第12話
「これ、試しにどうかしら?」そう言いながら缶詰を手にした美沙が戻ってくる。
すぐに餌の缶詰だとわかった隆が
「ネコぉぉ缶、だぁねぇぇえ」そう答えると、
「とりあえずコレを買ってみたんだけど…、もし、美味しくなかったら何か作るわね…」夫にネコの餌を与えるのが申し訳ないと思ったのか遠慮がちに缶詰のラベルを見せた後、「家の中なら他人に見られる事もないし、何を食べたってイイわ」と気遣う。
隆はネコの姿になった自分に人間の時と何も変わらない態度で接してくれることがとても嬉しかったが、この食糧難に人間の食事をネコに与える人はいないし、それを誰かに見られて疑われたりしたら変身早々困ったことになると思い、
「その缶詰ぇ、食ぁべぇてぇみるよぉおぉ」そう言って試してみる事にしたのだった。
美沙はネコ缶を食べるという隆の言葉に少し驚きながら、
「そうなの? じゃあ、器を取ってくるわね!」小走りでキッチンへ行くと、フードボウルを胸の高さで持ちながらゆっくり慎重に歩いて戻ってきた。
デスクの上にそっと置いた後、床にいる隆を抱き上げてその隣に降ろす。
青いプラスチックのペット用フードボウルには2つの窪みがあり、片側にはすでに飲み水が入っていた。
美沙が空いている窪みの方へ餌を移し始めると、隆は缶とボウルを行ったり来たりするスプーンを顔で追いかけていたが、やがて漂ってくる匂いのせいで胃の辺りが熱くなってくるのを感じる。
「どうかしら、食べられそう?」缶詰の半分程を移し終えた美沙が心配そうに訊ねると、
「いいぃ、匂いぃだよぉぉ」隆は先ず舌で舐めるようにして味わった後、ムシャムシャと食べ始めた。
隆には不思議でならなかったが餌の缶詰はその匂いの通りとても良い味がして、食べ始めると止められなくなった。
「おいしい?」美沙はそう言いながらデスクに頬杖をつき、「口に合って良かった…」と隆が食べるのをじっと見ている。
上手く口を使えないせいで餌が気管に入ってむせると、
「隆、お水よ! 隣のお水を飲んで!」美沙が慌てて別の窪みの方を指差すが、飲もうとした水を鼻から吸ってしまい、今度はくしゃみが止まらなくなってしまった。
30分程掛けて何とかネコ缶を食べ終えた隆は肉体的にも精神的にも疲れ切ってしまい、書斎の椅子に敷いてもらった柔らかい毛布の上で横になった。
今日という短い1日には多すぎるほどの事が次々に起こり頭を整理できずにいたが、お腹が満たされたお陰で瞼を開けていられなくなってくる。
遠くで美沙が片付けものをしている音を聞きながら、隆は眠りに落ちた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
何時だったのか時計を確認する事もできないほど疲れて眠りに落ちた隆だったが、外が明るくなってくると徐々に目が覚めた。
それ以上は眠れそうになかったので混乱した頭を整理しようと思い、書斎の椅子の上で横になったまま昨日の出来事を1つずつ思い返してみる。
不思議な感覚ばかりが蘇ってきて、その中でもネコ缶を美味しく感じた事が特に奇妙に思えた。
色々と理由を探してみるが何故そうなったかは分らず結局、変身した事で嗅覚と味覚がネコのものに置き換わったことで餌の缶詰を美味しいと感じたのだということにした。
これからも事ある毎にこんな違和感を持つのかと不安になりかけたが、ネコの暮らしがどんなものかは全く想像出来ないし何を心配すれば良いのかもわからないので、それ以上考えるのはやめにする。
壁の時計に目をやると針は5時過ぎを指していた。
こんな早朝に疲れた美沙を起こしたくなかった隆は動き回るのを控える事にして椅子の上で座り直し、昨日上手くできなかった発声の練習にはどんなものがふさわしいか考えてみる。
すると今朝は頭が冴えているらしく、すぐに早口言葉が浮かんだ。
そして人間の時の記憶から『隣の客はよく柿食う客だ』、『東京特許許可局』、『坊主が屏風に上手に坊主の絵を書いた』という3つの早口言葉を引っ張り出すことに成功した。
翻訳機がそこにないので上手く出来ているか分からないが喉と口を動かす訓練にはなると思い、小さい声で遠慮がちにやってみる。
先ず、『隣の客はよく柿食う客だ』を
「ニャニャ…ニャオ、…ニャオニャ、ニャオニャオ…ニャーニャ」と発声してみるがすごく難しい。
「ニャニャニャオ…、ニャオ…ニャ、ニャオ…ニャオニャーニャ!」
必死になって何度も挑戦している内に、隆は周りの事を忘れて徐々に大きな声になっていく。
「もう起きていたのね…、寝言かと思っちゃったわ!」と突然、美沙に話しかけられた。
隆が我に返って振り向くと、書斎の入り口にパジャマ姿の美沙が笑顔で立っている。
少し前から見ていたようだったが隆は難しい言葉の発声に夢中で、そこにいる事に全く気付かなかった。
周りが見えない程必死になっていた自分が少し恥ずかしかったが、
「ニャ、……………」と隆はとりあえず頭を下げて、うるさくしたことを謝った。
「いいの。リハビリしてたんでしょ?」美沙が顔を横に振りながらそう言い、「練習するなら翻訳機がいるわね」と引出の奥に隠してあった鳴き声翻訳機を取り出してスイッチを入れる。
何も訊かずに発声の練習だと判った美沙に感心しながら、
「こぉんなぁ…、時ぃ間んにぃ起こしてぇごめぇん。早ぁくぅ会話がぁ出来ぃなぁいと不自由ぅだからぁ」隆は言い訳をするが
「私も目が覚めちゃって眠れずにいたの。もう起きる事にするわ!」そそくさと何処かに行ってしまった。
「着替えたら一緒に練習しましょ。待っててね!」洗面所の方から美沙の大きな声が聞こえてきたので隆はそのまま椅子の上で待つ事にしたが、急にオシッコがしたくなってきた。
思えば昨日から1度もトイレに行っていない。
どうしたらよいのか分からなかったが勇気を出して椅子から飛び降り、人間の時に使っていたトイレに向かったがその前で違うと気付く。
トイレのドアを見上げて途方に暮れていると歯ブラシをくわえた美沙が洗面所から顔を出し、
「あ、トイレならリビングに用意してあるわ!」とその方向を指さした。
隆が示された方へ歩き出すとリビングの隅に、昨日はなかったネコ用トイレが置いてある。
結婚してから2匹のネコを飼ったことがある隆と美沙にとってそれは見慣れたものだった。
今、見えているのは当時と同じプラスチックで出来たトイレで近づいていくとそれも当時と同じように水分で固まるタイプの白いネコ砂が入っていた。
入院中は給水シートに用を足していたので砂の上でどうやればいいのかわからなかったが、とりあえずそこに入って向きを変えるとこちらを見ているネコと視線が合った。
驚いた隆は次の瞬間、ネコ砂をまき散らしながら飛び出し、気が付くと身構えていた。
しかし落ち着いてよく見ると、それはネコ用トイレの脇に立てかけられた姿見で鏡に映った自分と目が合っただけだった。
目の前のネコが自分だとわかった隆はその姿を良く見ようと鏡の真ん前に立ってみる。
そこに映っていたのは典型的なアメリカン・ショートヘアの柄を身にまとった若いネコだった。
ぼんやりとしていた記憶が徐々にハッキリして蘇り、変身術を受ける前日に石川という医師から見せられた動画が頭の中で再生され始める。
そのネコになったのを確認しようと横や背中など様々な角度で身体を映してみるが、変身した実感がない隆には人間の自分が動くのに合わせてネコのロボットが動いているようにしか思えなかった。
やがて、オシッコが漏れそうな感覚で我に返り、慌ててトイレに飛び込むと勝手に前足が動いて砂を掘っていた。
用を足し終わると今度は無性に砂を掛けたくなり、感情の赴くままにやってみると非常に気分が落ち着き、ネコの性というものを少し理解出来た気がした。
最初はトイレで性を知るなんて笑えると思ったが、すぐにそれと共にずっと生きなければならないのだと気付いて大きな不安に包まれてしまう。
そんな複雑な感情の入り混じった1日の始まりだったが発声と運動のリハビリをして食事以外の時間を寝て過ごすと、毛繕いする暇もなく1日があっという間に過ぎ去った。
その日の朝に抱いた不安はすでにどこかに行ってしまい思い出す事もなかったが、それもネコの性だと隆が気付く事はなかった。




