第27話 温泉街の残念な精霊
霧の谷の濃密な静寂を抜け、一行の視界を突如として埋め尽くしたのは、夜の闇を黄金色に塗りつぶす眩い色彩の波だった。
山あいに形成されたその街――銀鱗の街『テルマーレ』。街の中央広場には、この地の象徴とも言える圧巻の情景が広がっていた。幾重にも組まれた巨大な木の樋が階段状に並び、そこをエメラルド色に輝く源泉が、重厚な水音を響かせながら勢いよく流れ落ちている。立ち上る湯煙は、街中に配置された魔導ランプの灯りを吸い込み、真珠を砕いて散らしたかのように夜空を白く染め上げていた。
「わあ……! すごいです、主様! お湯のカーテンですよ! 街全体がお祭りをしているみたいです!」
御者台の隣で、シロハが身を乗り出して碧眼を輝かせた。風に乗って運ばれてくるのは、独特の硫黄の香りと、どこか懐かしい薪の火が赤々と踊る芳ばしい匂い。石畳の通りには、色とりどりの浴衣に身を包んだ観光客たちが溢れ、カランコロンと、心地よいリズムを刻む木靴の音が絶え間なく響いている。
「ふーん。……おかしいね。いつの間にこんな大きな街になったのかな。私の記憶だと、ここはただの冷たい川が流れる静かな谷だったはずなんだけど」
馬車の窓から、エターナが眠たげな瞳をパチパチと瞬かせながら呟いた。銀髪を指先で弄りながら、彼女は不思議そうに周囲を観察している。かつて彼女がこの辺りを通った500年前、ここは月光と霧が支配する名もなき、ただ冷たい川が流れる静かな谷に過ぎなかった。
「エターナ様、ご存知なかったのですか? 今のテルマーレは、大陸全土から病を治したい人々が集まる、奇跡の温泉郷なんですよ。この源泉には強力な治癒魔法が宿っていると言われていて……」
ベルがいつものように手帳を片手に熱心に解説するが、エターナは「ふーん」と気のない返事をして、窓枠に顎を乗せた。
「人間の寿命は短いのに、街を作るのだけは早いね。」
† † † † †
その夜。女子三人は、宿の奥に設けられた広大な大浴場へと足を運んでいた。源泉を贅沢に引き込んだ浴室は、天井を支える巨木の梁が露出し、壁一面に貼られた銀色のタイルが、お湯の反射を受けて波紋のように揺れている。
「ふにゃああああ……。極楽ですよぉ、ベルお姉ちゃん……。お湯がトロトロで、鱗の隙間までピカピカになる気がするです……」
「そうですね。本当に、素晴らしいお湯ですね。体の芯から活性化されるのが分かります。気持ちいい〜」
シロハとベルが幸せそうに声を上げる中、エターナは口元までお湯に浸かり、手で掬ったお湯を少しだけ舐めて、首を傾げた。
「……。ねえ、ベル。このお湯、やっぱり少し『しょっぱい』ね」
「ええ、良質な塩分が含まれているのがこの源泉の特徴ですから。それが治癒の効果を助けているそうですよ」。
「ふーん。塩分ね……。五百年くらい前かな。この谷に、祠へ塩を運ぼうとして、何度も何度も川にこぼしちゃうドジな精霊がいたんだよ。……まさかね。まだ終わってないなんて、そんな非合理なこと、あるわけないか。」
エターナはそう呟くと、再びお湯をすくって顔を洗った。だが、その瞳の奥には、かつて出会った泣き虫な精霊の姿と、この温泉の成分が結びついた、ある確信が静かに芽生えていた。
† † † † †
翌朝。 一行は、エターナの「少し確認したいことがある」という言葉に従い、温泉街の賑やかさを離れ、さらに上流へと続く山道を歩いていた。道が途切れ、川のせせらぎだけが響く静かな場所に出ると、そこには、小さな古い祠があった。
そしてその祠へ続く朽ちかけた木の橋の上。大きな塩の籠を背負った一人の少女――精霊ロキシーが、ふらつく足取りで歩いていた。
「……よいしょ、よいしょ。今日こそは、一族の誇りにかけて祠まで届けるのでございます……。お父様もお母様も成し遂げられなかった、この大任をわたくしが……あ、あわわわっ!?」
ズルッ、と派手な音を立てて、ロキシーが橋の上で転倒した。籠から溢れ出した真っ白な塩が、滝のような勢いで下の川へと流れ落ちていく。
「……ううっ、……申し訳ございません、ご先祖様……。また、またやってしまいました……。これでは精霊としての面目が立ちません……」
彼女が肩を震わせて項垂れると、川に落ちた塩が、彼女自身の秘めた魔力と混ざり合い、翡翠色の輝きを放って下流へと流れていった。その光景を眺めながら、エターナが淡々と口を開いた。
「……やっぱりね。これが下流の街を潤している『奇跡』の正体だよ」
「えっ……。エターナ様、どういうことですか?」
ベルの問いに、エターナは指先で川面を指しながら解説を始めた。
「…… あの子、精霊ロキシーの魔力は『浄化』と『再生』に特化している。彼女が祠へ供えようとしてこぼした塩に、彼女の魔力が混ざることで、水そのものが治癒薬に書き換えられるんだよ。……自然界でも稀に見る、不器用な魔法反応の結果だね。」
「つまり、ロキシーさんの『失敗』そのものが、あの温泉街を生み出してるってこと?」
エルムが驚いて問い返すと、エターナは「そうだよ」と短く頷いた。
「…… 五百年前に私がここを通った時も、あの子は同じことをしてた。今思い出したんだけど、精霊の行いを見た魔王サタンが『彼女のひたむきな努力が報われるように』と、人々が彼女に感謝を捧げられる場所として、下流に街を作るように命じた……という話が古い文献に書いてあった。……まあ、あの子自身は、街のことなんて何も知らないみたいだけどね」
エターナの言葉通り、橋の上ではロキシーが依然として自分の失敗を恥じて泣き続けていた。
「……相変わらずだね。五百年経って、少しは足腰が強くなったかと思ったけど。相変わらず進歩がないのは、ある意味感心するレベルだよ」
エターナの呆れたような声に、ロキシーがビクッと肩を揺らして振り向いた。涙目で銀髪の賢者の姿を捉えた瞬間、その表情が劇的に凍りついた。
「え……。ええええええ!? エ、エターナ様!? あれから五百年も経ってしまったのですね……それなのに私は……!!」
またロキシーが泣きそうになる。
「呆れた……君、泣きすぎ。もっと胸を張っていいのに。」
「お、お久しぶりでございます! わたくし、相変わらず祠に塩を届けられず、一族の面汚しとして今日まで泣きながら生きております! でも、胸を張れというのはどういうことでしょうか?」
エターナの言うことに全くピンときてないロキシーにエルムは優しく歩み寄り、彼女の目線に合わせて腰を下ろした。
「ロキシーさん。あなたが毎日、こうして一族のために頑張っているおかげで、下流の街はとても栄えているんですよ。街の人たちも、毎日祠の方へ向かって感謝を捧げているそうです。」
「感謝……ですか? いえ、そんなはずはございません。街の方々は祠にお参りしているだけで、失敗を繰り返すだけの役立たずに感謝なんて……確かに街は賑やかになりましたが、それがわたくしの失敗のおかげだなんて……そんな実感、微塵も持てないのでございます……」
ロキシーは、寂しそうに下流の輝く街を見下ろした。かつてサタンが、彼女の行為を讃えるために興した街。だが、その歴史は人々の記憶から消え、ただの「自然の恩恵」として扱われている。彼女は今日も、誰にも気づかれないまま、独りきりで自分を責め続けていた。
「エルム。これ、何とかならないかな……」
エターナが少し恥ずかしそうにぼそりと呟く。エルムは穏やかに微笑み、トランクからお茶の道具を取り出した。
「ロキシーさん、少し休みませんか。せっかくですから、ここにある美味しい水ででお茶を淹れさせてください」
エルムは川辺に腰を下ろし、静かに火を起こし始めた。街の繁栄の功労者である超ネガティブ精霊への、ささやかな労いの茶会が始まろうとしていた。




