第11話
その日の午後、2人はリハビリをやる為に書斎へ来ていた。
そこは隆がフリーの写真家としてペットの思い出アルバムを作る仕事をしていた場所で、壁には様々な動物の写真が額に入れられて所狭しと飾られている。
書斎にはマンションの外廊下に面した窓か1つあるだけでその上曇りガラスだったから、他人に見られてはならないことをやるのに打って付けだった。
リハビリはネコとして充実した日々を生きられるようにするのが目的で不自然な動作や鳴き方によって変身動物であることがバレてしまわないようにする為にも重要と考えられているが、術後の回復が遅かった隆は本来入院中に終わせる筈のリハビリを始める事すら出来ず、自宅で1からやらなければならなかったのだ。
その内容は声帯を正しく使えるようになる為の発声練習と、筋肉や関節の特徴を十分に生かせるようにする為の全身運動で特別なものではないが、専用の設備がない自宅では病院より日数が掛かることは確実だった。
ともすれば自分がネコに変身したことを忘れてしまう隆は運動して頭をハッキリさせたかったし、翻訳機を通じてきちんと会話が出来るのかも知りたかったから、明日からで良いと言う美沙を説得してすぐにリハビリを始めることにしたのだった。
「じゃあ、何か言ってみて!」美沙は鳴き声翻訳機のスイッチを入れ、隆の顔を見ながら促した。
「ぇぇっとぉおぉお~、ぅまぁくぃええぇるかなはぁあ~」緊張したせいで翻訳機からは理解できない言葉が聞えてくるが、美沙は気にも留めずに
「頑張って、隆!!」と力を込めて声援を送る。
引き取り場所から帰る途中、美沙に何か話すようせがまれた時は何も考えずただ必死で声を出したが、改めて発声しようとすると力が入って変な話し方になってしまう。
正しく言えば話し方というより翻訳機の変換が上手くいかないのだが、とにかくネコになった隆の鳴き方が変だということなのだ。
その鳴き声翻訳機はAI機能搭載の高性能コンピューターで、隆が人間だった時の話し言葉の語彙や発声の癖、構文の特徴などが全てデータベースとしてインプットされている。
隆がネコの声帯を通じて話した時の鳴き声を人工知能がインプットされたデータを元に判断し、人間の言葉に変換する仕組みだ。
例えば、隆が「これ、いいね」と言おうとしてもネコの声帯では「ニャオ、ニャーオ」という鳴き声にしかならない。
翻訳機はその鳴き声の音程とリズムの微妙な変化を読み取り「これ、いいね」と人間の言葉に翻訳して文字か音声または両方で示してくれるのだ。
ネコの声帯を上手く使えない不自然な鳴き方では正しい言葉に変換出来ないのだと、リハビリの担当者から聞いていたがまさにその通りだった。
「なぁかなかぁ、むずぅかぁしぃよぉぉ」隆が言うと、
「あ、上手よ、ちゃんと解る! ちゃんと翻訳されてるわよ!!」美沙は自分の事のように喜びながら励ました。
「近ぁ頃ぉの社ぁ会ぃもぉんだぁいはぁ食糧ょうぅ問題ぃだぁ」試しにと難しい言葉を言ってみたつもりだったが単に変な響きの言葉になってしまい、
「フフフ…。それ、何だか面白いわ…」と美沙に笑われてしまう。
しかし、その笑い声が退院してからずっと不安で何もかもが必死だった隆に初めて平和な時間と生きている幸せを感じさせた。
そして、美沙と一緒ならどんなに大変な事も乗り越えていけると思え、変身術を選んだ事で感じていた社会に対する後ろめたさやネコとして生きる事への不安が少し軽くなっていった。
1時間程あれこれ言葉を発声していると要領を掴んだので次に運動リハビリを試してみることになった。
そんなに時間が掛からずネコのように飛んだり走ったりできると簡単に考えていた隆だったが、それは甘いとすぐにわかった。
最初、何をどうしたら良いのか分からない隆が
「じゃ、ここまで走ってきて」そう言って両腕を広げる美沙をめがけ、後足で勢いよく床を蹴ると前ではなく上に50センチ程ジャンプしてしまう。
次に、後足の力を加減しながらやってみるとジャンプこそしなかったが前足とのリズムが合わず、生まれたてのウサギのようにピョコピョコと不器用に進むだけで走るのとは程遠いものになってしまった。
広げた腕の所までなんとか辿り着いた隆は少し力を入れただけでジャンプしてしまう程の高いポテンシャルに目を丸くしていたが、美沙はそんな隆を見て落ち込んでいると思ったのか、
「まだ慣れていないだけよ。すぐに上手になるわ」両手で抱き上げて優しく頭を撫でた。
変身術ではその生態と能力を保って生きられるように動物の脳の殆どが残されており、隆はネコ本来の動きで関節や筋肉を使う事が可能だ。
しかし、各部分の動きを自分の意思による全身の動作とするにはタイミングと力加減をコーディネートしなければならず、それには様々な運動を通じて学んだ正しい動きを脳に蓄積しておく必要があった。
運動リハビリはその為のものだが人間が持つ肉体的ポテンシャル程度の経験しか持ち合わせていない隆には力の加減が分からず、全てがオーバーパワーになってしまったのだ。
「じゃあ、もう1度やってみて。今度はゆっくりでいいから」美沙は隆を抱き上げると先程のスタート地点まで行き、そっと床に降ろした。
「じゃぁ、歩くぅ事かぁらぁ…やぁってぇみるぅ」隆は自身を落ち着かせるように言ってからゆっくり歩き出す。
すると、今度は4本の足が滑るように前に出て、スムーズにそして思ったより速いスピードで歩け、まるで空中に浮いているかのように身体が軽く感じた。
そのスピードの割に床の硬さをほとんど感じないほどソフトな着地で全く音を立てずに歩けてとても心地良かった。
美沙の広げた腕まで辿り着いた隆が自信ありげに
「どぉうだったぁ?」と聞くと、
「とっても良かったわ。まるっきりネコって感じよ!」美沙は感激していた。
上手く歩けた事で逆に不出来な発声の方が隆は気になって、
「言葉ぁの方ぅはぁあ?」と訊ねてみると思った通り変な翻訳になってしまったが、美沙は決してダメだとは言わずに右手でオーケーサインを出してくれる。
隆の脳には美沙の話し方や語彙などを記憶したマイクロコンピューターが埋め込まれ、言われることは全て理解できた。
一般的な人の言葉や会話パターンもマイコンに収録されていて、他人の話もある程度分かるようだがどこまで理解できるのかは不明とされている。
それでも美沙が自分を引き取りに来た時に聞いた知らない女性の話は全て理解出来たから、あまり問題ないだろうと隆は考えていた。
スタート地点と美沙の間を10往復もすると、隆は急に腹が空いてきた。
壁に掛けられたいつもの時計がそこからは見えないので何時だか判らなかったが、だんだん部屋が暗くなり始めたので夕方になったと思った。
「そろそろ…」隆はそう言ったつもりだったが翻訳機からは「そぉうろぉそぅぉろぉ…」と聞こえて思わずその続きを言わずにやめると、美沙が壁の時計をチラッと見て、
「あら、こんな時間じゃお腹空いちゃったわね?」、「今日はこれくらいにしておきましょ!」矢継ぎ早にそう言うと薄暗くなった書斎の灯りを点け、隆の返事も聞かずにどこかへ行ってしまった。
多くを言わずとも自分の言いたい事を分かってくれた美沙の後ろ姿を見上げながら、隆は2人で過ごした時間の長さを思い知った。
そして夫婦には沢山の言葉よりどれだけ多くの愛情を持って見守るかの方が大切なのだと、上手く話す事が出来なくなって初めて分かった気がしていた。




