第7話
「到着早々のコンタクトとは、予想外だったなぁ…」
ホテルに戻り、部屋のドアが閉まると同時に隆が言った。
美沙は小さなため息を漏らした後、
「そうね…、でも良かった。これが最終日だったらヤキモキして旅行を楽しめなかったもの…」そう言うと洗面所へ姿を消した。
変身を申し込む為の旅行ですら楽しもうとする美沙の呑気さで、自分がまだ緊張していることに気付いた隆はリラックスしようとベッドの横にあるソファへ仰向けで寝転んだ。
大きく伸びをしながら目を瞑ると、先程別れたばかりのスティーブの姿が瞼の裏に映し出され、ゴルフ場でのやりとりが蘇ってくる。
隆は無事にコンタクト出来たことを喜びたかったが、変身するという今まで空想にしか思えないことが現実へ変わったことで芽生えた不安がそれを許さなかった。
その不安はやがて心の底で大きく膨らみ、得体の知れない恐怖のようなものに変わり始める。
慌てて目を開いて立ち上がった隆は、
「さあ、何か美味いものでも食べに行こう!!」その不安を振り切るようにクローゼットの美沙に元気よく声を掛けた。
メルボルンに滞在した5日間は毎日スコールに見舞われたが、ホテルに屋内テニスコートやプールがあるのでやることには事欠かなかった。
天気が良い日は朝早く起きて静かな海岸をのんびり散歩したり、街の中心部へは混んでいない時間を見計らって行き、ショッピングや美沙が好きな食べ歩きもしっかり楽しんだ。
その後シドニーへ移動して3日間過ごしたが、湿度の高い気候が苦手な2人は殆どの時間をホテルで過ごし、土産を買いに外出しただけで東京へ戻ったのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ふぅ~、8日間なんてあっという間ね」
普段着へ着替えた美沙が、ボストンバッグを開けながらあまり久しぶりとは感じないリビングでため息をついた。
ソファに腰掛けていた隆は
「…うん、短かったな…」手の中にあるものを見つめながら、うわの空で答える。
それはオーストラリアのゴルフ場で手渡された1枚の名刺だった。
深いグリーン色の名刺を見つめながら、空想のようで全く実感が湧かなかった変身が具体的な現実へと変わった時のことを思い返していた。
ネコに変身する自分を想像し、オーストラリアで芽生えた恐怖のような不安が再び心の中に湧き上がってくる。
そんな隆を黙って見ていた美沙は、
「本契約の手続きとか…、2人でよく考えながらやりましょ…」と静かな声で慰めるように言った後、「隆がどんな姿になっても、そばにさえいてくれたら私は安心して暮らせるわ…」ソファの隣へ腰掛けてそう付け加えた。
その言葉で変身術を受けるのは美沙を支える為だと思い出した隆は、どんな不安も乗り越えるんだと自分に言い聞かせた。
翌日の夜、隆と美沙は本契約の手続きをする為に書斎へ来ていた。
パソコンの前に椅子を2つ並べて座り、夕方送られてきたばかりの『本契約手続き用』とタイトルのあるメールを開く。
オーストラリアでスティーブが話してくれた通りメールには何も書かれおらず、圧縮ファイルが1つ添付されているだけだった。
それが名刺を読み取る為のアプリだと聞いていた隆はすぐに添付ファイルをクリックする。
すると、ファイルは自動的に解凍された後、『カードスキャナーを接続してください』という文字が画面の中央に表われる。
普段、買い物をする時に使っているスキャナーを繋ぐと、『デバイス確認中…』に続いて『カードをスキャンしてください!』という文字が表示された。
手元に用意しておいたスティーブの名刺をスキャナーの上に置くとその文字は『読み取り中…』へと変わり、すぐ下に進行状況を示すバーが現れて左から右へ少しずつ伸びていく。
バーが右端まで伸びきると、『Animal Selection(動物選択)』と題されたページが開いた。
隆が沢山ある文字の中から『Cat(猫)』を捜してクリックするとネコの種類別写真へと画面が切り変わる。
「えっと…、変身するのは…、アメリカン・ショートヘアだったわね…」今度は美沙が身を乗り出して画面の中を見回し始めた。
しばらくすると、
「あ、これこれ!」と小さな写真を指差して振り向き、ネットショッピングをしている錯覚に陥っていた隆を現実へ引き戻す。
美沙の人差し指の先をクリックするとその小さな写真がアメリカン・ショートヘアを4方向から見た画像へと切り替わり、隣で動画が再生を始めた。
2人共何も言わずに画面を見詰めていたが動画は1分程で終わり、250,000dgt.の金額と決定ボタンが表示される。
隣の美沙へ顔を向けると、口を真一文字に結んだまま決心したようにゆっくり頷く。
それに促され、隆が『決定』と書かれたボタンを少し震える指でクリックすると突然、目の前の画面が真っ黒になった。
黒いままの画面に、何かトラブルが起きたのだと思った2人は互いに顔を見合わせる。
隆が何か言おうと口を開きかけた時、『お待ちください。通信中です…』という白い文字が画面に現れた。
2人がホッとして見詰める画面にはその後、『振込先名:GCNL Co.Ltd.』という文字が現れ、支払金額の入力欄でカーソルが点滅を始めた。
隆がアメリカン・ショートヘアの金額を2、5、0、0、0、0と慎重にキーボードを叩いて入力すると、次に24桁の振込元口座番号が表示される。
隣で同じ画面を見つめる美沙に迷いがないことは良くわかっていたが、隆は今ならまだ戻れると思った。
それは、美沙だけではこの食糧難を生き抜けないと思って変身を決めたものの、小さなネコが本当に人間を支えられるのか、という疑問が残っていたからだった。
変身する事自体全く不安がないという訳ではないが、それよりネコの夫を抱えて複雑な人生を送らなければならいない美沙のことが心配だった。
変身する事は十分過ぎるほど話し合って決めた筈なのに思わず、隣で何も言わずにいる美沙のその表情を確認してみたくなる。
しかし、そんなことをすれば変身という重い決断の一端を一生背負わせることになってしまうと気付き、すんでの所で思い止まった。
あくまで自分の意志だと思わせる為に隆は口座番号を入力し終えると画面から目を逸らさず、そのまま決定ボタンをクリックした。
「カチッ!」というマウスの音に重なって「あっ!」と言う美沙の小さな声が聞こえたが、それ以上は何も言わなかった。
先ほどと同じように画面の中央で点滅を始めた『メール送信中です…』の白い文字を2人は黙って見詰めていたが、1分ほどしてメールの着信音が鳴ると我に返り、同時に小さなため息をつく。
「支払い確認済みメールだね?」隆がそう言いながら開いてみると思った通り、『支払い完了』の文字と共に本契約ページへのリンクが貼られていた。
クリックして開いたページは赤い文字で書かれた『注意事項』だった。
オーストラリアで聞いた説明の通りで本人の意思が確認出来ない場合や特定の病気がある場合、そして変身後の引取人がいない場合は申込みが無効になると書かれている。
全てを読んでから引取人として美沙の情報を記入し、『同意』にチェックして『次へ』をクリックすると変身術を受ける日付や場所など必要事項の入力ページへ進む。
「場所は日本の…、東京ということにして…」隆がそう呟きながら世界地図から日本を選び、拡大された日本地図の東京を指定して決定ボタンをクリックする。
日付選択画面では誕生日の欄に生年月日を入力するだけで、50歳になった時からヘヴンへ行く期限までの30日間が自動的に表示された。
「手術の希望は期限の最終日、10月26日でいいね」と隆がカレンダーの日付をクリックすると最終確認ページが開く。
入力した通りの場所と日付が表示されているのを確認した後、
「これでいいね?」今度はちゃんと美沙の顔を見て訊ねると、
「うん」とだけ言って小さく頷いた。
最終確認ページに大きく表示された確定ボタンをクリックすると『お待ちください。通信中です…』の文字に続いて『本契約の手続きは完了しました!』というメールが届き、全てが終了したことを告げた。
両腕を上げチェアの背もたれに身体を預けた隆は、
「あー、ようやく全ての手続きが終わった──!」と大きく伸びをしながら、そこに漂う緊張感を吹き飛ばすように言った。
そんな隆を黙って見ていた美沙は、
「これで、ずっと一緒にいられるのね…」と自分に向けてそっと囁いた。




