第9話
美沙を見送って戻る途中、廊下のあちこちに配膳車が置かれているのを見て夕食の時間だと判ったが、食べる気になれなかった隆はナースステーションに寄って食事は要らないと告げる。
その後、病室のベッドで横になっていると知らぬ間に寝てしまい、気付けば9時を過ぎていた。
ネットのニュースを壁に取り付けられた大型ディスプレイで見ようと思ってリモコンを手に取ると、突然病室のドアがノックされる。
看護師が訪れる事もなく夕食も断っていたので初めて聞くノックの音に驚いたが、
「どうぞ」隆が気を取り直して答えると、カーテンの向こう側で静かにスライドする扉の音がした。
「失礼します」という低い声と共に扉の前のカーテンが大きく開かれ、その声の主が水色のワイシャツの上に白衣を着た恰幅の良い男性だとわかる。
黒縁のメガネを掛けた男性は隆を見ると笑顔になって頭を下げ、
「明日の手術を執刀する、脳神経外科医の石川と申します」と野太い声で告げながら名刺を差し出した。
「手術って?…」そう言いかけた隆は医師の手にあるものを見て黙った。
金文字で石川浩司と名前だけが書かれている深いグリーン色の名刺は、オーストラリアのゴルフ場でスティーブがくれたのものと全く同じデザインだった。
「では、あなたが…」隆がそこまで言うと、
「ええ、私が変身術を執り行います」石川という名の脳神経外科医は力強い声を病室中に響かせた。
変身の話を誰かに聞かれてはいけないとドアの方へ視線を配る隆に、
「大丈夫、何も心配はいりません」と再び大きな声を響かせ、メガネの中の目をさらに細めた。
予定通り変身術が受けられることと執刀医が人懐っこい笑顔の医師であることが判って、不安で重さを増していた隆の心は一気に軽くなった。
「明日はよろしくお願いします」ホッとした隆が頭を下げると石川は脇に抱えていたタブレット端末を指差しながら、
「変身するのがどんなネコちゃんかコレでご覧になれますが、どうします?」と嬉しそうに訊いてくる。
突然、自分が変身するネコを見るかと訊かれて戸惑い、
「はあ…」とだけ答えて悩んでいると、
「私、ネコが大好きなんですよ~」石川はそう言って1人で動画を見始めた。
「見せてもらえます?」隆が思わず訊ねると、
「あ、失礼しました。どうぞご覧ください」そう言いながらタブレットを手渡し、「可愛いですよ~!」と付け加える。
画面では、1歳くらいに見える典型的な柄のアメリカン・ショートヘアがおもちゃのねこじゃらしで遊んでいた。
「シルバータビー柄で間違いないですね?」石川が身体の毛色について確認するが、自分が変身するネコを見せられ今まで味わった事のない感情に包まれていた隆は、ただ頷くことしか出来なかった。
「自分は…、明日からこのネコになるんですね…」しばらくの間、黙って動画を見ていた隆が複雑な心境で呟くと、
「はい、この位の年齢が変身術には一番イイんです!」石川は笑顔でそう答え、「変身術で野生動物が減ってしまうのではと心配する方もいますが殆どは変身用に繁殖したもので手術を行うので、決してそんなことはありません。野生動物を用いる場合でも施設で殺処分待ちになっているものを使用しますので、どちらかといえば失われる命が救われているんです」と低い声で説明した後は黙って動画が終わるのを待った。
動画の再生が終りタブレットを返すと、
「明朝、手術室でまたお会いしますが麻酔が効いてからですので、記憶に残る形では本日が最初で最後ということになります」
石川は最初に見せた人懐っこい笑顔で話すと、「術後6日間はリハビリ担当がしっかりお世話しますので、退院まで安心してお過ごしください」そう言い残して部屋を出ていった。
消灯時間などの決まりはなく、寝るのも起きるのも自由な病院でまだ10時前だったが、隆は部屋の灯りを消してベッドで横になった。
ナイトテーブルのフットライトだけになった薄暗い病室で石川と会った時のことを思い返していると、病院に来てから抱いていたものとは違う不安で心が一杯になっていることに気付く。
それは、医師の訪問により全てが正しい方向へ進んでいると判ったその時こそ、変身するのは紛れもない現実で人間でいられるのはあと僅かだと判った瞬間でもあったからだった。
覚悟は十分出来ているつもりでいたが実はそうではないと気付かされ、人間としてやり残した事やネコとしてどう生きれば良いのかなど、焦りと不安が心の底から勢いよく吹き出し始めていた。
その後、こんな大変な思いをしていながら愚痴を聞いて貰う相手もいない、たった1人の夜が人間として過ごす最後の時だと思うと、隆は無性に寂しくなって目からは涙が溢れた。
ヘヴンへ行けばこんな複雑な経験をせずに済んだという考えが頭をよぎったが、元々変身を決めた理由は美沙のことが心配でならなかったからだと思い出し、隆は自分を励ますことにする。
今、こうして1人寂しくいることが生き続けて美沙の人生の支えることに繋がっていて、変身術するのはその為なのだと必死で自分に言い聞かせてみたが涙は止まらなかった。
隆は20歳の頃、地球上で人間だけが自然の原理に則していないと感じるようになった。
やがて、自然や動物に対する人間の傲慢さや残酷さが嫌いになり、絶滅の危機に瀕した多くの動物を救うには人類というたった1種類の生き物さえ絶滅すれば良いのだとまで思うようになった。
変身術が開発されたという噂を初めて耳にした時は真剣に動物として生きようかとも考えたが、実際には踏み切らなかった、というより今思えば踏み切れなかったのだ。
その理由がもしかしたら自分も知らない心の奥底に、人間でいる満足感や人間であり続けたいという願望があったのかも知れないと隆は思った。
人間でいることが好きだったからこそ人間が持つ残酷な部分や傲慢な部分が嫌いだったのだと、人間に別れを告げる今になってやっとわかった気がしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
次の日の朝、ベッドの上で半身を起こし、窓の明るい景色を眺めていた隆はドアがノックされるのを聞いた。
「どうぞ」とドアに向けて言うと2人の看護師がそそくさと入ってきて、
「これから手術室へ向かいますが、その前に簡単な検査をします」そう言いうと隆をベッドに寝かせて2人掛かりで腕や足に検査機器を取り付けていく。
しばらくして検査が終わったのか1人の看護師が、
「じゃ、これで眠くなりますからね」と隆の腕に注射の針を刺した。
すぐに意識が朦朧とし始めて手術室に運ばれていく間、隆はフワフワと雲に乗って移動している錯覚に陥っていた。
その後、見ているものは幻覚となったのか、銀色の宇宙船の音もなく開いたドアからカチャカチャという騒々しい音がする眩い光の中へ連れていかれる。
手が長く頭の小さい人が逆光でぼやけたシルエットとなって自分を見下す光景の中、
「斎藤隆さん、これから始め……すよ…」と告げられ、宇宙人は日本語を話せるのかと思ったところで目の前が真っ暗になった。




