第153話 灯花庵の夜、星は動き出す
―二百十八年(建安二十三年)三月末 灯花庵―
山々を覆っていた雪は三月に入りようやく解け始めていた。
だが今日降った雪が、山肌を見せていた玄迷原を再び白銀の世界へと戻していた。
琴葉が目を閉じ、肩にお湯をかけながら気持ちよさそうに息を漏らす。
「はあ、久しぶりの灯花庵の湯は気持ちいいねぇ」
私はお湯をかき分けるように歩き、そっと琴葉の横に腰を下ろした。
「そうね。でも、まさか雪搔きをするなんて……
もう降らないと思っていたから驚いたわよね」
琴葉は肩に手を当て、ぐるぐる回しながら微笑む。
「いやー、ほんと。肩の筋肉が張っちゃって、今日は疲れたわよね」
こつん――。
後ろから琴葉の頭を軽く叩く音がし、私と琴葉は振り返った。
曹英が苦笑いを浮かべて立っていた。
「もう琴葉ったら。
まるで雪搔きを頑張ったみたいな口調だけど、
肩が張ってるのは雪合戦で騒いでたからでしょ!」
琴葉は舌を出してニッコリ笑い、曹英に向けていた視線をゆっくりと下へ。
「それにしても、曹英の胸……成長しすぎだと思うな。
同じもの食べてるのに不思議ですねー」
しみじみと曹英の胸を見つめる琴葉。
つられて私も見てしまい、そっと胸の前で腕を組んだ。
(大丈夫……私は追いついていると思うわ。
きっと琴葉がお子様なのよ……)
胸を隠した曹英の顔がみるみる赤くなり、勢いよくお湯につかる。
――ザッブーン!
「もう、あなたたち何見てるのよ!」
曹英は苦笑いを浮かべ、勢いよく口までお湯に沈んだ。
――ブクブク……
あぶくを作りながら曹英は目を細め、私と琴葉をじとっと睨んでいた。
「もう、みんな何しているの」
声をかけてきたのは沙良だった。
その横で苦笑いを浮かべているのは碧衣だ。
「あなた達は相変わらず仲良しね。
四月で私たち十八になるのよ。そろそろ落ち着かないとね」
私は肩まで湯に浸かりながら近づいてくる二人を見た。
(なんか……二人とも大人になったのかしら。
冬の市から帰って、ずいぶん雰囲気が変わった気がする)
沙良が私を見て首を傾げる。
「どうしたの?私たちのことをじっと見て」
私は苦笑いを浮かべて首を振った。
「うーん……二人とも成長したなあと思っていたの」
琴葉がじとっとした目で沙良と碧衣の胸を見る。
「成長したのは胸だけですねー」
沙良と碧衣は顔を見合わせ、同時に琴葉の頬へ指を伸ばした。
右頬に沙良、左頬に碧衣。二人は頬を引っ張りながら声を揃える。
「こ・と・はー!」
(むにゅーって……琴葉の頬が伸びてるよー!
えっ、えっ、私もやりたいんですけど)
「うわー、やめてやめて!」
お湯の中でじたばたする琴葉。
そんな私たちに、湯煙の向こうから影が近づいてきた。
「もう、あなたたちったら全然成長しないわね」
声の主は扶美だった。
「でも、それが灯花庵の良いところでもありますよね」
そう言いながら、亜亥が私の横に来て、すっと腕を組んでくる。
沙良と曹英が声を上げた。
「あいーーー!はなれなさーい!」
(やれやれ……結局みんな一緒じゃない)
私がその光景を眺めていると、灯花庵の三姉妹が湯に入ってきた。
燈灯がいつもの様子を見て微笑む。
「皆さん、お早いですね」
私は「お疲れさまー」と声をかけた。
これで、私と灯花庵の十二煦が全員揃った。
冬の市から帰ってからは、こうして一日の終わりを露天風呂で過ごすのが
私たちの日課になっていた。
雪で冷やされた風が湯煙を心地よく揺らし、
眼下には灯りがともる漢中盆地が広がっていた。
私は露天風呂の北側の端に両腕を組み、その上に顎をのせた。
灯花の灯りが揺れる漢中盆地を眺めながら話す。
「十一月の冬の市に行けたのも、この雪のおかげよね」
左隣に碧衣、右隣に琴葉が来る。
十二煦の間で話し合い、この並びが一番もめごとのない配置らしい。
皆の視線も漢中盆地へ向けられた。
碧衣が静かに口を開く。
「雪のおかげで、曹操も劉備軍も動きを止めたのよね」
私は頷いた。
「冬営に入って、補給と兵站の整備が中心になったからね。
曹操は濡須口から戻って漢中の統制を強化し、
劉備軍は巴西・巴東を固めて、春の漢中攻略の準備に余念がなかったわ」
眼下では、長い灯りの列がゆっくり動き出した。
リニアモノレールが南鄭駅を出発し、定軍山へ向かって走っていく。
車窓には談笑する家族、居眠りする老人。
それぞれの物語を乗せていた。
そう、私の赤い瞳は完全に覚醒し、
様々な能力が自然と使えるようになっていた。
「平和って良いわね」
私が呟くと、沙良が少し顔を曇らせた。
「それでも、水面下では戦は進んでいたよね。
十二月には劉備軍が陽平関方面への進軍準備をしていたし、
曹操も長安周辺で軍備を固めていた」
曹英が夜空を見上げ、目を細める。
「それに、玄迷原も大変だったわよね。
冬の市から戻って開いた大会議……」
私は曹英を見る。
その瞳に流れ星が映っていた。
ふと夜空を見上げると、再び流れ星が流れる。
(今日は流星群が見られる日かしら……)
美しい夜景に目を奪われながらも、
私は大会議のことを思い出し、曹英の言葉を継いだ。
「私が皆にアクエス島の悲劇を話したとき……
みんな、信じられないという顔をしていたわよね」
(灯花庵の十二煦がいなかったら、
あの時の雰囲気に私、折れていたかもしれない……)
そんなことを思いながら皆を見て、再び口を開いた。
「みんな、退行計画には猛反対だったわよね。
龐統さんなんて、今の夢咲星環府の交渉力は
先端技術に支えられているから、
退行など愚策だって、ものすごい剣幕だった」
恬香が頷き、言葉を継ぐ。
「龐統の気持ち、よくわかります。
それに周瑜もすごい剣幕でしたね……
今の水軍力は夢咲の船があって成り立っていますから」
私は遠く、劉備軍が布陣する定軍山の麓へ視線を向けた。
篝火が煌々と燃え、兵たちは静かに立ち、
暗がりでは座る者、横になる者、それぞれが夜を過ごしている。
(こうやって兵たちは、ただ待つしかないのね……
士気を保つのも大変なことだわ)
視線を定軍山駅へ移す。
先ほど南鄭駅を出たモノレールが、ゆっくりと駅に入っていく。
居眠りしていた老人が立ち上がり、乗客たちも動き始めた。
(夢咲の技術は、もう府民の生活に溶け込んでいる……
あの老人は家族のもとへ帰るのかしら。それとも医術院?)
医術院と、その隣の薬学術研究院に目を向け、
思い出すように話した。
「やっぱり、小喬さんや貂糜さんの医術、
薬学の劉明からの抗議は相当強かったわ。
人の命が関わること、救える命も救えなくなるって……」
そう言って、私は口をつぐんだ。
(次の転生では、もっと先の時代に生まれる魂……
この時代に拘る必要があるのかしら……)
お腹の奥から自然とそんな声が漏れ、私ははっとして首を振った。
それに気づいた沙良が声をかける。
「星愛、どうしたの……大丈夫?」
私は寂しげに笑い、「大丈夫」と答え、話を続けた。
「それと、荀彧さん、魯粛さん、徐庶さんたち。
理解は示したけど、賛成はしなかったわね」
曹英が頷いて口を開く。
「初めてこの話を聞いた時の私の気持ちと同じね。
この生活が失われると思うと、不安しか残らなかった」
私は静かに曹英を見つめ、微笑んだ。
「結局、賛成していたのは、
聖女である貂蝉さん、孫尚香さん、黄月英さん、婉貞さん姉妹。
それから孫瑜さんと星蓮さんも賛成だったわね」
沙良が頷く。
「聖女である貂蝉さんたちは女神だからね……理解はあると思う。
でも、孫瑜さんと星蓮さんも賛成していたね。
人々の安寧を願う二人だからこそ、なのかもしれないね」
私は端の石に腰掛け、腰まで湯に浸かりながら皆を見た。
琴葉が何か言いかけたので、頬をつまんで引っ張る。
むにゅーと伸びる琴葉の頬が、場の空気を和らげた。
琴葉は頬を膨らませて抗議の目を向けたが、
私は構わず話を続けた。
「みんな、今は退行計画なしで漢中開発計画を進めるだけ。
そして、漢中が安定したのを見届けてから、
中華を歩き、本当の中華の姿を見る。
退行計画の策定は、その後に行うことになったわよね」
皆の目が輝き、私を見つめて頷いた。
「うーん、やっぱ大きさは曹英が上かなあ」
隣で腕を組んでいた琴葉が呟き、私は琴葉の頭に軽く拳を落とした。
コツン――
「痛いなあ」
頭を押さえ、恨めしそうに見上げる琴葉。
「あなただって、成長しているでしょ?」
「だってえ、美優お母さんみたいになりたいんだもん」
「もう、琴葉ったら……女神と張り合ってどうするの?」
「うーーーん、わかんない」
クスッ――
どこからともなく忍び笑いが聞こえ、
皆の表情が明るくなり、空気も少し軽くなった。
碧衣も私の隣の石に腰掛け、足を組んで話し始めた。
「でも、一月の凍土の土起こしは大変だったわよね。
もし星馳が無かったら、もっと人員を増やさなければ到底終わらなかったわ」
琴葉が碧衣の顔を覗き込み、尋ねた。
「碧衣の銀の鉄扇で、ちょちょいのチョイって感じでやれば簡単だったでしょ」
碧衣は私に視線を移し、首を左右に振る。
「それは駄目よ。夷陵の時にほしがた要塞を作って戻したこと、覚えている?」
私は頷き、答えた。
「ええ。あの時、いとも簡単に大きな星型の要塞ができて思ったの。
あれだけの要塞を作るとなれば数年……
もしかしたら十年以上かかると思うのに、
それを半日で一人の少女が作っちゃったんだから」
碧衣が仄かに顔を赤らめ、小さく左右に頭を振った。
私はそんな碧衣に優しく微笑む。
「碧衣の能力はすごいと思うの。
でも、碧衣が亡くなったとして、それを継承できるかというと……
華蓮様も同じことを言っていたわ」
(華蓮はあの頃から、私の赤い瞳の宿命を気にかけていたんだ。
普段すまし顔のくせして、私を導いてくれているのかしら)
――何か言ったかしら?
私たちの能力を使える代わり、あなたの心は駄々洩れでしてよ。
(か、華蓮様……ごきげんよう)
――ごきげんようって……何言わせるのかしら。
まあ、あまり変なことは思わないことね。
「ふう、油断も隙もあったものじゃないわね」
私が呟くと、沙良が心配そうに顔を覗き込んできた。
琴葉はニヤニヤと私を見ている。
「いえ、大丈夫……今、華蓮様と話していたの」
私がそう言うと、琴葉が両手を頭に回し、じとっとした目になる。
「ふーん、華蓮様に突っ込まれていたんでしょう」
胸元が丸見えの琴葉。
「あら、琴葉ちゃんもちゃんと成長しているわね」
琴葉は隠そうともせず、頬を緩めた。
「へへへ、そうですよね!私もそう思っていました」
斯音が苦笑いを浮かべながら間に入ってきた。
「もう、お二方とも胸の話はおやめください」
そう言われ、私と琴葉は見つめ合い、そして斯音に視線を移す。
「お二方とも、何なんですか」
斯音が頬を赤らめながら私たちを見返す。
再び私と琴葉は視線を合わせ、頷き合った。
そして口を揃えて言った。
「いえ、何でもありません」
(やはり、女神さまにはかなわないわね)
(ですよね、ですよね、私もそう思います)
少し俯いたあと、気を取り直して顔を上げ、話を始めた。
「そして今年に入り、曹操が動き出したわよね」
私が言うと、琴葉が頷いて言葉を継いだ。
「うん。曹操配下の耿紀と韋晃の反乱。
漢王朝を守るための反乱だよね。
ちょうど私、お茶を曹操お父さんと程昱おじさんと楽しんでいた時だよ。
美味しそうなお茶菓子を前にしている時に一報だよね。
でも、すぐに鎮圧されちゃったよ」
琴葉の話が終わるのを待って、曹英が口を開いた。
「曹兄は献帝を許都に迎え、実質的に天下を支配しているわよね。
だから、根っからの献帝派の動きが気になって動けなかった。
恐らくこれが、漢中に自ら出馬できなかった大きな理由。
……
でも、今回の二人の謀反で献帝派のあぶり出しができて、
いよいよ動けるようになったわけよね」
沙良が目を細め、静かに語り出す。
「曹操が長安入りするであろうという一報は、劉備を動かした。
二月には陽平関の守りを厚くし、武都への進出をかけて布陣を整えた。
そして、雪解けが始まった三月に動いた」
夜風が冷たく感じてきたので、私は肩までお湯に沈み、
沙良の次の言葉を待った。
「武都では曹洪が呉蘭を討ち破ったけれど、
劉備軍は陽平関を占拠した。
そして曹操がついに長安に到着し、漢中戦線の指揮を強化している。
私たちの予測通り、今年は本格的に漢中争奪戦が動き出すね」
私は大きく頷き、皆の顔を見て静かに話した。
「私たちは、漢中で行われる戦が
私たちに不利益をもたらさないように努力するだけ。
そして、私たちの戦いも準備はできている。
凍土を掘り起こし、種の選別、苗の育成……
すべて予定通り進んでいるわ。
五月には、緑一面になった漢中を灯花庵から見ることになる」
皆が私を見つめ、静かに頷いた。
いつの間にか、夜空にはいくつもの流れ星が流れ、
暗い空を静かに飾っていた。
私たちの、漢中開発という名の戦が動き出した。




