第18話 王の降臨
その一発の轟音は、スノー・グレイスが数千年の間、青い雪の中に閉じ込めてきた静寂を、物理的な質量を持って粉砕した。
「……なっ!? 馬鹿な、まだ射撃命令は出していないぞ!」
管理局の陣頭で、マルコシアス総督が狼狽した声を上げた。彼の背後に控える、管理局本部から派遣された「特使」たちの口角が、不気味に吊り上がっているのを、彼はまだ気づいていない。
無許可で放たれた魔導砲弾は、幻想的なコバルトブルーの空を切り裂き、リザードマンたちが守る聖域の境界へと吸い込まれていった。
「あーあ。最悪。……やっぱり管理局の連中は、算数すらできないみたいだね。」
茶房の窓際で、エターナが吐き捨てた。彼女の指先は、既に空中に幾重もの幾何学模様を描き出し、光の粒子を編み上げている。
飛来する砲弾の直撃を逸らすため、彼女は反射的に、街の居住区全体を覆うほどの広域防護結界を展開した。
「ベル、私の影に入って。……衝撃波の減衰計算、かなり端折るから」
直後、結界に砲弾が衝突し、銀世界が白銀の閃光に飲み込まれた。エターナの展開した精密な術式が砲弾を強引に弾き飛ばすが、その余波でスノーグレイスの石畳が激しく震動し、幻想的な青い雪が、恐怖を煽るような乱舞を始めた。
† † † † †
だが、その一撃が引き金となり、事態はエターナの予測を超えた速度で最悪へと転がり落ちた。
管理局の砲撃が、リザードマンの聖域を傷つけたこと。それは、彼らを統べる「絶対的な支配者」の逆鱗に触れるには十分すぎる暴挙だった。
地響きのような唸り声が、雪山の深淵から響き渡る。
「ちょっ、こんなやつも出てくるの? 不味いな。これはちょっと想定外……」
エターナの頬に、初めて一筋の汗が流れた。
猛吹雪を伴って雲を割り、天空から降臨したのは、スノーリザードマンたちの王にして、この地の支配者――『氷嵐龍』だった。その巨体は氷の鱗に覆われ、羽ばたくたびに周囲の気温を絶対零度へと近づけていく。
怒り狂ったドラゴンは、自らの民を傷つけた管理局の軍勢を「排撃すべき敵」と認識した。
ドラゴンが大きく顎を開き、喉の奥に、すべてを凍土に変える超高密度の魔力を収束させていく。その射線には、管理局の軍勢だけでなく、逃げ遅れた街の人々や、境界線上にいるエターナたちをも含んでいた。
(……ダメだ。さっきの砲弾の防御で、ドラゴンのブレスの指向性を逸らすには、結界の再定義が間に合わない……)
エターナは、自分の杖を握る指先が僅かに震えているのを自覚した。
数千年の時を生き、あらゆる魔法を極めてきた第一賢者。彼女にとって、防御とは常に『相手の出方に対する最適解』の提示であった。だが今、目の前にある純粋な怒りとしての魔力奔流は、彼女の論理を嘲笑うかのように迫っていた。
(計算ミスか……この長い人生、最後は私らしくない失敗で終わるのも、皮肉が効いてて悪くない)
エターナが静かに目を閉じ、結界の展開を諦めた、その瞬間だった。
背後から、温かく、しかし圧倒的な「重圧」を持った何かが彼女を包み込んだ。
「……っ!?」
目を開けたエターナの視界に入ったのは、自分を力強く抱き寄せ、自らの背中でドラゴンの正面を塞ぐように立った、エルムの背中だった。
「……俺の後ろにいろ」
その声を聞いた瞬間、エターナの思考は完全に停止した。聞こえたのは、いつもの穏やかなエルムの声ではない。低く、地の底から響くような、絶対的な支配者の響き。
エルムが、腰に差したままだった刀の柄に、ゆっくりと手をかけた。
その瞬間、世界の色彩が反転した。雪が止んだ。物理的な圧力によって「静止」したのだ。エルムの黒髪の隙間から覗く瞳が、鮮血を流し込んだような「紅蓮」へと染まっていく。
「……エル……ム?」
エターナの震える声に、彼は答えない。彼の背中から、漆黒の羽が、音もなく展開された。それは光を吸い込むほどに深く、威圧感を放っている。
さらに、刀を握る彼の手の甲に、黄金色の紋章が浮き上がった。霧氷の谷の古龍と交わした『古龍の契約紋』が、吹雪の中で太陽のように輝き始める。
「――邪魔だ」
エルムが刀を鞘から数センチだけ抜いた。
キィィィィン、という、耳鳴りのような高周波が世界を支配する。
直後、氷嵐龍が放った渾身の極低温ブレスが、エルムの周囲に展開された不可視の「領域」に衝突し、まるで鏡に当たった光のように、綺麗に左右に割れて霧散した。
魔法の干渉ではない。ただそこに立っている「個」としての存在が、ドラゴンのブレスさえも彼に近づくことを許さなかったのだ。
「…………なっ」
咆哮を上げようとした氷嵐龍の動きが、ピタリと止まった。ドラゴンの瞳に映っているのは、眼下に立つ小さな魔族ではない。主神たる古龍グラキエス・レックスの紋章を背負い、圧倒的なオーラを纏った、本物の「王」の姿だ。
ドラゴンは、羽ばたくことさえも忘れ、地面へと降り立った。そして、あろうことかその巨大な頭を雪の中に深く沈め、恭順の意を示すように、ひれ伏したのである。
「あ……ああ……」
境界線で槍を構えていたスノーリザードマンたちも、次々と武器を落とし、その場に膝を突いた。彼らが数千年の間、血脈の中に刻み込み、信仰し続けてきた「本物の王」の気配。それを前にして、戦う理由はもはやどこにもなかった。
雪原に響くのは、エルムが刀を鞘に収める、パチンという硬質な音だけだった。
† † † † †
静寂が、戦場を支配した。
管理局の重戦車も、特使たちも、あまりの出来事に言葉を失っている。
エルムは、紅蓮の瞳をゆっくりと元に戻すと、背中の羽を霧のように消した。
そして、まだ呆然として彼を見上げているエターナたちを振り返った。
「……エターナ、ベル。2人とも怪我はない? ミレイユのヒントが役に立ったね。グラキエスとの契約の効果を使わせてもらったよ。でもあれは、僕の力を解放しないと証明できないらしい……」
そこには、いつもの「僕」と呼ぶ、穏やかなエルムの笑みがあった。
だが、エターナの胸の奥で鳴り響く鼓動は、一向に収まる気配を見せない。
彼女は、自分の頬が異常に熱いのを感じていた。
(……何これ。この心拍数……あり得ない。死を覚悟したから?死ぬのが怖かったから? いや、違う……エルムが魔族だったから?それも違う……この感情、自分でも分からない……)
「あ……ありがとう。助かったよ。さっきのやつ、後でちゃんと説明してよね。」
彼女は、精一杯の「いつものトーン」でそう言ったが、その声は微かに震えていた。エルフの尖った耳の先が、雪の白とは正反対の、鮮やかな朱色に染まっている。
その光景を、ミレイユは扇で口元を隠し、ニヤニヤと楽しげに眺めていた。 「……やるじゃない、色男。……でも、あれを見られちゃった以上、もう『ただの旅人』じゃいられなくなるわよ?」
静まり返った管理局の陣営から、聞き覚えのある声の男が近づいてくる。
「……エルム殿! エルム殿っ! マルコシアスでございます。私の不手際で、こちらから先に発砲してしまい、不徳の致すところです。本当に助かりました。改めてお礼をさせていただきたい。それと、先ほどのお姿については、私も説明をお聞かせ願いたい。」
そんな中、管理局の兵隊の中から黒い影が逃げ出したのを、ミレイユだけでなく、管理官としての鋭い洞察力を持ち合わせるベルも見逃さなかった……




