第21話 双月の丘
雪の都『スノー・グレイス』を後にした一行の馬車は、大陸を北上し、標高の高い緩やかな丘陵地帯へと差し掛かっていた。
第7魔王アスモデウスのミレイユは「仕事が溜まってるのよ~」とぼやきながらも、エルムを力一杯抱きしめた後、艶やかな扇を振って南の空へと消えていった。
残されたのは、御者台で手綱を握るエルムと、その隣で「主様、次はどこへ行くんですか!」とはしゃぐ青い髪の少女・シロハ。そして、車内でこれからの旅費を計算するベルと、静かに本をめくるエターナだ。
「……ベル、あまり根を詰めないで。ほら、画集の景色が見えてくるよ」
エルムの声に、ベルはペンを止めて窓の外を見やった。 まだ藍色が残る東の空に、慈愛に満ちた淡い金色の「本月」と、その傍らに寄り添うように輝く、硝子細工のように硬質な青を帯びた「副月」が並んで昇っている。二つの月光が交差するこの丘では、すべての草木が真珠のような光沢を帯びていた。
「わあ……! 主様、あっちの青いお月様、私の鱗の色に似てます! なんだか力が湧いてきますね!」
「……うるさい。トカゲはもう少し離れて。落ち着いて本が読めない。」
シロハがエルムに寄り添うのを、エターナが冷ややかな目で見やる。
「なんですって! この、耳長オバサン! 」
「オバサンね……今すぐ君を氷の彫刻にして、この丘に飾ってあげるから、こっちに来なさい。」
「あはは、二人とも仲良くね……。さあ、街に着いたよ」
† † † † †
丘の上の街『ルナ・テラス』。本来なら情緒ある観光地のはずだが、街の空気は重く、無機質だった。かつて緑豊かだった斜面には、石造りの羊舎が立ち並び、そこからは魔導ランプの青白い光が不自然に漏れ出している。
「……羊の声が聞こえませんね。代わりに、あの金属的な音が響いています。」
ベルが不安げに眉をひそめた。管理局の看板には『放牧禁止』という通達が冷たく記されている。
「観光どころじゃなさそうだけど……あ、主様! 見てください、あそこの看板! 『双月乳の月光ムース』だって!」
シロハが尻尾を振るような勢いで、一軒の小さな菓子店を指差した。
「……ふーん。まあ、その地を知るには、その地の食べ物を食さないとね。」
エターナも、さりげなく足早に店へと向かう。紅茶と共に運ばれてきたのは、二つの月の光を思わせる黄色と青の2種類のジュレが乗った真っ白なムースだった。 二人は無言でスプーンを動かす。
「…………っ!!」
一口食べた瞬間、エターナの銀色の瞳が見開かれた。
「あまっ!……なにこれ、やばっ……幸せ……」
「わあああ! ほんとだ! ヤバいですこれ! ほっぺたが落っこちそうです!」
シロハとエターナは、先ほどまでの険悪な雰囲気を完全に忘れ、猛烈な勢いでムースを口に運び始めた。
「「……はぁ。最高」」
最後の一口を飲み込み、恍惚とした表情で声を揃えて溜息をついた、その直後。エターナは、エルムとベルの生温かい視線に気づいた。
「…………っ!!」
エターナの耳の先が、鮮やかな朱色に染まる。彼女は音もなくスプーンを置くと、何事もなかったかのように無表情を取り繕った。
「……今の、忘れて。糖分による一時的な反応に過ぎないから。」
「あはは、美味しかったんだね、エターナ。」
「ま、まあね。悪くない味だった…」
この伝説の第一賢者は、スイーツを口にすると、感情に抗えないらしい……
† † † † †
街を出た一行は、エルムの提案で丘の最上部へと馬車を進めた。エルムは膝の上で『フィアの画集』を広げ、何度も頁と目の前の景色を見比べている。
「……少しずつ角度が合ってきた。ベル、この辺りだよ。画集に描かれた、丘全体が白く輝く景色……その視点は、あそこの少し出っ張った高台にあるはずだ」
エルムが指差したのは、街から離れ、最も二つの月光が強く降り注ぐ場所だった。そこには、今にも崩れそうな古い家がポツンと一軒だけ建っていた。
馬車を止め、一行がその家を訪ねると、数頭の痩せた羊を愛おしそうに撫でる一人の老人がいた。
「……旅の人かね。あいにく、お出しできるような上等な羊毛は、もう手元にはないんだよ」
カシムと名乗る老羊飼は自嘲気味に笑い、エルムたちを若干警戒するような目で見つめた。ベルが元管理局の作法で丁重に挨拶をしようとしたが、それよりも早く、エルムがトランクから愛用の茶器を取り出した。
「お話を聞かせていただく前に、まず一杯どうですか? ちょうど、良い茶葉があるんです」
エルムは手際よく火を起こし、持参した琥珀色の烏龍茶を淹れ始めた。シュンシュンと鳴る鉄瓶の音。高い位置から注がれたお湯が、茶葉を躍らせ、閉じ込められていた芳醇な香りを解き放つ。
「……ほう。いい香りだ。」
頑なだったカシムの鼻腔が、お茶の香りにくすぐられて開く。差し出された琥珀色の液体を一口啜ると、老人の強張っていた肩の力がふっと抜けた。
「……琥珀の烏龍茶か。昔、私の先祖が話してくれた、あの『客人』も、そんな香りのするお茶を好んでいたと聞くよ。」
「客人……。フィアのことですか?」
エルムが静かに問いかけると、カシムは驚いたように目を見開いた。
「何故、その名を知っている。……ああ、その画集か。なるほどな。」
カシムは遠い山並みを見つめるように、二百年前の物語を語り始めた。
「二百年ほど前、彼女はこの丘にふらりと現れた。当時の私の先祖は、彼女のあまりの美しさと、どこか危うげな雰囲気に放っておけなくてね。何度も『家の中に泊まりなさい』と誘ったそうだ。だが彼女は、頑なにそれを断った」
「断った……? 寒くないんですか、この丘の夜は」
シロハが不思議そうに首を傾げる。
「ああ。彼女は家の裏の野原に、一人で小さなテントを張って寝泊まりしていたそうだ。食事の誘いも断り、話し相手も求めず、ただひたすらに、二つの月の光を浴びる羊たちの絵を描き続けていたという」
「テントか……ちょっと分かるな。集中力が途切れるのが嫌だったのかもね。私も魔道具をいじってる時は邪魔されたくないし。」
魔道具オタクのエターナが相槌を打つ。
「彼女が発った日、先祖に一枚の絵を残していったんだ。それと……『私が守りたいもの』。とだけ書かれた短い手紙と共にね」
カシムは立ち上がり、家の奥から煤けた布に包まれた大きな額縁を運び出してきた。ゆっくりと布が剥がされる。
「素敵っ!!」
シロハが思わず叫ぶ。
ベルは、その絵の美しさと迫力に圧倒され、持っていたペンを落としそうになった。そこには、二つの月に照らされ、丘全体を覆い尽くすように白く、神秘的に輝く、無数の羊たちが描かれていた。
画集と同じ筆致、同じ光――そして右下には、誇らしげに、しかし小さく『Phia』のサインが刻まれていた。
「画集と同じだ。エルム様、本物です。これこそが、彼女の見た『双月の丘』なんですね」
「ああ。二百年経っても、この絵の輝きは少
しも曇っていないね」
「顔料に微量の魔力を混ぜ込んで、輝きを表現するだけじゃなくて、劣化を防いでるね。フィア……丁寧な仕事をする画家だね。」
エターナが感心した様子で絵を観察している。
だが、その美しい絵の向こう側、窓の外では、管理局の「眠らずの羊舎」が、冷たい魔導ランプの光を放ち続けている。
「でも、この輝く羊たちは……」
ベルは、壁に飾られたフィアの絵をじっと見つめた。二つの月の光が、部屋の隅々にまで真珠色の影を落とす中、彼女の胸の内に、静かな、しかし決して消えない決意の火が灯り始めていた。




