第26話 心音の白磁
霧の谷の奥に建つ小屋の内部は、先ほどまでの峻烈な魔圧とは対照的に、驚くほど静かで温かな空気に満ちていた。暖炉では乾いた薪がパチパチと心地よい音を立て、使い込まれた茶道具が整然と並んでいる。そこは、俗世の効率や争いから切り離された、ただ「お茶を愉しむためだけ」の、一種の聖域のように思えた。
「ひゃあ……。助かった、ですよ……。主様、私、一時は本当にトカゲの干物になるかと思ったです……。あのおじいさん、怖すぎますよぉ……」
シロハが床にへたり込み、情けない声を上げてエルムの裾をぎゅっと握りしめている。並の魔物なら視線一つで跪かせるブリザード・ドラゴンである彼女でさえ、ゼノの放った「王」の気配の前では、本能的な恐怖で身を竦ませるのが精一杯だった。ベルもまた、真っ白な顔で椅子の端に浅く腰掛け、何度も深く、震える呼吸を繰り返している。
「あんな、理不尽な存在。管理局でも、テ・セレストの極秘資料にも載ってませんし、噂でも聞いたことがないです。エターナ様、あの方は一体何者なのでしょうか……」
ベルが震える声で問うと、銀髪の賢者は感情の読めない、深い藍色の瞳で暖炉の火をじっと見つめた。エターナは魔法で揺籠のように椅子を揺らしながら、ゼノが置いた古びた茶器を観察している。その態度はいつも通り淡々としていたが、その表情には、まだわずかに緊張の余韻を残していた。
「さあ、どうだろうね。ただ一つ言えるのは、あのじいさんは『世界そのもの』を相手に喧嘩して、勝ったことがあるタイプだよ。……あんなのと正面からやり合うのは自殺行為だよ。私だって、転移魔法で即逃げることを考えるレベルだね。」
冷静な口調。だが、伝説の第一賢者である彼女が「戦う」という選択肢を最初から捨てて「逃走」を口にする。それが何よりも、ゼノの異常性を物語っていた。
そこへ、奥の部屋からゼノが戻ってきた。その手には、布に包まれた「何か」が大切そうに抱えられている。
「待たせたな。……さて、お前さんたちがどこを目指しているのかは、なんとなく分かる。この先の山を越えれば、あの『奇跡の水』で有名な温泉街だ。管理局の連中とも上手くやっておる、活気のある良い場所だそうだな。」
ゼノは椅子に深く腰掛け、再びエルムが淹れた茶を啜った。
「その街を抜けたさらに先に、『水の都』がある。……そこに、ワシの弟子がおるのだ。エルフの女の子でな、名をソフィアという。……まあ、少々言葉が足りんというか、付き合いにくいところがある困った子でな」
その言葉を聞いた瞬間、エターナは感情の起伏が少ない声で、だがどこか突き放すように言った。
「ふーん。不器用なエルフなんて、珍しいね。エルフっていうのは大抵、言葉の一つ一つに理を込めて優雅に振る舞うものなんだけど。……随分と、生きるのが下手な子なんだね」
エターナは他人事のように断定し、銀髪をさらりと揺らした。 だが、その隣でベルが、疑いの目を彼女に向けていた。
「エターナ様が、それを言いますか?」
「……何かな、その目は。私はいつだって、第一賢者として適切な言葉を選んでいるつもりだよ。無駄のない、完璧な対話。それが私の信条だし。」
「先週も、『このお茶はイマイチだね』って言いながら、空になったカップを三回もエルムさんに差し出してましたよね? 素直に『おかわり』って言えばいいのに。……エターナ様も、不器用なエルフだと思います。」
「そ、それは、茶器の魔法的な構造を多角的に解析していただけだよ。別に、お茶が美味しくて催促したわけじゃない……本当だよ。」
エターナは視線を泳がせ、淡々とした口調を維持したまま、ほんの少しだけ尖った耳の先を赤くした。その様子を見て、ゼノは虚を突かれたように目を見開き、そして――。
「はははは! くはははは! なるほど、案外似ているのかもしれん。ははは!」
ゼノは膝を叩き、文字通り全身を震わせて、腹の底から笑い声を上げた。これまでの空間を凍りつかせるような圧倒的な威圧感が嘘のように、そこにはただの、愉快な老人の姿があった。
「はあ……。面白い娘だ。あの子……ソフィアにも、お前さんのような騒がしい友がいれば、少しは楽だったのかもしれんな」
「……騒がしいとは心外だな。私はいつだって静かに、平穏に読書をしていたいだけなんだけど」
不服そうに、どこか気恥ずかしそうに呟くエターナを無視し、ゼノは表情をスッと真剣なものに変えた。彼は膝の上に置いていた包みを、儀式的なほど慎重に解く。中から現れたのは、雪のように白く、月の光を透かすほどに薄く焼き上げられた、一対の美しい茶器だった。
「……綺麗だね」
エターナが珍しく、興味深げに身を乗り出した。その器には、目に見える魔力の奔流はない。だが、その造形は極限まで洗練されており、見つめているだけで心が凪いでいくような、不思議な感覚があった。
「これは『心音の白磁』という。腕利きの職人に作らせ、ワシが特別な魔法を込めたものだ」
ゼノは慈しむように、指先で器の縁をなぞった。
「ソフィアは、とても強く、優しく、そして繊細な子だった。だが、先ほども言った通り不器用で、言葉を紡ぐのが酷く下手でな。想いが強ければ強いほど、それは棘となり、沈黙となって彼女を孤立させた。ワシとも……喧嘩別れのような形になってしまってな。今でも、それを後悔している」
老人の瞳に、深い 寂寥が宿る。
「この器で茶を飲むと、心の乱れが消え、己の鼓動が素直な言葉として響くようになる。……もし、お前さんたちが水の都へ行くことがあれば、あの子を探し、これで一緒にお茶を飲んでやってくれんか。あの子の凍りついた心が、お前の茶で少しでも溶けるなら……ワシの長い隠居生活も、少しは報われる。」
エルムは、差し出された白磁を、両手で恭しく受け取った。ゼノの言葉。そして、この器に込められた、祈りにも似た魔力。それらは、本当の心を失いかけているこの世界の歪みを、内側から溶かすための鍵になる――エルムには、そんな静かな予感があった。
「確かに、お預かりします。彼女に、あなたの想いを一杯の茶にして届けます。」
「ああ。頼んだぞ。」
ゼノは満足げに頷くと、最後にエルムをじっと見つめた。その灰色の瞳の奥に、何かを懐かしむような、深い慈愛の色が浮かぶ。
「エルムよ、一つ教えてくれ。最初にワシが圧をかけたとき、その刀を抜かずに茶を淹れ始めたのは何故だ?」
「……この刀を抜かなくて済むような世界を作ると、父と約束したんです。それに、刀を抜いたらゼノさんは僕たちを殺すつもりだったでしょ?」
「クハハハ!親父との約束か。なるほどな。試すようなことをしてすまなかったな……ワシも、殺し合いをするより旨い茶を飲む方が好きだ。 やはり、その白磁をお前に預けて正解だったな。行ってこい。」
ゼノは、息子の成長を見守るような、温かな感情の籠った表情でエルムを見送った。
小屋を出て再び霧の中へと歩き出した時、エルムの胸には、白磁の温もりと、何か大きな宿命の歯車が静かに回り始めたような、不思議な確信があった。
一行を乗せた馬車が、霧の谷を抜ける。霧が晴れた目の前に広がったのは、山あいに無数の提灯が灯り、立ち上る湯気が夜空を彩る、活気溢れる温泉街の夜景だった。
「主様! 温泉ですよ、温泉! 美味しいお料理もあるといいですね!」
元気を取り戻したシロハがはしゃぐ。
エルムは、懐に抱えた「心音の白磁」をそっと撫で、次なる目的地へと馬車を走らせた。




