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黎明魔界のティータイム〜最強の僕は、のんびりお茶を飲んでいたい〜  作者: 七割カカオ
第七章 託された白磁

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第25話 霧の谷の絶対強者

音が、消えた。

双月の丘を越え、次の目的地である温泉街への近道として足を踏み入れたはずのその渓谷は、入り口の岩門を抜けた瞬間に、まるで別世界へ繋がる扉を潜ったかのように表情を変えた。


視界を埋め尽くすのは、乳白色の濃密な霧だ。それはただの気象現象ではなく、魔力さえも減衰させ、五感を狂わせる「生きた結界」のようだった。湿り気を帯びた空気は肌にまとわりつき、肺の奥まで冷やしていく。


「変……だね。私の探知魔法が、数メートル先で霧に吸い込まれて消える。空間そのものが、外部からの干渉を拒絶しているみたいだ。こんな場所、聞いたことないよ。」


馬車の中で古びた魔導書を閉じたエターナの声が、わずかに強張っていた。 伝説の賢者として数千年の時を生きてきた彼女の直感が、この霧の奥に「触れてはならない何か」が潜んでいると警告しているのだ。


隣に座るベルは、手帳を握りしめたまま窓の外の霧の先を凝視している。管理局の極秘地図において、この一帯は「不可侵領域」として空白のまま残されていた場所。効率を重んじる管理局が、調査すら断念した未知の領域がそこにはあった。


(あるじ)様……なんだか、嫌な予感がします。私の鼻が、ここから先は『入っちゃダメだ』って叫んでるみたいで。喉の奥が、ヒリヒリするんです……」


シロハがいつもの天真爛漫な元気を失い、エルムの背中に張り付く。竜の血を引き、本能的な危機察知能力に優れる彼女にとって、この谷の空気は、薔薇の中を歩くような、刺されるような圧迫感を与えていた。


御者台で手綱を握るエルムは、無言で霧の先を見据えていた。彼の指先は、手綱を通じて馬の微かな震えを感じ取っている。動物たちは、人間よりも先に「それ」を感じ取っていた。


(……ああ、これは、次元が違うな)


エルムの肌をピリつかせるのは、かつて戦ったどの魔物とも、魔族とも異なる「重圧」だった。それは殺意ですらない。ただそこに「それ」が存在しているというだけで、周囲の空間が歪み、呼吸することさえ贅沢に思えるような、絶対的な支配。


霧の向こうから、一人の老人がゆっくりと姿を現した。


枯れ木のように細く、質素な麻の服を纏った老人。腰には小さな竹籠を下げ、手には古びた杖を突いている。どこにでもいる隠居老人のような風貌。だが、その老人が一歩、湿った土を静かに踏みしめた瞬間。


――ズン。


馬車の周囲が鳴動した。物理的な震動ではない。だが、馬車の中にいたエターナたちは、心臓を直接巨大な手で掴まれたような衝撃に、座席に縫い付けられた。


ベルは肺から酸素が引き抜かれたように過呼吸に陥り、シロハに至っては本能的に死の危機を感じ取り、ドラゴン化するのを必死に抑えながら牙を鳴らしてガタガタと震えている。


最強の賢者であるエターナでさえ、杖を握る指先が白く血の気を失い、無意識のうちに幾重もの防御展開を脳内でシミュレートしていた。――そして、その全てが無意味であるという結論に、一瞬で辿り着いてしまっていた。


エルムもまた、自身の心臓が早鐘を打つのを感じていた。視界の端が赤く染まり、脳が、本能が、全力で警報を鳴らし続ける。 『逃げろ。そうしなければ、一瞬で消される』


これまでの人生で、エルムがこれほどの「死」を身近に感じたことはなかった。目の前の老人は、武器すら構えていない。魔法の予兆もない。ただ、そこに立っているだけだ。


(これは……本物の『王』の気配……)


エルムは、自分が「魔族」としての本質を呼び覚まそうとしているのを自覚した。漆黒の翼を広げ、紅い瞳を輝かせ、持てる全ての力を注ぎ込まなければ、この男の前に立っていることさえできない。


だが、同時に彼は知っていた。ここで力を解放すれば、それはこの圧倒的な存在に対する「宣戦布告」となり、次の瞬間にはこの霧の谷ごと消し飛ばされるだろう。


「…………」


老人は立ち止まり、その灰色の瞳でエルムをじっと見つめた。その眼差しは、この世界の全てを観察しているかのように深く、慈悲深さと残酷さが同居していた。


死の静寂。

どれほどの時間が流れたのか。秒単位の緊張が永遠のように感じられる中、それを破ったのは、エルムがゆっくりと御者台から飛び降りた音だった。


「エルム、さん……! だめ、行っちゃ……!」


ベルが震える声で制止しようとしたが、エルムは止まらない。彼は膝が笑いそうになるのを鉄の意志で抑え込み、老人の前まで歩を進めた。一歩歩くたびに、全身の毛穴から冷や汗が噴き出す。空気が鉛のように重く、足を前に出すだけで骨が軋む音が聞こえるようだ。


距離にして三メートル。そこは、老人の放つ圧倒的な魔圧の渦中だった。普通の人間の精神なら、立ち入った瞬間に自我が崩壊し、廃人になってもおかしくない危険な領域。


エルムはゆっくりと、腰の荷物から古びた茶器を取り出した。地面に直接布を敷き、震える指先を隠すように、丁寧に、炭に火を起こし始めた。


「……。何を、している」


老人の声が響いた。低く、抑えた音量。だが霧を切り裂くような鋭い声。その一言だけで、周囲の霧が生き物のように波打ち、エルムの頬を鋭い風がかすめた。


「……こんなに静かで良い場所なら、お茶を淹れないのは勿体ないかな、と思いまして」


エルムは、乾いた喉を鳴らし、微笑んだ。それは無理に作ったわけではない、いつもの穏やかな微笑み。だが、その内側では凄まじい葛藤が渦巻いている。


彼は今、全神経を「お茶を淹れる」という一点に集中させていた。老人が指一本でも動かせば、自分は即座に滅びる。その恐怖を、茶葉を計る正確な動作で塗りつぶしていく。


シュンシュンと、鉄瓶が鳴り始める。エルムが選んだのは、霧氷の谷の茶葉――ゼノ自身の気配に近い、厳格で清冽な香りを持つ茶だった。


高い位置から、一筋の美しい曲線を描いてお湯が注がれる。茶葉が熱を帯び、ゆっくりと開いていく。


立ち上がる湯気が、老人の周囲に漂う「死の圧」と衝突し、わずかにその境界線を和らげた。エルムの動作には、迷いも、媚びも、恐れによる乱れもない。ただ、最高の状態で茶を完成させることに全神経を集中させる。


「……どうぞ。熱いので、お気をつけて」


エルムは、自分の人生の全てを懸けて淹れた一杯を、老人の前に差し出した。老人はしばらくその茶を見つめていた。エルムの指先は微かに震えていたが、差し出された茶碗の中の液面は、一ミリの揺らぎもなかった。


やがて、老人はゆっくりと手を伸ばした。その指先が茶碗に触れた瞬間、張り詰めていた世界の糸が切れるように、周囲の重圧がふっと消えた。


「……ふむ。淹れ方は雑だが、芯があるな。……お前、名は?」


「エルムです。エルム・エリュシオン」


「…………」


老人の動きが、一瞬だけ止まった。茶碗を口元へ運ぼうとしていた手が静止し、灰色の瞳がエルムを静かに見つめる。


「……エリュシオン、か。なるほど。……ふむ、道理でな。道理で、ワシの前に立っておれるわけだ」


老人はそれ以上何も言わず、満足げに茶を啜った。エルムにはその言葉の意味が分からなかったが、老人の瞳の奥に、懐かしさと、それ以上に深い「納得」の色が浮かんだのを、彼は見逃さなかった。


老人が満足げに二口目を飲み干した時、ようやくエターナたちは呼吸を取り戻し、崩れるように馬車の床に座り込んだ。


「……ワシはゼノ。ただの、茶を愛する老人だ。……まあ、今はそれで通しておこう」


ゼノと名乗ったその老人は、空になった茶碗をエルムに返すと、霧の奥にある小さな、しかし凛とした佇まいの小屋を指差した。


「エルムよ、頼みがある……入れ。わしには不器用な弟子がおってな。言葉を紡ぐのが酷く下手な、困った子がな。お前さんなら、あの子の凍りついた魂を、その茶で溶かせるかもしれん。」


その正体も、その背負った歴史も語らぬまま、ゼノは霧の奥へと消えていく。


霧の谷の奥、暫くして小屋の暖炉に火が灯る。エルムは意を決して小屋に足を踏み入れていった。

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