第36話
それから1ヶ月間、何事もなく平穏に暮らしていた隆は自身の心と身体の変化について日々思いを巡らせていた。
そのきっかけはクロトラから聞いた話で、ネコの動物的な直感やテレパシーのようなコミュニケーション能力によって元々持っていた超能力がさらに強化されたということだった。
隆も変身後は徐々に考え方がドライになっていき、動揺や感動などの感情が鈍くなるに従って反対に直感は鋭くなり、それと同時に行動力も上がっていくのを感じていた。
思考と行動の両方が徐々にネコ化していきながら、その2つのバランスが悪い時は精神が安定せずに苦しんだりもした。
そうなった理由がクロトラの強化された超能力と同じ様にネコの脳が活発に働いているからだとすれば、ネコ化して以降の経験はそちらの脳に記憶されている可能性もあるのではと気付く。
動物も人と同じように日々の出来事を経験として記憶している筈で、ならば美沙との日常がネコの脳に刻まれていても不思議ではなく、実際にそんな感覚が隆にはあった。
どの時点から記憶されているのかわからないが、かなりネコ化してから聞いた美沙の変身ついてはネコの脳に刻まれている可能性が高い。
修一が話してくれた通り電磁パルスが人間の脳との連携を断ち切るだけのものなら、ネコの脳に記憶されている美沙との思い出は失わず、再会の約束も果たせるという事になるのだ。
変身術の説明で動物の脳を殆ど残しておく理由がネコの生態を保ったまま生きられるようにする為だと隆は聞いていた。
つまりネコとして起き、食べて寝る毎日なら生活の大部分を動物の脳によって生きていることになる筈で、ならば変身動物は皆、隆と同じように日々の経験を記憶として動物の脳に蓄えていてもおかしくない。
もしその考えが正しければ、変身ネコが電磁パルスを受けても人間の記憶を消されるだけでクロトラが想像するように『本来のネコに戻る』ということにはならない。
そう思った次の瞬間、それこそが最も恐れていた事だと気付き、隆の背筋に冷たいものが走った。
隆とは違い、倉庫にいるクロトラや変身ネコ達の脳に刻まれているのは野良になってからの辛い記憶ばかりだ。
生きる支えとなっている人間だった時の楽しい記憶を電磁パルスによって奪われてしまったら、ネコの脳に残された辛い記憶だけでその後を暮らして行かねばならないのだ。
ただでさえ過酷なクロトラ達の生活をさらに辛いものへ変えてしまうパルス照射は何としても防がねばと思った隆は、取り締まりに関する情報を得る為に修一と由美子に会う事を決め、美沙に2人への連絡を頼んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「どうぞ、入って…」美沙が緊張の面持ちで出迎えると、
「何かあったの? 美沙、元気が無いようだけど…」由美子が心配そうに言い、
「突然、大事な話があるって何?」修一も戸惑いを隠さずに訊ねる。
いつもならすぐに靴を脱いで上がる2人が玄関に立ったまま、俯き加減の美沙を見詰めた。
「うん…あの…、今日は書斎で…」呟くように美沙が答えると、
「チビちゃん、どうかしたの!?」心配になった由美子が慌てて靴を脱いで書斎へ向かう。
「チビ、具合でも悪いの?」と修一も急いで由美子の後を追った。
書斎の中では隆が椅子の上に座り、2人が来るのを待っていた。
「あら、いつも通りで元気そうじゃない! じゃあ…何なの美沙?」書斎の中を覗いた由美子がホッとして振り返ると、
「そうじゃないの…。でも、驚かないでね…。今から全てを見せるから…」硬い表情のまま、美沙がその視線を隆に向ける。
「修一、由美子…隆だよ。今まで騙していてごめん…、本当に済まない…」
隆が落ち着いた口調で言い、その頭を下げた。
「!!!……………」
「!!!……………」
2人は大きく見開いた目で互いの顔を見合わせた後、唖然とした表情のまま視線を隆へ戻す。
「こういう事なの。今まで隠していてごめんなさい」美沙はそう言って頭を下げ、そのままじっとしている。
修一と由美子はしばらくの間、何も言わずに隆と美沙を代わる代わる見ていたが、
「怒って嫌いになってもイイ、だから最後まで話を聞いて欲しいんだ。僕はもうすぐここからいなくなる。最後のお願いだと思って話を聞いてくれないか?」隆が静かな声でそう言うと、由美子が泣き出した。
「どうして?、美沙。どうしてなの?」涙を流しながら同じ言葉を繰り返し、頭を下げたままの美沙を責めるような目でじっと見詰める。
一方の修一は唇を噛んだまま黙っていた。
「僕達の事をわかってくれとは言わない、違法だと知っているから…」隆が再び口を開くと、
「ずるいよタカさん! ヘヴンに行くって言ってたじゃないか!!」修一がその怒りをぶつけるように大きな声で言う。
「……………」隆は何も言えなくなってしまった。
「裏切りだよ…タカさん…」修一が拳で何度も自分の膝を叩いて悔しがると、
「ゆるして。どうしても私には支えが…、隆が必要だったの…」美沙はその場で泣き崩れた。
「僕の両親も…、母を早くに亡くした由美子が…ずっと頼りにしてた父親だってヘヴンに行ったのに…。誰だってヘヴンに行くのに…」と修一が絞り出すように告げると、
「タカさんが、ネコになっていたなんて…」由美子も下を向いてそう呟いた。
しばらくの間、誰も何も言わずに沈黙が続いたが、
「…でも、その支えがあったから…、今の美沙があるのね…」由美子は何かを振り切るように言ってその顔を上げ、「タカさんの最後の頼み、私は話を聞くわ」そう言うと慰めるように修一の背中をそっと撫でる。
「許しはしないけど、僕も話を聞くよ」修一もその顔を上げた。
美沙が2人の方を向いて椅子の横に立ち、隆が変身した日から今日までの事を詳しく話した。
全てを話し終えた隆は新しい取り締まりが始まる前に家を出てもう2度と戻らないつもりだと明かし、2人に別れを告げる。
「最後まで聞いてくれてありがとう。そして、人間でいた頃の楽しい思い出をありがとう。その記憶のお陰で野良になっても生きていかれる…」そう言った後、「僕の事は恨んでも、嫌いになっても構わない。だから、美沙を許して欲しい。この通りお願いします」と隆は頭を下げた。
長い間、誰も何も言わなかったが
「分かったわ…。私は美沙を許す…」由美子が美沙を見てそう言うと、
「僕は分からない。今はまだ答えられない…」修一は苦しそうにした。
「それで十分です…」と美沙が下を向いたまま静かに言うと、
「ここを出て、もう戻らないというのは美沙が罪に問われる事を心配して? タカさんは取り締まりのパルス照射を覚悟して家を出るという事なの?」修一が頭を下げたままの隆にその答えを急かした。
隆は顔を上げると、
「その通りだよ。美沙を守るためには仕方ない…」修一の目を見つめて言った。
「人間の記憶を失ってしまうんだよ。美沙との大切な思い出も全て無くなってしまうんだよ、それでもイイの?」修一が複雑な表情で再び訊ねると、
「残念だけど、君達2人との思い出も…」隆がそう続ける。
「その開発に僕が関わっていたなんて…」修一は悔しそうに呟いた後、「もう、帰ってもいいですか…」と言い残して静かに出て行った。
「私まで取り締まりに関係している仕事をしていたなんて…」修一が出ていった玄関の方へ顔を向けたまま、由美子は自分の運命を呪ったが「たとえタカさんがネコになったと知っていても同じ、それが仕事なんだから…」と何かを振り切るように言った。
「そうよ、由美子と修一は何も悪くない。2人共、立派に仕事をしているわ」顔を横に振りながらすぐに美沙が応えると、
「この情報が役に立つかどうか分からないけど…」由美子はそう前置きをして、無音ドローンのスペックについて話し始めた。
全て話し終えると、
「私が知っているのはここまで…、ごめんなさい」俯いたままそう言い、「じゃ…、美沙…」と歯切れ悪く別れを告げて帰っていった。
その由美子の情報によると無音ドローンの飛行速度は時速800キロ、一般的なものと大差ないが特にホヴァリング時の安定性で優れている様だった。
また、その飛行音は人間が聞きとれない周波数になっているだけでネコの耳なら音を感じられるかも知れないという事だった。
隆と美沙は由美子が帰った時の姿勢のまましばらく無言でいた。
2人を大きく失望させてしまった隆の心には打ち明けた事に対する後悔のようなものが少し残ったが、次第に変身ネコ達を守る為には仕方ないと割り切れるようになっていった。
美沙も複雑な心境ではあったが、2人を騙していることで心の中に出来てしまったしこりが消えていくように感じ、告白した事を悔やんではいなかった。




