第10話
「こんにちはー!」
ウトウトしていた隆は遠くから響いてくる聞き覚えのある声で正気に戻った。
その後部屋のドアが開いたのか、微かに流れた空気に乗って慣れ親しんだ香りがやって来る。
美沙がつけている香水の匂いだと分かった隆は、
「こっちだよ!」と声に出したが、
「ニャ──オ!」と、どこかで鳴くネコの大きな声にかき消されてしまった。
コツコツというハイヒールの音が近づくにつれその香りは強くなり、近づいてくるのがハッキリ分かる。
「え〜と、どこにいるのかしら…」美沙が呟きながらやってくると、
「こちらになります」別の女性の声がして2人の足音が止まった。
隆が顔を上げると5倍程の大きさになった美沙の顔が目の前に迫ってくるところだった。
あまりの大きさに驚き、思わず首を竦めると、
「怖がらなくていいのよ」美沙がそう言いながら隆の身体を軽々と持ち上げた。
空中に引き上げられながら何故そんなことができるのかと思い、
「どこにそんな力が?」隆が訊ねると、
「ニャーオ、ニャオー?」再び先ほどのネコが鳴いてその声はかき消されてしまう。
だがそう思った直後、全身の違和感でようやく隆は気付く。
鳴き声は自身のものだと──────
今まさに、ネコになった自分を美沙が抱き上げているのだと隆は理解したのだった。
そして、変身術を受ける為に広尾総合病院へ入院したことも思い出す。
目を瞑ると瞼の裏に蘇るのは手術の朝に見た病室の窓の景色で、それが前日の夜に会った執刀医の顔へ変わると次は病院の中庭へという具合に、5倍速再生のような速さで記憶の場面が時を遡っていく。
その再生スピードは徐々に遅くなり、美沙と入院手続きをしているところまで戻るとそこで終わった。
(そうなんだ、僕は本当にネコになったんだ)心の中でそう呟いてゆっくり目を開くと、目の前で大きな美沙の顔が微笑んでいた。
隆は何か言おうとしたが、また『ニャーオ』という鳴き声になってしまうと気付いて思い止まる。
しばらくすると、
「では、こちらに入れてお連れください」背中の方から先程の女性の声がして、隆は段ボールで出来た小さな箱へ入れられてしまった。
すぐに2人の足音は遠ざかっていくが、箱の中からは天井しか見えないのでネコの耳を澄ましてみる。
遠くの方で
「ヘヴン・プロジェクト庁に提出する執行済証と死亡診断書はここにまとめてあります。ファイルのまま提出してください」と書類について説明する女性の声が聞こえる。
「ありがとうございます。色々お世話になりました」すぐにそう応える美沙の声がした後、足音が近づいてきて段ボール箱の蓋は閉じられた。
隆のいる小さな空間は真っ暗になり、どこかに運ばれているような揺れとハイヒールのコツコツという音だけが聞こえるようになった。
隆は暗闇の中で揺れながら、美沙と女性が交わした会話を思い返していた。
簡単な内容の短い会話ではあったが、人の言葉を理解できたのはネコへ移植した自分の脳がきちんと働いているからだと思った。
あとは隆の鳴き声を言葉に変換してくれるという翻訳機さえ機能すれば、変身術は大成功という事になるのだ。
突然、揺れが止まったかと思うと箱の蓋が少しだけ持ち上げられ、
「ここに翻訳機があるから何か話してみて…」美沙の小さな声が狭い隙間から耳に届いた。
何を話せばいいのか迷っている隆に、
「私の言葉がわからないの? わかるなら返事をして…」と少し慌てながら囁いた後、潜めた声で叫ぶようにして「このネコが隆だと確認したいのよ!!」と矢継ぎ早に続けた。
美沙の泣きそうな顔が頭に浮かんだ隆は、
「僕だよ、隆だよ。変身術は成功したんだ!」と何も考えずに叫んだ。
実際、隆の耳には「ニャオ、ニャーオ。ニャーオニャーオー」としか聞こえなかったが、
「良かった、本当に隆で良かった…」そう言う美沙の微かな声が聞こえた後、箱の蓋は静かに閉じられた。
自分だと分かって貰えてホッとした隆だったが再会できた喜びを感じる間もなく、再び暗闇の中に引き戻されてしまった。
その後、隆が感じて聞いた揺れと音、そして嗅いだ匂いによると美沙はドローンタクシーに乗ったようだ。
15分程してタクシーが着陸すると電子マネーで料金を支払う音を響かせた後、急いでドアから降りる。
早足にどこかへ向かっているのか、先ほどより速いテンポでコツコツとハイヒールのリズムを刻んでいく。
そのリズムに合わせて上下の振動が伝わる隆はまるで激しいダンスを踊らされているように身体を揺さぶられ、暗闇の中で何度も箱に頭をぶつけた。
慌ただしく鍵を回す音が聞こえた後、玄関のドアを勢いよく開けたのか懐かしい我が家の匂いが一気に箱の中まで流れてきて、自宅に着いたのだと分かった。
ドアが閉まって静かになると、今度はゆっくり鍵を掛ける音がして美沙の小さなため息が聞こえる。
ようやく激しい揺れから解放されて一息ついていると隆は箱のままゆっくり床に降ろされた。
すぐに大きく蓋が開かれ、真っ暗闇だった箱の中は目が眩みそうなくらい明るくなったが、ネコの目はその光を瞬時に調整してしまい、視界がボヤけたりすることは全くなかった。
その視線の先には見慣れた白い天井をバックに美沙の顔がある。
黙ったまま、目に涙を浮かべながら微笑み、何か言いたげな表情で隆を見詰めていた。
美沙が話すまで待とうと思った隆は箱の隅に寄りかかって全身を見せるように横になり、毛繕いをしてみせた。
1粒の滴が耳に落ちてきたのを感じて隆が見上げると、次々に大粒の涙が降り始めた。
美沙は大きな声で泣きながら、
「隆、ごめんなさい。本当にごめんなさい」と嗚咽の中で言い、「私のわがままな願いで、隆をこんな目に遭わせてごめんなさい」さらに大泣きする。
ネコなので涙は出ないが美沙が泣いているのを見て、隆も心の中で大泣きしていた。
10分程経ってようやく涙が涸れたのか美沙は泣き止んで、時々しゃくり上げながら濡れた頬を手で拭っている。
横になっていた隆が美沙の方を向いて座り直すと、
「私はもう大丈夫…」そう言って隆の頭を優しく撫で、「無事に帰ってきてくれてありがとう」とそっと額にキスをした。
それまでずっと黙っていた隆は
「後悔はしてないから、もう泣かなくてイイ。これからもずっと一緒だよ」と箱の中から静かに言った。
鳴き声翻訳機のスイッチが入っていたかは分からないが、美沙は隆を見て何度も大きく頷いた。




