第4話
書斎の椅子で手にしたリーフレットを感慨深げに見詰めていた隆は、徐に深いグリーンの表紙をめくった。
開かれたページにはペットとしてポピュラーな犬や猫の写真が大きく印刷され、イルカやアザラシなど海に生きる動物達のものが下の方に小さくある。
ページをめくると犬と猫が見開きで左右に分かれ、その種類ごとの写真と変身に掛かる費用が仮想通貨の『dgt.(ディジット)』で示されていた。
1dgt.を現在のレートの100円で計算するとトイプードルの写真の下にある20万dgt.は2000万円となる。
その金額は一般的な年収の4倍程で誰にでも手の届くものではなかった。
犬の種類ではゴールデン・レトリバーが15万dgt.、つまり1500万円と最も安く、大きい動物ほど手術が容易なのだとその理由も書かれていた。
一方の猫は犬より身体が小さいせいか20万dgt.以下のものは無く、アメリカン・ショートヘアは25万dgt.、2500万円掛かることになっている。
隆はその数字を見詰めながら1年前の美沙とのやり取りと、その後オーストラリアで体験した出来事を夢で見た事のように思い返していた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ねえ、隆。どうするの?」
「まさか、ヘヴンに行こうとは考えてないわよね?」
「プロポーズの時、私より長生きすると誓ってくれたでしょ!」
美沙は書斎の入口に立ったまま、何故か責めるような口調で続けて言った。
「そうだけど、非国民になるんだと思うと気が引けるなぁ…」隆がリーフレットを見つめながら煮え切らずにいると、
「私を1人にはしないと約束してくれたじゃない──!」と大きな声で言い、隆のデスクまで飛ぶようにしてやって来る。
「…お金のある人はみんなやってるし捕まりもしないんだから、許されているのと同じよ…」美沙は冷静に説得しようと思ったのか、別の椅子を引き寄せながら静かな声になって続けた。
隆がとなりに座った美沙の顔を見て、
「結婚した時は誰でも110歳まで生きるのが当り前だったのに、その命を50歳で終えなければならない法律が出来てしまうなんて…」残念そうに呟くと、
「わたし…、どんな姿でもいいからずっとそばにいて欲しいの…」今にも泣きだしそうな表情の美沙がそう言って下を向いた。
「………君を1人にはしないという約束を、破る訳にはいかないな!」しばらくの間、何も言わずに迷っていた隆が決心したように告げると、
「だったら…、かわいいネコに変身して!」美沙はすぐに嬉しそうな顔を上げ、少し遠慮しながら言う。
「うん、僕も変身するならネコがイイと思っていたんだ。大好きだしね!」隆はリーフレットにある、アメリカン・ショートヘアの写真を指差して微笑んだ。
その笑顔でようやくホッと出来た美沙は
「良かった…。ヘヴンへ行きたいなんて言ったらどうしようかと、ずっと心配だったの…」と小さなため息をついた後、「ネコになっても人の言葉は分かるし、隆が言いたいことは翻訳機を使えば理解できるとここに書いてあるわ。これなら、今までと同じように暮らせるわね!」隆の顔を見詰めて告げ、「困った時は何でも相談もできるし、2人でいれば寂しくない。楽しみだって、きっと分かち合えるわ!」とようやくいつもの笑みを取り戻した。
隆は食糧難が悪化している中でもし自分が変身しなければ、12歳年下の美沙はヘヴンへ行くまでの長い年月を1人で生きて行くことになってしまうと心配していた。
だから、「どんな姿でもいいからずっとそばにいて欲しい」という言葉は変身を決断するのに十分だったのだ。
しかし、そう覚悟を決めたと同時に想像すら難しい、ネコとして生きることへの大きな不安が隆の心の内で芽生えていた。
それから1ヶ月経ったある日、隆と美沙はリーフレットにある変身術の申し込みをするためにオーストラリアへ向かう飛行機の中にいた。
日本人が沢山乗り合わせているのか、2人の周りでは家族連れやカップルが日本語で会話をしている。
隆の隣にも夫が40代後半くらいに見える、仲の良さそうな夫婦が座席に着いていた。
意識しなくとも耳に入ってくる2人の会話を聞いていると、今時にしては珍しくドローンタクシーすら乗った事がないようだった。
もちろん飛行機に乗るのも今日が初めてで、出発まで時間があるにも関わらずシートベルトをしっかり締め、緊張した面持ちで前方の大きな窓から見える離陸場を見つめている。
現代の旅客機はコンプリートプレーンと呼ばれ、パイロットが飛行ルートを入力するだけで離陸から着陸までの全てを人口知能が行なうタイプになった。
だからどんな悪天候の中を飛んでも一切揺れを感じることはなく、垂直に行われる離着陸は上昇か下降か判らないほど滑らかな為、ベルト着用のアナウンスもない。
隆は何の為にシートベルトが付けられているのかずっと疑問を持っていたが、隣の光景を目の当たりにしてようやくその答えがわかった気がした。
妻をリラックスさせようとしているのか、夫が面白い話題を探しては冗談を言うのだが自分も緊張しているせいでその声が大きく、他の乗客にも彼らの話がまる聞こえだろうと隆は思った。
そうして耳に入ってくる会話からわかったのは、この旅行がもうすぐヘヴンに行く夫との思い出作りなのだということだった。
その仲睦まじいやり取りを見ているうちに2人には子供がなく、夫亡き後は1人きりで寂しい日々を過ごさなねばならないのだと思えてきた。
少し年下に見えるその妻がヘヴン行きになるまでの数年間、楽しかったこの旅行の記憶を支えに生きていくのだと隆は想像し、自分がこれから実行しようとしている事に罪の意識を感じずにはいられなかった。
後ろめたさから顔を背けると、こちらの複雑な心境などお構いなしの美沙が、座席の前に備え付けられたスクリーンで遊べる昔のテレビゲームに夢中だ。
その無邪気な横顔が美沙を支える為に変身するのだという事を隆に思い出させ、罪悪感で重さを増していた心を軽くした。
隆は古風な形のタブレット端末を取り出すと、ある旅行会社のサイトにアクセスする。
ゴーグル式か網膜投影式の眼鏡型コンピューターが一般的となった今はタブレット型を殆ど目にしなくなったが、絵を描くのが趣味の人などは未だにその古いスタイルを好み、隆もその内の1人だった。
サイトが開いて記入欄が表示されると、デジタルペンを使って日付や滞在するホテル名、それぞれの場所への到着時刻を書き込んでいく。
全てを記入し終え、送信前に内容を確認していると、
「向こうに着いたら何か美味しいものを食べたいわね!」いつの間にかゲームを終えていた美沙に肩を叩かれる。
不意を突かれて少し驚きながらも送信ボタンを押した隆は
「今すべての予定を送ったから、どこかでコンタクトしてくる筈だ」ウインクしながら他人に聞かれないよう小さな声で告げた。
誰でも『50歳のメタモルフォーゼ(=変身)』と題されたリーフレットを読めば、変身術が世界各地に支店を持つ『GCNL株式会社』という名の企業によって提供されていることと、アジア地域では日本とオーストラリアにその支店があることがわかる。
世界中にあるどの支店でも変身術を申し込めると書かれていた為、隆は日本ではなくオーストラリアにある支店をその地に選んだ。
その後変身する動物はネコに決定し、種類はアメリカン・ショートヘアとした所までは順調だったが、具体的な申し込み方法についてはリーフレットの何処を見ても一切書かれていない。
変身が違法行為だから仕方ないのかも知れないが、会社の所在地や連絡先といった情報が何もなくどうすれば変身に辿り着けるのか分からずにそこで行き詰ってしまう。
リーフレットをくれた知人に申込み方法を聞いておくべきだったと思いながら各ページを何度も見直したが、やはり手掛かりのようなものはどこにもなかった。
半分諦めて放り投げたリーフレットが裏表紙を見せてデスクへ着地すると、真ん中に金色の細い線があることに初めて気が付いた。
再び手に取ってみると線は印刷が悪いのか輪郭がギザギザしている。
隆はしばらく何かを考えていたが思い付いたようにした後、デスクからマクロ写真を撮る時に使っている宝石用ルーペを取り出した。
30倍のルーペで観察してみると、ギザギザの線はマイクロ文字のメールアドレスだった。
それがアドレスだと判明しても何の為のものかわからないのでは迂闊な内容のメールは送れず、隆は数日間考えた挙句に『オーストラリアでの申し込みを希望します』とだけ書いて送信してみることにした。
すると次の日、2つの条件が書かれた短い返信があった。
一つ目の条件は7日以上の長さでオーストラリア内を旅行することで、もう一つは旅行会社のサイトからスケジュールを送信するというものだった。
メールの最後には『条件さえ満たしていれば、どこかでコンタクトします』という一文も添えられている。
7日以上という日数の制約があるだけでオーストラリア内なら何処を旅しても良いらしく、それが秘密裏に行われている変身術に繋がっているとすぐには信じられなかった。
そのメールに返信して具体的な申込方法について確認したかったが、あれこれ訊ねることで警察の捜査か何かだと疑念を持たれたら困るので、指示された通りにオーストラリアを旅行することにしたのだった。




