第8話
「たかし、入院の準備は出来た?」
書斎のドアを開ける美沙の声で目を覚ました隆は手にしたままのリーフレットを見て自分が知らぬ間にまどろんでいたことに気付いた。
「最近よく眠れてなかったからつい…」そう言い訳をしながら椅子から立ち上がり、『50歳のメタモルフォーゼ(=変身)』と題された秘密めいた感じのリーフレットをシュレッダーにかける。
隆は変身術を受けるために明日から入院の予定で、今夜が人間として過ごす最後の夜だった。
隆はそんな夜をしんみりさせたくなくて、
「入院の準備をしようとここへ来たのに、まだ鞄すら出してなかった…」額を軽く叩きながらおどけて言うと、本棚の上のボストンバッグに目をやる。
その想いが伝わったのか、
「私も手伝うわ!」と美沙が側にある踏み台を手に取り明るく笑った。
人間として退院する訳ではないので何を持って行くか悩んだが、必要ないと思える着替えや読むかどうか分からない文庫本をバッグに詰めると手早く入浴を済ませて自分のベッドで横になる。
変身術は臓器を使用しないという理由から体調の良し悪しに関係なく手術を行えるようだが隆は念の為、早寝早起きの規則正しい生活で今日まで健康維持に努めてきた。
肝心の脳についても不安がストレスとなって悪い影響を与えぬよう、手術の話は一切しないようにしていたから前日の今日も美沙は普段通りすでに自室で休んでいる。
隆は美沙がベッドの中でどんな事を考えているのかと、思いを巡らせた。
その後、ネコの暮らしではどんな困難が待ち構えているのだろうかといった人には絶対に想像出来ないこと考え始め、あの例えようのない不安が再び湧き上がってくる。
しばらくの間、暗い天井を見つめながら恐怖のような不安と闘っていたが、数日間よく眠れていなかったお陰で気が付くと朝を迎えていた。
美沙はすでに起きているらしく、キッチンからトントンと包丁の音が聞こえてくる。
寝室を出てダイニングを覗くと、食糧危機の今では滅多に食べられない卵焼きや納豆がテーブルの上に並べられていた。
隆の気配を察した美沙が振り返り、
「おはよう、歯を磨いている間にお味噌汁温めておくわね!」普段どおりの元気な声をキッチンに響かせる。
隆は洗面台の鏡に映る自分の姿を見ながら人間として顔を洗うことも今日が最後だと思い、その感覚をずっと忘れずにいられるようにと願った。
なぜなら、歯を磨いた爽快感や味噌汁の味など、人の身体で感じている感覚を別の動物に変身した後も持ち続けられるとは限らないと聞いていたからだった。
記憶だけでは美沙と喜びや悲しみといった感情まで分かち合うのは不可能だと考えていた隆は、人間の時の感覚がネコとして生きることを辛くしたとしてもずっと忘れずにいたいと思っていた。
朝食を摂り終えて食器を片づけるとあっという間に出掛ける時間になった。
いつもなら時間が掛からないドローンタクシーを選ぶところだが、地上を走るタクシーで街並みを見ながら行きたかった隆は自動運転タクシーを呼ぶことにした。
そこで実際に手術を行うのかなどの詳細については知らされておらず何も分からないが、タクシーに乗り込むと指示された通りに広尾総合病院へ向かう。
広尾総合病院が大きな病院だと知ってはいたが実際に見るとさらに大きく感じ、自動案内システムが故障していたせいで50階建ての入院棟が5棟もある広大な敷地の中で迷い、受付まで15分も歩かされてしまった。
ようやく受付まで辿り着いて自動受付機に名前を告げるとB棟の最上階にある広い個室へ案内された。
病室へ向かいながら目にする院内の風景に特別なものは一切なく、ここで秘密裏に変身術が行われていることが嘘に思えてしまうくらい普通の病院だった。
病気で入院すると錯覚しそうな雰囲気に隆はここで間違っていないのかと思ったが、すでに不安そうになっている美沙の表情を見て、その事に触れるのはやめておくことにする。
病室に辿り着くとすぐに1人の看護師がやって来たが忙しいのか、入院に関する注意事項を早口で隆へ説明し、今日は検査がないので自由に過ごして良いと告げる。
その後、美沙の方を向いて手術後の面会と退院の日取りについて話していたようだったが、それが終わるとこちらに質問する間も与えずに戻っていってしまった。
いきなり自由にして良いと告げられて戸惑うばかりだったが部屋に置かれた病院案内を見ると、5つの入院棟に囲まれた広い中庭が1階にあると判った。
そこは入院患者がリハビリ代わりの散歩をしたり、コーヒーショップで買った物を味わいながらくつろげるようになっているようだった。
各棟の20階と40階にも『空中庭園』と呼ばれる庭があってそちらの方が人気のようだったが、1階の中庭で何か飲む事にし、ガラス張りのエレベーターで景色を見ながら地上まで降りる。
隆が人間の姿でいられる最後の日をどう過ごせば良いのかわからずいつもの自分でいられなかった2人には、普通の時間が流れている中庭の光景が救いに思えた。
早速売店で飲み物を買い座れる場所を探すと、少し離れた木陰に空いたベンチを見つけた。
並んで腰掛けた2人はしばらくの間黙ってカフェモカを味わっていたが、隣のベンチで新聞を読んでいた入院患者がいなくなると、
「退院は1週間後という話だけで、例の手術については何の説明もなかったわ」美沙が周りに聞こえないよう声を落として不安そうに言った。
看護師が病室へ来た時は変身術の説明をするのだと思ったが、そのことには一切触れずに帰ってしまった為、隆も同じ事を考えていた。
「…この病院で間違っていない筈だけど」少し間を置いて隆が低い声で応えると、
「ちゃんと予約されていたんだから、間違えてはいないわ…」その疑問に対する答えを頭の中で導き出していた美沙はすぐに返すが、他のことは何もわからずに再び黙り込む。
しばらく沈黙が続いた後、
「違法な手術のことじゃ確認したくても誰に訊けばイイかわからないし…。待っていれば、そのうち担当者から話があるだろう…」美沙の不安を取り除こうと言ってはみたものの、隆自身も心配で仕方なかった。
看護師が話した内容の中では1週間という入院期間が変身術を受ける時の条件と合致していたので、隆はそれが違法な手術を行うための合言葉になっているのかも知れないと思い始めた。
そして、変身術の申し込みの注意書きにあった『入院時の合言葉』を見落としてしまったが為に、この入院が正しいものと確認出来ないのだという妄想まで頭の中で膨らみ始めた。
ずっと黙ったままの隆の顔を覗き込みながら、
「とにかく1週間後、指定された場所に迎えに行くからね!」頑張ってという意味を込めてか、両手で小さく拳を作りながら美沙が言う。
お互いが人間として会う最後の日と解ってはいたが結局、その特別な日に何をすべきか見つけられず、夕方までその中庭でただ座って過ごした。
日が暮れてくるに連れ徐々に泣きそうな表情になってくるのを見た隆は、夜になってから別れるのは無理だと美沙を説得し、明るい時間に病院の玄関まで送って家に帰すことにした。




