第23話 双月の丘の二人の約束
双月の丘の頂に建つ、管理局の執務館。その最奥にあるバートロン男爵の部屋は、領主の居室というよりは無機質な作業部屋だった。壁一面を埋め尽くす書類棚、規則正しく並んだ帳簿、そして絶え間なく鳴り響く羽ペンの音。バートロン男爵は、深い隈の浮かんだ目で、目の前に立つベルを見据えていた。
「……外交管理官ベル。一日の猶予は過ぎました。あなたの言う『重大な解釈の誤り』とやらを、説明していただきましょうか」
男爵の声は冷ややかだったが、その奥には隠しきれない焦燥があった。ベルは一歩も引かず、昨夜フィアと同じ風に吹かれながら書き上げた『双月の丘・再編計画書』を、机の上に静かに置いた。
「男爵様。あなたは、この丘を救うために『効率』という盾を選びました。生産量を三倍にし、飢えを凌ぎ、サタン閣下への供給を絶やさなかった。……その実績は、管理局の歴史に刻まれるべきものです」
「当然だ。私はこの地を預かる者として、最善を尽くしてきた」
「ええ。ですが、その盾はあまりに重すぎた。……あなたは、隣にいたはずの友さえも、その盾で押し潰そうとしているのではありませんか?」
ベルの言葉に、バートロンの手が止まった。ベルは計画書の最初の頁をめくる。そこには、彼女が自ら街を歩いて集めた、現在の「雲糸」の市場評価が淡々と記されていた。
「量産された現在の糸は、もはや『神秘』を失った消耗品です。市場での価値は暴落し、他領の安価な素材との泥沼の価格競争に巻き込まれている。……男爵様、あなたが守ろうとした数字は、今まさに、この丘の価値そのものを食いつぶそうとしているのです」
「……っ、そんなことは分かっている! だが、放牧に戻せば管理が乱れる! 収穫が不安定になれば、民はどうなる!」
男爵が机を叩いて立ち上がった。その叫びは、理想と現実の狭間で喘ぐ男の悲鳴のようだった。そこへ、傍らで静かに茶を淹れていたエルムが、一客の白磁のカップを差し出した。立ち昇る、琥珀色の烏龍茶の香り。それは、殺風景な執務室を、一瞬にして森のような静寂で包み込んだ。
「……琥珀の烏龍茶です。お飲みください、男爵様」
促されるまま、男爵は震える手でお茶を啜った。圧倒的な花の香りが鼻腔を抜け、舌の上で複雑な甘みと微かな渋みが踊る。喉を通った後に残るのは、どこまでも澄み切った清涼感。……ベルが予めエルムに頼んでおいた一杯のお茶が、計算通りバートロンの昂った感情を鎮めていく。
「……っ。なんだ、このお茶は……。これほどまでに、心が……」
「それは、厳格な規律の中では決して生まれない『余白』が生む美味しさです」
ベルが穏やかな、しかし確信に満ちた声で継ぐ。
「男爵様。あなたがかつてカシムさんとこの丘で誓ったのは、ただの『増産』ではなかったはずです。二百年前から続くこの白銀の景色を、誰もが憧れる誇り高き場所にする……。そう、約束したのではないですか?」
男爵の脳裏に、幼き日の記憶が蘇る。まだ管理局の制服を着る前、ただの羊飼いの少年だったバートロンは、親友のカシムと共に、月の光に輝く丘を眺めて笑い合っていた。……『この光を、ずっと守ろうな』と。
「……私は、カシムを守りたかった。あいつの家が潰れないように、丘の生活が消えないように、必死で……数字を積み上げてきた。……なのに、私は……」
男爵の瞳から、強張った光が消え、大粒の涙が落ちた。いつの間にか、最も大切にするべき『目的』を見落としていたのだった。
「……まだ続きがあります。テ・セレストは、あなたの築いた安定した基盤の上に、最高級の付加価値を乗せることを提案します。放牧を再開し、再び真珠色の輝きを宿した雲糸を、テ・セレストの全世界に広がる販売網を活用し、『奇跡の生地』としてブランディングいたします」
ベルは計画書の最後、最も力強く綴られた『月光の巡礼路』の頁を示した。
「二つの月の光を浴び、輝く雲羊たちが群れる幻想的な夜。その中で、テ・セレストの極上のお茶を振る舞う巡礼路。……大陸中の名士が羨む、至高の社交場です。男爵様は、カシムさんと共に、この丘の宝とも呼ぶべき雲羊の物語を、後世に語り継いでいく義務と権利があると思います。」
バートロン男爵は、お茶を最後の一滴まで飲み干すと、深く、深く頭を下げた。
「……完敗だ。外交管理官ベル殿。あなたの綴る未来は、私の計算式よりも、ずっと理に適っていて……何より、美しい」
† † † † †
その夜は、双月の丘の歴史が動く瞬間の連続だった。
管理局の職員たちが戸惑いながらも、バートロン男爵の号令に従い、巨大な羊舎の重厚な門を開け放つ。
カシムが、昔のままの口笛を吹いた。すると、暗い檻の中で萎縮していた羊たちが、一斉に、夜の野原へと駆け出したのだ。東の空には、金の本月と青の副月。 二つの月光が羊たちの肌に触れた、その瞬間だった。
「……ああ、これだ……っ」
カシムが、崩れ落ちるように膝をついた。
夜の冷気と月の魔力を胸いっぱいに吸い込んだ羊たちの毛が、内側から淡い真珠色の輝きを放ち始めたのだ。一頭、また一頭と輝きが連鎖し、やがて丘全体が、フィアの描いたあの神秘的な輝く雲へと姿を変えていく。
「この丘は、まだ終わってなかった……。フィア様、見ておられますか……!」
老羊飼いの頬を、止まらない涙が伝い、月明かりに照らされた地面へと落ちていく。その光景を見つめるシロハも、歓喜に満ちた笑顔でベルの腕に抱きついた。
「すごい……! ベルお姉ちゃん、本当に、本当に光ってる!」
ベルはシロハの小さな温もりを受け止めながら、共に幻想的な景色を見つめる。エターナは、そんなベルの背中を、少し眩しそうに、そして誇らしげな眼差しで見つめていた。
そこへ、バートロン男爵がカシムの肩にそっと手を置きながら歩み寄ってきた。男爵の手には、重厚な漆塗りの木箱が抱えられている。
「皆さんにお礼を。……カシム、お前と作った、あの頃の羊毛だ。実は、どうしても出荷できず、いつかこの丘に輝きが戻るその日までと、私の手元に隠していた最後の、本物『雲糸』です」
箱が開かれると、中には雪よりも白く、月光そのものを織り上げたかのような、柔らかな羊毛が詰まっていた。
「素晴らしい贈り物です。……ベル、この使い道は僕に一任してくれるかな? いいアイデアがあるんだ」
エルムの言葉に、ベルは「はい、エルムさんにお任せします」と微笑んだ。エルムはいたずらっぽく目を細めると、テ・セレストの伝令を呼び寄せ、その羊毛を託した。
† † † † †
数日後。出発を控えた一行のもとに、テ・セレストの仕立て屋から三つの包みが届いた。中から現れたのは、三着の美しいコートだった。月の光を浴びるたびに真珠色に輝き、雲のように軽く、それでいて驚くほど温かい――世界に三着しかない、特製品だ。
「わあああ! ふわふわです! ベルお姉ちゃんとお揃いですね!」
シロハは新しいコートを羽織り、子供のように跳ね回っている。ベルもまた、瞳を潤ませてその滑らかな感触に触れていた。
「……エルムさん、こんな素晴らしい贈り物、ありがとうございます」
感謝を伝えるベルの横で、エルムは最後に残った一着を、馬車の隅にいたエターナへと差し出した。
「エターナ、君にも。……君にはこれが一番似合うと思って、仕立ててもらったんだ」
エターナは、差し出された真っ白なコートを前に、金縛りにあったように動けなくなった。彼女は『賢者』として、数えきれないほどの献上品を受け取ってきた。数万の金貨、伝説の宝石。だが、それらはすべて、彼女の強大な力に対する対価、あるいは「利用」するための賄賂でしかなかった。
「……これ、は……私に?」
「ただのプレゼントだよ。旅を共にする、大切な仲間へのね」
エルムの優しい声が、エターナの胸の奥で、何百年も眠っていた感情を呼び覚ました。 ただの個人として、自分のことを想って選ばれた、混じり気のない「好意」。
「……プ……プレっ!?」
みるみるうちに、エターナの顔が耳の先までリンゴのように真っ赤に染まっていく。普段のクールな賢者としての佇まいは、一瞬で瓦解した。彼女は慌ててコートをひったくるように受け取ると、扇を半分だけ開いて顔を隠した。
「……ふ、不合理だね。魔法使いに、防寒着なんて。……でも、まあ、貰ってあげないこともない。……エルムが、どうしてもと言うのなら」
声は震え、視線は地面を泳いでいる。彼女はコートの柔らかい襟元に顔を埋めるようにして、真っ赤な顔のまま馬車の隅へと逃げ込んだ。
「あはは、エターナ、顔が火事みたいですよ!」
「う、うるさい青トカゲ! 黙ってなさい! ……氷漬けにするよ! 本当に凍らせるからね!」
二つの月が沈み、朝陽が丘を照らし始める。新しいコートを纏った三人を乗せて、馬車はゆっくりと次の目的地へと動き出した。
ベルの戦いは終わったが、彼女の書き上げた「再生の物語」は、誰よりもこの丘を想う、2人の男たちに引き継がれたのだった……




