第152話 中華退行計画
布団が敷きつけられた部屋の中には、
灯花の柔らかな灯りに照らされ、十四人の影が静かに揺れていた。
少し開いた窓からは、心地よい風がゆるやかに流れ、
頬を撫で、温泉の湯で火照った体を冷やしてくれた。
部屋の真ん中には芳美が座り、
私は思いがけない話を聞いた余韻からか、
芳美の膝の上に頭を載せて、横になっていた。
そんな私と芳美を灯花庵の十二煦は取り囲み、
静かに芳美が話を始めるのを待っていた。
一方の私は、虚ろな意識の中、
じっとして前に座る沙良の夜着の桃色の花と、
何となく透けて見える膝を見つめていた。
「さて、どこから話しましょうか……。
これはね、今から九百年前のお話」
琴葉が静かに頷き、口を開いた。
「ローマの離れ孤島──アクエス島のお話だね」
芳美はにっこりと微笑み、頷いた。
「美優から聞いているのね。
でも、今から話す物語は、私たちの子には伝えていない物語よ」
さっきまで心地よかった風が、いつの間にか冷たく感じられた。
「碧衣ちゃん、戸を閉めてもらえるかしら」
碧衣は無言で立ち上がり、そっと戸を閉める。
――ゴトッ。
静まり返った部屋に、その音だけが響いた。
「女神の子たちは知っているけれど、
アクエス島は二柱の女神を信仰する島だったの」
沙良が真剣な表情で言葉を継ぐ。
「月と弓の女神アルテミス。そして、竈の女神ヘスティア」
私は膝枕のまま、母の瞳を見つめた。
灯花の炎がその瞳の片隅で揺れている。
「そう。二柱は天界ではとても仲が良くて、
婚姻関係にあり、その当時は子もいたのよ。
でも、地上界のアクエス島では、関係は芳しくなかったわ」
曹英が驚いたように眉を上げる。
「同じギリシャの女神同士なのに……?」
芳美は少し困ったように首を振った。
「アルテミス神殿の神官庁が、元凶の種だったの。
私たち女神にはその名も記憶も残っているけれど、
人の子からは、その名も記憶も消されているわ」
誰かが小さく呟く。
「断絶神カレンドール……華蓮様ですね」
私はふと、この頃の華蓮は大鎌を担いでいたのかしら、と想像する。
そう思うと、自然と頬がゆるんだ。
そんな私の頭を優しく撫でながら、芳美は続きを語り続ける。
「そう、華蓮が神官長の魂を断絶したの。
でも、それ以前からこの神官長はローマ本殿へ戻る予定だった。
そして──アルテミス神殿アクエス支部の新たな神官長に、
テミスが就任したのよ」
「えっ……お母さんが?」
沙良の驚きに、芳美は静かに頷いた。
「私とあなたのお母さん、理沙──テミスは、
天界では姉妹なの。私たちはティタン神族に属しているのよ」
燈柚が小さく呟く。
「父は天空神ウラノス様、母は大地の女神ガイア様。
天地を司る夫婦……そして子は、
光の女神テイア様と、秩序の女神テミス様」
テイアは燈柚に静かに視線を送り、
燈柚ははっとして口元に手を当てた。
芳美はそんな彼女に優しい微笑みを向ける。
「燈柚ちゃんは智遊祭で、灯花庵の頭脳として頑張っていたわね」
声をかけられた燈柚は、頬を朱に染めた。
芳美はその様子に微笑み、話を続ける。
「実は、人の子の神話には残っていない女神が一柱いるの。
ある禁忌を犯し、人の記憶から抹消された女神──」
私は無意識に口を開いていた。
「澪さん……いえ、創造神ミレイア」
芳美は私を見つめ、ゆっくりと頷く。
「星愛も七代目になると、赤い瞳の力が強まるのね。
意識の深淵で情報が活性化している……。
そう、大地の女神ガイアと母なる女神レアの間に生まれた、
創造神ミレイア」
曹英の目が泳ぎ始めた。
「え、え、え……大地の女神ガイア様と母なる女神レア様は親子。
女神同士、親子同士でも子をなせる……。
ふ、不思議な……神様の世界……」
沙良が慌てて曹英の肩を揺さぶる。
「曹英!しっかりしなさい。
私たちだって似たようなものよ。同じ人を好きになり──」
(ん?最後に何か言ったような……まあいいか)
部屋の空気が少し乱れたその瞬間、
華蓮と絵蓮が静かに姿を現した。
「あら、皆さんごきげんよう」
華蓮の一言に、部屋の空気がすっと張りつめた。
その静かな変化は、彼女への深い信頼を物語っているようだった。
その時、私の奥底で何かが囁いた。
((人の子とて、転生という名を借りて性を変え、名を変え、
同じことをしている。驚くことでもない))
自分の心の深淵から響いたその声に、私ははっとした。
華蓮と絵蓮が細めた目でこちらを見つめ、華蓮が心話を送ってくる。
――今のは、あなたの本心かしら?
(いえ……もっと深いところから、声がした気がしました)
華蓮は絵蓮と芳美に目配せし、三人は静かに頷き合った。
芳美は柔らかく微笑み、曹英へ視線を向ける。
「驚くわよね。神の世界は本当に入り乱れているの。
例えばゼウスの第一妃は妃良、第二妃は理沙」
碧衣と沙良は顔を見合わせ、複雑な表情を浮かべた。
芳美はそんな二人に微笑み、話を続ける。
「創造神ミレイアの話だったわね。
彼女は人の子に転生し、ミオとして、
この時代に美優の子として現れたの」
琴葉は知っているのか知らないのか、静かに耳を傾けている。
「人の子であっても、奥底に創造神の神核を宿すミオ。
アクエス島に与えた影響は大きかった。
コロシアム建設、上下水道の整備……。
それらを、まだ神学校に通う幼い子が成し遂げたの。
その勢いはローマ本土を遥かに超えていたわ」
碧衣が頷き、言葉を添える。
「灯花……オリーブ油灯もそうですね」
芳美は優しく頷き、次の言葉を口にするときには表情を引き締めた。
「そして、ある神に届いてしまったの。
この島は発展しすぎて不安だ──という無意識の思いが。
破壊神ヘスティアに届いたと、私たち夢咲の女神は考えている」
部屋は静まり返り、皆が芳美の言葉に耳を傾けた。
華蓮はじっと私を見つめている。
不思議と、私は穏やかな気持ちになっていた。
「そして、事は起きました。
炎月星紡ぎの舞──星愛と沙良は舞えるわよね。
不思議に思わない? どうして舞えるのか」
私と沙良は視線を交わし、
沙良は静かに首を振り、私は首を傾げた。
「話には聞いていると思うけれど、
この舞が初めて奉納されたのはヘスティア神殿への『炎の奉納舞』。
四代目のティアとサラが十二歳の時だったの」
胸の奥が熱くなり、沙良を見ると、
彼女も胸に手を当て、俯いていた。
「不思議なことにね、それ以降、
私と理沙が産む人の子は──
炎月星紡ぎの舞を教えなくても舞えるようになったの」
芳美は懐かしむように、部屋の隅で揺れる灯花を見つめた。
「私たち女神も、天界のヘスティアとアルテミスのように、
アクエス島の両神殿が良い関係を築いてほしいと願っていた」
十二煦は静かに頷き、続きを待つ。
「コロシアムで行われた奉納舞は成功に終わったわ。
最後にヘスティア神殿旧館長の悪足掻きはあったけれど……
所詮、華蓮の掌の上で踊らされた人形。
その魂は断絶された」
華蓮を見ると、つまらない過去を思い出したのか、
口角を上げて忍び笑いを浮かべていた。
芳美は私をそっと座らせ、子どものように抱き寄せて続ける。
「それから一年半。皆が十四歳の春に、事は起きた。
アクエス島での功績を評価され、ミオはローマに技師として招かれた。
十四歳の女の子がよ……異例中の異例だったわ」
年齢の近い燈柚は羨望の眼差しを向ける。
芳美はその視線に気づき、にっこり微笑んだ。
「ヘスティア神殿とアルテミス神殿は統合され、
二つの神殿の象徴であるティアとサラも、
巫女として修練を積むことになっていたの」
私と沙良は目を合わせ、頬を赤らめて微笑み合う。
その様子を、曹英と亜亥が羨ましそうに見つめていた。
芳美は少し困った顔をしたが、すぐに表情を引き締めた。
「ローマへ旅立つミオを見送るため、皆が港に集まった。
その時──船の上で羽を休める水鳥の数が異常に多く、
水位が極端に下がり始めていた。
本当なら、この時に気づくべきだったの」
(あれ……お母さんの声、少し寂しげ)
芳美の顔を覗くと、悲しみを湛えた表情をしていた。
「船が出航し、小さくなり、やがて見えなくなった時──
海が壁のように迫り上がり、巨大な波となって
アクエス島を飲み込んだ。
そして追い打ちをかけるように火山が大噴火した。
島にいた者も、島の文化も……すべてを呑み込み、連れ去った」
寝室には、重く圧し掛かるような静寂が満ちていた。
けれど不思議と、その重さは私にはあまり響かなかった。
すっと冷たい風が吹き込み、入口の戸へ視線を向けると、
女神たちが静かに部屋へ入ってくる。
妃良が芳美に視線を送り、芳美は静かに頷いた。
女神たちが奥に座ると、私たちも自然と体を向けて座り直し、
気づけば輪を描くような形になっていた。
妃良が真剣な眼差しで口を開く。
「私たち夢咲は、女神の地上界の拠点として
浮島夢咲に尽力してきました。
しかし今、新たな問題に直面しています」
斯音が静かに頭を下げ、発言の許可を求める。
妃良はゆっくりと頷いた。
「この中華の土地も、浮島夢咲の建設に合わせて
発展しすぎてしまった……ということでしょうか」
妃良は静かに頷き、続けた。
「モノレールをはじめ、超電導技術、ナノテクノロジー……
さまざまな最先端技術を至るところで使用しています」
沙良が腕を組み、口を開く。
「澪様が言っていました。
この技術は二千年以上先のもの。
今の時代にはそぐわない、と」
曹英は片手を肘に添え、もう片方の指をこめかみに当て、
慎重に言葉を選んだ。
「先端技術が……華蓮様の言う歴史の支柱を脅かす存在に。
つまり、アクエス島と同じことが起きるというのですか」
妃良は大きく頷いた。
先ほど語られたアクエス島の悲劇が脳裏をよぎる。
(そんなこと……あってはいけない)
私は心の中で強く呟き、妃良の次の言葉を待った。
「私たちが考える、この危機を避ける方法は──ひとつです」
皆が妃良に期待の眼差しを向ける。
妃良は全員を見回し、断言するように言った。
「文明の退化です」
夢咲の女神たちは静かに頷き、
私たちは思わず互いの顔を見合わせた。
(せっかく育ててきた夢咲の街を……捨てろというの)
私は体を起こし、妃良を見つめた。
(妃良様……前より威圧感がない。十七歳の姿だから?
違う……私が覚醒してきているからだ)
「妃良様。私たちは自分たちを信じて、
そして夢咲から提供される技術を信じて、
ともに歩む気持ちで、この中華という大地を開拓してきました」
妃良は静かに頷いた。
「星愛、あなたの言いたいことは分かります。
でも、このままでは必ず後悔する日が来ます。
浮島夢咲を建設した目的は、この地上を見守ること。
いずれ私たちがこの地を去る時──誰がこの地を守るのですか」
華蓮が私を見つめ、妃良の言葉を継ぐ。
「ここにいる聖女の孫尚香、貂蝉、黄月英は
浮島夢咲と共に去りますわ。
澪は数百年はこの地を踏まない。
そして、人の子である星愛をはじめとした特殊能力者は、
寿命と共に魂を返すだけ。
……誰がこの技術を引き継ぐと思っているのかしら」
私は言葉を失い、俯いた。
芳美がそっと肩に手を回し、抱き寄せてくれる。
華蓮の声は、さらに静かに続いた。
「きっと、あなたは寿命が見えたときに気づきますわ。
発展させても継承できなかったことに。
自分がしたことは、ただの自己満足だったのだと。
そして──やり直したいと願うようになりますのよ」
私は華蓮の言葉を反芻した。
「やり直したい……。
まるで、アクエス島は四代目のティアが滅ぼしたと言うのですか」
芳美が私の顔を胸に押し当て、囁くように言う。
「これは夢咲の女神全員の総意なのよ。
あなたは破壊神ヘスティアに最も近い存在。
あなたが気づかない胸の奥で“やり直したい”と思うだけで、
この国は滅びる。
一欠けらの魂すら残さず、徹底的にね」
夢咲の九女神は真剣な眼差しを向け、
灯花庵の十二煦は驚きを隠せずにいた。
((どうしたの、みんな……そんな大変なことかしら。
神は滅びないし、人の子の魂は転生する。
永遠に繰り返される、退屈な無限の時間。
その一瞬にも満たない出来事なのに))
自分の内側から響いた声に、私ははっとして首を振った。
華蓮が諭すように心話を送ってくる。
――わかったかしら。
断絶神である私は、人の魂も神の神核も同じ。
消えて歴史から抹消されても、何とも思わない。
断末魔さえ心地よいわ。
芳美に抱きしめられながら、私は華蓮を見つめた。
――他から見れば酷かろうと、気にならない。
それが私。そしてヘスティアも同じ。
何人魂が帰依しようが関係ない。
歴史の支柱を守れれば、それで良いの。
あなたもヘスティアの影響を強く受けているから、
アクエス島の話も今の話も動揺しないのでしょう。
私は芳美に視線を移し、尋ねた。
「お母さん……私、どうしたらいいの?」
芳美は私の頭を撫で、優しく答えた。
「まずは漢中の平定を見届けて、
それから自分の足で中華の土地を見分しなさい。
そして、漢中から今まで開発してきた土地を、
この中華に合った形に作り直すの。
この先、人の子だけで発展できるようにね」
私は素直に頷いた。
その様子を見て、妃良は灯花庵の十二煦に声をかける。
「皆さんがこうして集まったのは偶然ではありません。
必然です。
皆が星愛を慕い、ここに集まった。
星愛が寿命を迎えるまで、しっかり見守ってください」
(えっ……優しい顔で、妃良様ったらすごいこと言うわね。
私と死ぬまで一緒にいろって……誰も返事なんて──)
皆の顔を見ると、全員が妃良を真剣に見つめ、
静かに頭を下げていた。
(えっ……嘘でしょ……どうして……)
胸の奥がきゅっと締まり、目頭が熱くなる。
こうして──静かに、中華退行計画が始まった。




