない深い葛藤が刻まれている。
だが、その膝を突いた姿勢のまま、バスティアンから温度の無い殺気が溢れ出した。
「……勘違いするな」
低く、地を這うような声。その一言に、ゾルダンは微かな寒気を覚えた。
「その子に指一本でも触れてみろ。……ここにいる全員、一人残らず殺す。一人も逃がさないし、慈悲も与えない」
バスティアンの瞳の奥に宿る凄絶な意志。それは単なる虚勢ではない。もし人質がいなければ、この場の全員が次の瞬間に命を失っているという確信。強大な力を飼いならす者の、底冷えするような重圧だった。
ゾルダンの背後に控えていた男たちが、本能的な恐怖に気圧され、一歩後ずさる。
「……負け惜しみを。君に選択権は無い!」
ゾルダンは自身の動揺を打ち消すように声を荒らげ、後ろの男たちに合図を送った。無抵抗を貫くバスティアンに対し、男たちが一方的な暴行を加える。鈍い打撃音が水門内に響くたび、ミアの瞳から大粒の涙が溢れ落ちた。自分を助けに来てくれた男が、自分のせいで踏みにじられている。その光景に、彼女は声にならない悲鳴を上げ続けていた。
「客観的にこの状況を見て、何事もなくその子を返してもらって帰れると思ったのか?君には想像力が無いのか? 手を出せない君を殴り殺した後に、口封じでその子を消して終わりだ。もし想像力が多少でもあるなら、ここに来た理由はなんだ?君が死ぬ前に聞いておきたい。」
「確かにお前のいう通りだ。そうだな、どうせ死ぬなら、何も話さないで死ぬよりマシか……その子は……ミアは、普通の奴らなら逃げ出すか攻撃してくるような、俺のヴァンパイアの姿を見ても、1ミリも怖がらなかった。そして俺の作るデザートを美味しいと言って食べてくれた……。」
静かに聞いていたミアは、死を覚悟したバスティアンの、ミアに語りかけるような、遺言とも思える言葉に涙が止まらなかった。
「ミアみたいな、心の優しい子供たちが安心して茶を飲める世界を維持するのが、テ・セレストの役目だそうだ。これは、俺の尊敬する旦那の受け売りだが、俺自身も気に入ってるポリシーだ。俺はコーヒー派だけどな。
それとな……俺のことを認めてくれて、俺が作るものを『美味い』と言ってくれる客が一人でもいるなら、そいつのために命張って死ぬのは悪くない……だって、そんなパティシエ、カッコ良すぎるだろ? ガハハハハハハ!」
この状況で、強がりでも、気が触れたのでもなく笑えるこの男の豪胆さと、テ・セレストという組織の強さの真髄を垣間見たゾルダンは戦慄した。
「理解できん……不快だ。キメラよ…喰い殺せ!」
大好物を前に、主人の長すぎる「待て」から解放された猛獣が、バスティアンに向かって走り出す。
「ミア、ごめんな。新作のデザートは完成したんだが、お前が最初に試食するって約束、守れなそうだ……」
全速力で走り出したキメラは、突然目の前にから立ちはだかった氷の壁に激突して転倒し、次の攻撃を警戒して唸り声を上げる。
「ちょっと待った。今私がその男を助けたんだから、私が2番目に試食するからね。」
「エターナ様、デザートの話は後にしてください!」
後ろから追いついたベルが、相変わらず空気を読まない賢者を嗜める。
「いや、重要なことだよ。期待の新作スイーツが世に出る機会を奪おうとしてるこいつらは、万死に値する。」
「シロハは3番目に試食するですー!」
ゾルダンが苛立ちと動揺を隠せない声で遮る。
「なんだお前らは。ふざけるな! ここがどこで、今どんな状況か分かってるのか?」
「私は、通りすがりの甘党だ。ここは、今は廃墟となっている月光水門で、そのミアって女の子がその男の弱みになると気付いて、誘拐して彼を呼び出して殺して、その後ミアも消そうとか思ってたんでしょ?」
「…………。」
「エターナ。図星だろうけど、この人たち、何も言えなくなって困ってるよ。君が話すとややこしくなりそうだから、僕が話すよ。」
水門の入り口から、冷たい凪のような声が響いた。エルムが、静かに、歩み寄る。
「……誰だ、お前ら。何故ここにいる。……関わるな。これ以上、死人を増やしたら、ヴァレリウスの旦那に申し訳が立たない……」
血を吐き出しながら鋭い視線で止めようとするバスティアンの前に、エルムは静かに、だが揺るぎない壁のように立ちはだかった。
「……良かった、間に合った。やっぱり君がバスティアンか。」
「僕たち、似たもの同士だね。」
エルムが言った。その声には、さっきまでの穏やかさはない。代わりに宿ったのは、深い静寂を纏った、抗いようのない王者の響き。
「自分の中にある力を隠して生きている。……でも、そんな力も、誰かを守るためにあるなら、誇っていいはずだよ。誰か一人でも自分を認めてくれる人がいるならいいじゃないか。ミアがその一人なんだろ?」
「何を……っ」
「自分の血を呪う必要なんてない。君はヴァンパイアで、僕は魔族だ……。僕は、この血を恥じてないし、両親から受け継いだ誇りだと思ってるよ。」
その瞬間、エルムの碧色の瞳が、燃え上がるような紅へと塗り替えられた。 背後からは、光を吸い込むほどに重厚な翼が、音もなく広がる。一瞬にして顕現した、気高き魔族の姿。水門全体が、物理的な重圧に沈み込んだかのように軋み、周囲の空気が目に見えるほどに歪んだ。
「……何だ? この気配……!?」
ゾルダンの顔が引き攣る。先ほどバスティアンから感じた殺気を遥かに上回る、世界そのものから拒絶されているかのような圧倒的な威圧。
床に転がっていたキメラが、本能的な死の予感に喉を鳴らし、硬直する。食物連鎖の頂点すらも超越した王を前に、魔獣としての本能が完全に崩壊していた。
「……改造されて作り出されたのか…お前も被害者だな。もう眠りについていいぞ。」
エルムが、わずかに指先を動かした。大気を切り裂く不可視の衝撃が放たれ、巨大な合成魔獣は、悲鳴を上げる暇もなく、塵となって霧散した。
「馬鹿な……!」
ゾルダンは逃走を試みようとしたが、エルムが放つ圧倒的な威圧がそれを許さなかった。逃れられぬ絶望的な重圧を直接脳に叩きつけられ、ゾルダンを含む屈強な男たちは全員、白目を剥いて、崩れるようにその場で意識を失った。
† † † † †
静寂が戻った水門。エルムは翼を消し、瞳の色を戻すと、呆然と座り込むバスティアンへと歩み寄った。
「バスティアン。怪我は大丈夫かい?」
「……アンタ、一体……」
バスティアンの問いには答えず、エルムは縛られていたミアの縄を静かに解いた。ミアは解放されるなり、震える足でバスティアンに駆け寄り、その胸に飛び込んだ。
「バスティアンお兄ちゃん! ごめんなさい、私、お兄ちゃんが……!」
「ミア……。ああ、無事でよかった……。……すまなかったな、怖い思いをさせて」
少女を抱きしめるバスティアンの肩が、微かに震えていた。エルムはその背中を一度だけ見つめると、気絶したゾルダンを見下ろし、背後に控えていたベルに声をかけた。
「ベル、後始末を。……この街には、思っていたより深い闇がありそうだね。」
「はい、エルムさん。……この男、ギルドへ引き渡しましょう。興味深い情報を持ってそうですから」
月光に照らされた水門。エルムの瞳は、再び穏やかな黒色に戻っていたが、バスティアンの脳裏に焼き付いた「赤い輝き」は、彼の運命を大きく変えようとしていた。




