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黎明魔界のティータイム〜最強の僕は、のんびりお茶を飲んでいたい〜  作者: 七割カカオ
第八章 繋がる想い

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第28話 五百年の『失敗』を祝う茶会

鉄瓶から立ち上る白い湯気が、朝の冷たい空気に溶けていく。

エルムは、ロキシーが今しがた橋の上から落としてしまった塩が溶け込み、淡い翡翠(ひすい)色に輝く川水を柄杓(ひしゃく)で静かに汲み取った。


他人から見れば、それはただの「失敗の跡」に過ぎない。不注意で川を汚した、あるいは無駄にした塩の残骸。だが、エルムの目には、その水に含まれた塩の粒子一つ一つに、精霊としてのひたむきな祈りと、土地を慈しむ純粋な魔力が宿っているのが見えていた。


「それ、本当に使うの? いくらなんでも、ただの川の水だよ。泥とか混じってるんじゃないかな」


エターナが少し離れた岩に腰掛け、エルムの手元を覗き込む。


「エターナ様、失礼ですよ。ロキシー様の魔力が溶け込んだこの水は、どんな高価な霊水よりも清らかなんですから」


ベルがロキシーの隣に寄り添い、彼女の背中を優しく撫でながら(たしな)めた。エターナは「ふーん」と気のない返事をしたが、その鼻腔をくすぐる水の香りに、わずかに眉を動かした。


今回、エルムが選んだのは、霧深い高地でじっくりと育てられ、深く焙煎された「岩茶(がんちゃ)」だった。火の香ばしさと、茶葉が持つ力強い大地の甘み。そこに、ロキシーの魔力を宿した適度な塩分を含んだ水が注がれる。塩は茶の持つ甘みを引き立て、水の性質を魔法的に調律する鍵となる。


高い位置から、一筋の美しい曲線を描いて注がれたお湯が、茶碗の中で茶葉を鮮やかに躍らせる。その瞬間、周囲に漂っていた硫黄の香りが、一瞬にして芳醇な、そして驚くほど透明感のある花の香りに塗り替えられた。


「ロキシーさん、少し休みませんか。せっかくですから、このお湯でお茶を淹れさせてください」


エルムが差し出したのは、いつもの旅で使い込んでいる、飾り気のない茶碗だった。ロキシーは震える手でそれを受け取ると、申し訳なさそうに、だが拒めない不思議な期待に導かれるように、お茶を口に含んだ。


「…………っ」


ロキシーの動きが、彫像のように静止した。目を見開き、茶碗の中を見つめる彼女の瞳から、大粒の涙が、今度は悲しみではない輝きを持って溢れ出した。


「……美味しい。……美味しいでございます。わたくしの……わたくしがこぼした塩が、こんなに温かくて、こんなに深いお味になるなんて……」


「ロキシーさんの塩は、お茶を最高に輝かせる隠し味なんです。失敗なんかじゃないですよ。あなたの頑張りが、この美味しさを作っているんです。そしてこれは、あなたが街の人々に与えている幸せの、ほんの一部でしかない。」


エルムの穏やかな声が、凍りついていたロキシーの心を優しく解かしていく。五百年の間、彼女にとって塩をこぼす行為は、一族の使命を果たせない「汚点」であり、自分を責めるための理由でしかなかった。だが今、目の前の青年が淹れた一杯のお茶が、その長い「失敗」の時間を丸ごと、誰かを癒やすための「最高の成果」へと書き換えていた。


ロキシーは、何度も何度も茶を啜り、そのたびに「美味しい……美味しいでございます」と噛み締めるように呟いた。彼女の背負っていた孤独な重荷が、お茶の温もりと共に、少しずつ解けて霧散していくのが見えた。


† † † † †


その日の午後。

一行は、温泉街テルマーレの中央に位置する、領主の館を訪れていた。


「……ほう。祠への奉納について、提案があると?」


応接室に現れたのは、質素だが気品ある衣服を纏った、この街を治める領主だった。彼はかつてサタンが命じた「感謝の伝統」を、形式的ではあるが代々守り続けてきた家系の一人だった。


「領主様。この街の『奇跡の湯』が、源泉にいる精霊……ロキシー様のひたむきな想いによって生まれていることは、ご存知ですよね」


「……ええ、もちろん。言い伝えでは、あの上流の祠に住まう精霊様が、この地に恵みを与えてくださっていると。我々はその神徳を維持するために、日々祠へ祈りを捧げております」


領主は当然のことを言うように頷いた。だが、その言葉にエルムは静かに首を振った。


「普通の人間には、彼女の姿は見えません。だからこそ、皆さんはあの場所を『祠』として、目に見えない神様のように祀ってきました。……でも、そこにいるのは神様ではなく、五百年の間、たった一人で自分を責め続けている、小さな女の子なんです」


エルムの言葉に、領主は虚を突かれたように目を見開いた。


「自分を……責める? どういうことですかな。あの源泉は、これほど多くの人々を救い、街に繁栄をもたらしているというのに」


「彼女は、祠に塩を届けようとして、毎日失敗し続けているんです。橋の上で転び、塩を川にぶちまけてしまう。彼女にとって、それは一族の使命を果たせない無様な『失敗』でしかない。……その彼女の涙と、こぼした塩こそが、奇跡の水の正体なんです」


「ま、まさか……そんなっ!」


領主の喉が、引きつったように動いた。ハッとした彼の表情には、これまで「資源」や「ただの儀式」としてしか見ていなかった自分に対する、猛烈な後悔が浮かんでいた。決して人の目に見えない彼女は、人々から感謝の言葉をかけられることもなく、ただ上流の静寂の中で、五百年もの間、自分の無能さを嘆き、独りきりで泣き続けていたのだ。


「サタン閣下がかつてこの街を興すよう命じたのは、人々の『ありがとう』という声が、彼女の耳に届く場所を……。サタン閣下は、それを作りたかったんじゃないですか?」


エルムの言葉が、領主の心にある「事務的な管理」という厚い壁を打ち砕いた。  代々、サタンの指示を「効率的な源泉維持」と解釈し、形式的に祠へ向かっていた自分たちの盲点。感謝を捧げる対象を、ただの「儀式」にしてしまっていた慢心。


「……私は、なんということを。閣下の慈悲を、単なる言い伝えとしてしか捉えていなかった……。ロキシー様は、あそこでずっと、独りで自分の失敗を恥じ続けていたというのか!」


領主は椅子から立ち上がり、窓の外、遠くに見える源泉の祠へと深く頭を下げた。


「領主様。これからは、そのお湯を使ってこのお茶を淹れ、祠に捧げてあげてください」


エルムは机の上に、先ほどロキシーに淹れた茶葉と、レシピを記した紙を差し出した。


「お茶を淹れるという行為は、誰かを想い、感謝を形にする時間です。毎日、街の皆でこの岩茶を淹れ、ロキシー様に『ありがとう』と伝えてください。……それが、ロキシー様と人々の想いを繋げる一番の方法です。」


領主は、震える手でそのレシピを受け取った。


「……承知いたしました。明日より、私が自ら茶を淹れ、街の者たちと共に、ロキシー様へ心からの感謝を捧げましょう。……この味を、この街の本当の誇りとすることを誓います。」


† † † † †


夕暮れ。

一行が馬車を走らせ、次の目的地へと向かおうとした時。川の上流の森の境界線、黄金色の夕陽が差し込む場所に、一人の少女が立っていた。


「皆さん――! ありがとうございました――!」


ロキシーは、力いっぱい手を振っていた。その顔にはもう、自分を責める卑屈な影はない。


「わたくし、明日からも胸を張って、最高の塩をこぼし続けるのでございます――! 祠に届かなくても、それが皆さんの幸せになるなら、わたくしは幸せでございます――!」


彼女の清々しい叫びが、山あいに木霊し、下流の街へと流れていく。馬車の窓からその姿を見送りながら、エルムは満足げに微笑んだ。


「……よかったね、ロキシーさん」


「そうだね。それにしても、サタンって本当に不器用で詰めが甘い魔王だね。」


エターナは窓枠に顎を乗せ、淡々と、だがどこか誇らしげな眼差しで、遠ざかる精霊の姿を見つめていた。


「それ、エターナ様が言いますか?」


「ベル。清潔を維持してる魔法、解いちゃうよ。」


すかさず突っ込んだベルに、エターナのカウンターが炸裂する……。


「ひぃーー!それは困ります!! もう言いません!」


サタンが願った「感謝の形」が、今ようやく実現し、人々とロキシーの心を繋いだ。テルマーレの源泉は、明日からさらに、人々の心と体を深く癒やすことになるだろう。


「さて。……次は、『言葉の足りない』不器用な相手に会いに行こうか」

エルムは懐にある「心音の白磁」の温もりを感じ、遠く、水の都の空へと視線を向けた。

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