第41話
美沙は早川の話を聞いて心の底からホッとしていた。
父のヘヴン行きを受け入れたのなら後で後悔することも、違法なことに関わる罪の意識も持たずに生きられ、いつか野良になる日が来てしまうかもと怯えながら暮らす必要もないのだ。
今、ヘヴンと変身のどちらを望むかと訊かれたらヘヴンと答えるかも知れないと思っていた美沙は、父の死を受け入れられる早川が羨ましかった。
隆が家を出て5年の歳月が流れた今でも、毎日無事を祈ることに変わりはないが、美沙の想いは少しずつ変化していた。
以前は記憶を消されずにいて欲しいとばかり願って過ごしていたのが、やがて野良ネコとして暮らす毎日が辛くないようにと祈るようなった。
そして今の美沙は、もし野良の暮らしを困難にしているのが人間の記憶なら、再会の約束と共に全て忘れてしまっても構わないとまで考えられるようになっていた。
今なら自分のわがままな願いを背負わせずに解き放つ事ができ、隆がネコの世界でもっと自由に生きられる気がしていた。
だから、隆にすごく会いたかった。
会ってその事を伝え、楽にしてあげたいと心の底から思っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
美沙は50歳になる年の始まりを迎えた。
見慣れた景色が初日に照らされながら浮かび上がってくるのを、窓辺で灯りも点けずに眺めながら、これまでの人生を振り返っていた。
11年前、隆が家を出る時に託された、ずっとデリバリーを続けて欲しいという願いを叶える為に1日も休まずにネコ缶を配ってきた。
また、作家としてもっと良いポエムを創れるという期待には講演活動を忙しくこなしながら10冊のポエム集を出版する事で応えた。
それらは美沙にとって果たさねばならない約束だったし、自分が隆に課したものを思えば遥かに容易いものだから、どんなに難しくても諦めずにやり通せたのだ。
そして今年、約束を果たす為の人生の長い旅路はついに終着点に辿り着き、ようやく自分も変身出来るのだと思って美沙の心は晴れ晴れとしていた。
1度も姿を見せなかった隆と再会を果たし、辛い野良の生活を共に生きながら、変身を望んでしまった罪を一生かけて償おうと決心していた。
「新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします」と着物を装った早川が玄関で律儀に挨拶をする。
「おめでとう。こちらこそよろしくね!」出迎えた美沙が返すと早川はすぐに草履を脱いで家に上がり、大切そうに抱えた荷物をダイニングテーブルへ運んだ。
「毎年なんだから堅苦しい事は抜きにしましょ!」美沙は早川に微笑んだ。
元旦ぐらいは家族揃ってというのが口癖だった父親がヘヴンに行ってから、正月を美沙と一緒に過ごすようになっていた早川は、
「今年もできる限り手作りしたのよ!」と手持ちの風呂敷を広げながら言い、おせち料理の重箱を1つずつテーブルに置いていく。
「色々な食材を手に入れるの、大変だったでしょう」美沙がその苦労を心配して気遣うと、
「いいえ、工夫して作ったから色々とあるように見えるだけよ」と言い、「いつものようにどの料理も材料はお芋なの!」と笑った。
「とっても美味しそうね! お雑煮も出来ているからいただきましょう。でも、先ずは乾杯ね!」美沙が差し出した缶ビールを2人で開ける。
「かんぱーい。そして、新年おめでとうー」声を合わせて乾杯し、2人が立ったまま1口飲むと、
「お行儀悪いかしら? でも、お正月ぐらいは…ね!」美沙がいたずらっぽく笑う。
「美沙さんは、普段飲まないんだから程々に…。私も酔っ払ってデリバリーを忘れないように気を付けなきゃ!」と早川もふざけた。
「それよりトシちゃん、新年早々お母さんをほったらかして大丈夫?」そう言って早川の母を気遣うと、
「姉と妹の家族が来るので全く問題ありません。実家は5人の子供達で賑やかになるから、独身の私にはここの方が静かで平和なの」と言い、「美沙さんといると楽し~いし、心が落ち着くんで~す!」美沙の肩に後ろから両腕を回して抱き付くと、親子のようにふざけた。
おせち料理をつまみに飲んでいた早川が突然、神妙な表情になると、
「父のこと、ようやく話せるようになりました」そう前置きして自分の父親がヘヴンへ行った4年前の日の事を話し出す。
美沙は早川が辛いだろうとこれまで触れないようにしてきたので、その話を聞くのは初めてだった。
早川は寂しい子供時代を過ごしたことから話し出した。
その寡黙な父親は曲がった事が嫌いで礼儀を重んじる自らに厳しい人だったらしく、早川が10代になって自分の考えを持つと度々衝突したようだった。
それ以降は父親の本心を知りたいとは思わなくなったと話し、
「最期にあんな事を聞かされるとは思ってもいなかった…」と早川が急に下を向いて黙った。
「大切なものを残してくれたのね?」美沙が期待して訊くと、
「はい。その最期の言葉で初めて父の本心を知り、私の考え方は父親譲りだと気付かされたんです」涙ぐんで声で震わせながら言った早川は
「そんな父を理解しようとせずに衝突するばかりで、私は早く家を出ることしか考えていなかったんです」こぼれ落ちた涙を拭い、その父親が言った最期の言葉を噛みしめるように話して聞かせた。
その言葉はこうだった。
新たな命が生きられるようにする為に、50歳でヘヴンへ行かねばならないことは誰もが知っている。
しかし、その新たな命は全ての生命でなければならないと考える人は少ない。
私達はこの世界が様々な命で創られていることを知りながら、自分達だけが長く生きることを追求し、この地球を人で溢れさせてしまった。
人間が不自然に長生きする代わりに他の全ての命を短くしてしまったことを、今は誰も気付こうとしない。
生命のアンバランスを元に戻すには、誰もが変身術など必要としない強さを持たねばならないのだ。
人間が死を受け入れる強さを持って初めて、私達はすべての生命と共に生きられるようになる。
あらゆる生命の未来が人間の生き方に委ねられていることを私達は決して忘れてはならない。
「……………」言葉を失った美沙が何も言えずにいると、
「今更もう遅いけど、そんな父を尊敬しています」早川は涙を拭いて微笑み、「人々が変身術ぜずに死を受け入れ、様々な命が共存できる世界になるようポエムを通じて訴えていこうと決めました!」と早川は自らの決意について語った。
その父の最期の言葉は、隆の変身を望んだことを罪だとする判決文のように美沙の耳に響いていた。
そして、早川が表明した決意はネコになるための協力を頼もうと思っていた美沙に『拒絶』の二文字を突き付けたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
11月の中頃になってもまだ、自身の変身術について打ち明けられない美沙の元へ突然、早川がやって来た。
玄関に立ち尽くしたまま、すすり泣く早川に驚いて、
「どうしたの、トシちゃん?」美沙が訊くと、
「年齢の事なんて…、全然、考えていなかった…」大粒の涙を流しながらそう言い、さらに激しく泣き始めた。
その言葉を聞いた美沙はそれが自分のヘヴン行きの事だと判った。
「そう、もうすぐよ」美沙は早川を落ち着かせようとして静かな声で告げる。
その声で泣くのを止めた早川は
「美沙さんが若く見えるから、まだ先の事だと勝手に思い込んでいたんです…」と下を向いた。
「いつ話そうかと私も考えていたところよ」美沙が言うと、
「ずっと一緒にいられると思っていたのに…、美沙さんがいなくなるなんて…」早川はこれまでにないほどの落胆して見せた。
「じゃあ、今から話すわ」美沙がそう言ってリビングへ向かって歩き出すと、
「…はい」早川も覚悟を決めたように答えて後を追う。
ソファに腰掛けた美沙が姿勢を正して深呼吸をすると、隣に座る早川も背筋を伸ばして次の言葉を待った。




