小さな歩幅で一歩ずつ
ストックはこれは終わりなんだ。
しかも年末年始は修羅場なんだ。
ベルンカルトはエレーレが召喚されれば、すぐに「『一族の姫君』がやってきた」と発表するのだが、美枝が召喚されて一週間、未だに国民は新たなエレーレが立ったことを知らない。どころか、王との正式な対面すら成っていない。
それはひとえに、美枝が寝込んでいたからだ。
「今日は顔色がいいな」
訪れたリオンの安堵した顔に、美枝は申し訳なさそうに苦笑いした。
「はい。殿下や他の方々にはご迷惑をおかけしました」
「迷惑などかけられていない……貴方が体調を崩したのは私のせいでもある」
急激な環境変化と続く衝撃に美枝の体が耐えられるわけもなく、三日は高熱を出して周囲を青ざめさせた。なんとか熱が下がっても、使い切った体力では起き上がることもできず、今日になってようやく、リオンとベッドの上以外で会話がかなった。
一週間、時には短い時間しかとれなかったが、リオンは毎日、美枝のもとに顔を出していたが、こうしてテーブルを挟み、茶を交し合うのは二度目のことだった。
「見たところ、魔力や法力に拒否反応はでていないな」
「……わたしのいた世界では御伽噺の類でしたが、魔力などは目に見えるのですか?」
当たり前に会話に出されると戸惑うが、それがこの世界の常識であるなら慣れなければいけないだろう。
現状を前向きに受け入れようとする美枝に目を細め、リオンは説明する。
「目に見えるものもあるが、それはよほど密度の高い力だった場合だけだ。そうだな、小さな光りの粒子が巡る様というのは、見るだけならば純粋に美しい。力の集まりであるわけだから、それの作用次第では、恐ろしいが。だが、先ほど言った通り、滅多に見えるものではない。大抵は独特の温度を伴った風のようなものか。
魔術師の目から見ると、ここにきた当初の貴方からなんの力も感じられなかった。魔力も法力も、なにも。現在の貴方からは、枯渇に近しいが、僅かに感じるし、今尚、貴方に向かって風がゆるく流れている」
美枝は自分の肩口を見るが、やはり何も感じない。
「貴方が分からないのも無理がない。魔術師でなければ分からない感覚だ。
しかし、もう少しすれば、貴方に治癒魔術がかけられる」
「治癒魔術ですか?」
美枝はどこにも怪我をしていないし、病気でもない。昨日まで寝込んでいたのは体質で、それはどうしようもない、と既にニルギルから言われていた。
「貴方の身体を制御と防御する、といったところか。必要以上に削られやすい体力に制御をかけ、外からの刺激に過剰反応する身体に防御をかけることで、反応を小さくする。そうすれば、今までより体調を崩すことも減るだろう」
美枝は目を丸くした。
そんなことが可能なのだろうか。可能ならば、今すぐにも施術してもらいたい。
テーブルから身を乗り出して懇願してきそうな美枝の様子に、リオンは自ら美枝のカップに茶を注ぎいれることで制止する。
「今は無理だ。翻訳とは違い、直接貴方の身体をどうこうするものだ。それをするには貴方の中の力が少ない。乾ききった大地に水を降らしても、すぐには染込まないように、ある程度、貴方の中での下準備が必要だ。それに、この術を施しても、貴方の体が改善されるわけではない。体力が削られにくいだけで、その絶対量は変わらないし、平均よりも打たれ弱い身体であることに変わりはない。
これはほんとうに匙加減の難しい術だ。痛覚がないということが、生き物にとって致命的であるように、行き過ぎれば限界を超えたことに気づかず、身体が崩壊する」
魔術も法力も、万能、ましてや全能ではないのだと、リオンは言う。
御伽噺でしかそれらを知らない美枝は、少しばかり落ち込んだものの、今までよりもずっとマシな身体になれるのだと思えば、泣きたいほどうれしかった。
やりたいことがあったわけではない。ただ、かけなくていい心配と迷惑が減ることがうれしかった。
濡れそうになる睫を隠すように、美枝はリオンが淹れてくれたお茶を飲む。ふわりと漂うやさしい香りが心地よかった。
「ミエレーレ」
未だに耳慣れない名前に、美枝は一瞬自分にかけられた言葉だと気づかなかった。はっとして顔を上げれば、リオンが苦笑いしている。
「やはり、名前が変わるのは慣れないか」
「……わたしの、名前ではないようで……」
ミエレーレ・グラナートというのが、ベルンカルトにおける美枝の名前であるらしいというのは、熱が下がった頃に教えられた。グラナートという部分に聞き覚えがある美枝が首を傾げれば、リオンの名の一部だと思い出す。どういうことかと問えば、リオンのエレーレとして召喚されたため、その後ろ盾も当然リオンなので、家名としてその名の一部がつかわれると説明された。正妃となり、行く行くは王妃となれば国名が最後につくことは伏せられたが。
美枝が自身がベルンカルトにおいて「エレーレ」という存在、立場であるという自覚はあっても、それがどういう意味を持つのか、明確な理解と受け入れをしていないことをリオンは分かっていたし、慣れぬ内から衝撃ばかりを与えては美枝が持たないことも一週間で十分悟っていたので。
「確かに、敬称が伴った名前だからな。親しい者や貴方が許した者には敬称なしで呼ばれることもあるだろうが……」
「では、殿下からそのように呼ばれても、なにも問題はございません。わたしは元々、一般家庭で育ちました。敬称というのはどうにも……」
ただの別名や通称ならまだしも、常に様付けで呼ばれているような名前は落ち着かない。
リオンは僅かに目を見開いてから、ゆっくりと唇に弧を描いた。
「貴方が、それを許してくれるのか」
「もちろんです」
どこか意味深な笑みだったが、美枝は躊躇なくうなずく。
「そうか、ではそうしよう。ならば、ミエ。貴方も私にいつまでも敬称をつけなくていい」
難題を要求された。
美枝は一般人と自分を称したが、実のところそれなりに裕福な家の娘だった。
父親は外交官。母親は一世を風靡した元女優。兄は弁護士と才能に恵まれた一家で過ごせば、いくら家から出ることがないとはいえ、自然と礼儀作法は身についていく。身体が弱いからといって、躾をしないのは、ただの育児放棄だ。家族はできる精一杯で美枝に可能性を与え続けた。
結果、美枝は無意識にアッパークラスを相手にしても、不快に思われない態度をとれるし、また、相手の身分や階級を無意識に尊重し、立てる。
世話になっていることは召喚などの特殊な背景を鑑みて、なんとか折り合いをつけているものの、茶会に誘われたとき、美枝は泣きそうになった。なんとか言葉を尽くして「王子様とお茶をいただくなんて恐れ多くて」と辞退しようとしたのだが、対人経験に乏しい美枝と、各国を相手に国を背負う王子、口車の運転技術の差は明らかだった。
その美枝に王子の名を呼び捨てにしろ、というのは無茶振りもいいところだ。
「あ、あ、わた、わたしは……」
「お願いだ、ミエ。私は王太子という身分柄、名を読んでくれるひとが殆どいない。それは、とても寂しいことだ」
リオンの懇願する口調に、美枝の顔から血の気が失せる。
「分かりました! 分かりましたから、どうかわたしにそのようなお願いなんて……ああ、いえ、わたしにお願いは不要です!」
高熱で倒れるか貧血で倒れるかの二択に走りそうな美枝の様子に、リオンは「落ち着け」と宥めた。なんとしてでも「殿下」ではなく「リオン」と呼ばせるつもりだったが、美枝の体調不良をぶり返させるつもりはない。
リオン本音を言えば、臣下のような言葉選びもどうにかしたかったのだが、ここでそれを要求すれば、間違いなく美枝は倒れるだろう。美枝の知らないハードルは、まだまだ存在する。
(それにしても、徹底した口調だ)
美枝の意識がはっきりしてから、美枝は一度も要求、命令口調をリオンにつかわない。
先ほどの「お願いなんて」に続く言葉は「しないでください」だろうが、美枝は態々言いなおした。内容がどんなものであっても、それは「するな」という命令口調である。身分が上のものに使えば、不敬に値する。
リオンが感心しているのも知らず、美枝は了承した以上はリオンを呼び捨てにしなければならないことに涙目になっていた。
(死んでいなかったら、開き直ることもできたわ)
無理やり連れて来られたのならば、この世界の規則なんて、と踏み倒すことができた。性格上難しいだろうが、気持ちの問題だ。
けれども、自分は死んでいる、という意識があって、尚且つ、無意識にリオンの言った「生まれ変わった」という言葉が刷り込まれて、この世界の常識や規則に従うよう努めてしまう。
エレーレといわれようと、聞きなれぬ身分に自分の立ち位置を元の世界と変えられない。一般人で周囲のお荷物だ。
「……り、リオン様、じゃ駄目ですか……」
これならば、名前をしっかり呼んでいる。
「……却下すれば、貴方は泣きそうだな」
声にならず、美枝はぶんぶんと首を縦に振った。これを譲歩してもらえるなら、リオンのため息だって耐えられる。
「では、今はそれでいい……いまは、な。
ん? 顔色が悪いな、美枝。ああ、茶が冷めている――茶を持て。アカシェの蜜もな」
なにか低い呟きのあとは朗らかな、短い付き合いの中でも不似合いと分かる笑みを浮かべ、リオンは控えていたメイドに新しい茶を命じた。
リオンとの茶会は、始終、美枝が半泣きの中終わった。
政務に戻るというリオンは別れ際、美枝の髪を梳いて、精巧な人形のような顔を綻ばせるという精神攻撃を美枝に仕掛けた。思わずその場から飛び上がり「ぴゃあ!」というけったいな悲鳴を上げてしまったことは、一人のメイドしかいない私室に戻っても恥ずかしくて仕方ない。
(ぴゃあって……ぴゃあはないでしょう……)
大体、美枝の周囲にいた男性は父、兄、医者だけである。男性と個人的に親しくしたことなど、幼い頃の入院生活で、ベッドの都合上、大部屋に入ったときくらいだ。大事なものを扱うように、丁寧な手つきで髪を梳かれただけでも、美枝にとっては、外国のスキンシップに慣れていない日本人がハグとビズをされたようなものだ。
「……なにか、気を紛らわしましょう」
考えても思い出しても落ち着かない。
気を紛らわすもの、と考えて、美枝が真っ先に思いついたのは読書だが、そこではた、と気づく。
美枝は、この世界の文字を知らない。
これはよくないのではないか。
自分の立場がいまいち正確に把握できていないが、王子様の宮に寝泊りしている人間が、字のひとつも分からないというのは、王子様本人、リオンにとって不利益は生んでも、決して良いことにはなりえない。
それに、死んでしまった以上、元の世界、日本に帰る可能性など零に近しい。次に死ぬまで暮らすことになりそうな国の文字も知らず、このまま生活できるわけがない。
赤くなっていた顔から一気に血が下がり、美枝は控えるメイドを勢い良く振り返る。
「あ、あの」
「御用でしょうか」
「わた、わたしに、も、文字を教えて、いただけませんか?」
笑われるだろうか、と美枝は竦んだが、メイドは「かしこまりました。教材を用意して参ります」と一礼して部屋を出て行った。
ほどなく戻ってきたメイドの手には、何冊かの本とペンが抱えられていて、美枝は慌てて受け取ろうとしたが、さり気なく制される。
「こちらの本が手習いの初等教科書、こちらがノートです。ペンは万年筆をお持ちしましたが、他に羽ペン、チョーク、これはベルンカルトでは絵に使いますが、筆などもあります。それらの方が使い慣れていらっしゃるのでしたら、お持ちしますわ」
美枝は無言で首を振った。
筆を使うことに慣れていないわけではないが、絵筆で字を書く気にはなれないし、たとえ習字筆があったとしても、この場合は万年筆を美枝は選ぶ。
「かしこまりました。
では、僭越ながら、主要文字の説明からさせていただきますので、どうぞ、おかけください。途中、入用なものがございましたら、なんなりとお申し付けください」
メイドはテーブルに教材を置くと、美枝のために椅子を引いた。
(とても、教えられる立場の人間への対応じゃないわ……)
いたせりつくせりの状況で、果たして勉強になるのか疑問に思ったが、入院生活、療養生活で一生を終わらせた美枝は、良くも悪くも「いたせりつくせり」に慣れていたので、それが多少、過保護になったとしても、落ち着かず、集中できないということはなかった。
数時間後、一定の書類を裁き終えて、休憩にはいっていたリオンの元に「エレーレの扱う文字」が報告された。
慣例として、周囲が全てとは言わないが、エレーレの召喚者である王子は、エレーレの慣習を把握する義務がある。異世界で、少しでもエレーレが不自由しないための配慮だ。
「……基本文字三種に加え、記号、数字か……」
「基本文字は二種が表音文字で、一種が象形文字です。表音文字は『ヒラガナ』『カタカナ』で、象形文字が『カンジ』です。ヒラガナとカタカナはカンジの派生で、カンジを崩して創られたそうです。それぞれ約五十音ずつあります。なお、カンジの種類は日常で使うか否かはさておき、存在するだけで十万字を遥かに越え……」
「待て、やめろ、止まれ」
十万? 十万と言ったか。
リオンは眉間の皺をほぐしながら、報告にきた文官、ユルリラを手で制す。
「存在するだけで、ということはつまり、私は最低でも百の字を覚え、且つ十万ある字の中から、時と場合により選別した文字を覚えればいいんだな?」
まさか、美枝の世界では万人が十万という字を常に使っているわけではあるまい。そうならば、ユルリラは態々「日常で……」と前置きしないはずだ。
「はい。それだけでも結構な数になると思われます。こちらがメイドが書いたベルンカルト語で、こちらはエレーレが母国語に直したものです。正直、わたくしは頭痛がしました」
提示されたのは二枚の紙。
できるだけエレーレの母国語を知るために、長文のそれをリオンは受け取って、頭を抱えた。
「ユルリラ、気のせいか? 私の目には三種類の文字と記号とが入り乱れているように見えるが」
「気のせいではございません。エレーレの母国語ではこうして文字を使い分けることが当たり前で、カンジ表記は個人のセンスで読みやすさが問われ、場合によっては縦書き、横書きと形式も変わるそうです。あと、こちらはエレーレに思いつく限りのカンジを『あいうえお順』という音順で書いていただいたものです。これの内容を踏まえた上でカンジの使い分けという課題を思い浮かべた瞬間、わたくしはこの代のエレーレの母国語を覚えるのを、放棄したくなりました」
同時に差し出された、表音文字の列にベルンカルト語で音を付け加えられた紙を見ながら、リオンはカンジ表に目を通す。
「……同じ音が多くないか?」
「カンジが違えば意味も違うそうです。エレーレの国では同音異語が多いそうですよ」
リオンは静かに受け取った紙を机に置いた。
両手を組んで天井を仰ぎ、ユルリラに問いかける。
「私は思考回路はともかく、勉学における面で頭が悪いとは思ったことはないが、改める必要があるか? 正直なところ、難解過ぎて、政務の片手間に覚えられる気がしない」
ユルリラは入室してからこれまで、鉄壁の無表情を貫いていた表情筋を困った笑みへとゆるめた。
「エレーレのいらっしゃった世界には、百九十カ国を超える国があったそうですが、その中でもニホン語、エレーレの母国語は最難言語とされていたそうです」
ちなみに、リオンのいる世界は、ベルンカルトを含めて百カ国に満たない。その内、三十カ国はそれぞれの国から独立した自治国であり、堂々と国を名乗れるのは五十カ国前後である。
言語は更に少なく、ベルンカルト語は共通言語に古語を交えたもので、少し考えながらであれば他国でも通じる。
過去のエレーレの母国語は、歴代の数だけ極秘資料として管理されているが、その代のエレーレが没すれば表に出ることはない。
「歴代の資料を参照しましたが、間違いなく歴代でも最難であると、学者が太鼓判を押しましたよ」
「…………ミエレーレは、ベルンカルト語をどの程度の速度で?」
「メイドから聞いた、ベルンカルト語を見たエレーレの感想ですが『発音は翻訳されているから不明だけれど、文法や字そのものは、英語を装飾文字にしたみたい』だそうです。エイ語というのはエレーレの世界の共通語だそうですので、飲み込みも早く、拙さやぎこちなさがあるものの、慣れてしまえば簡単な手紙をすぐに書けるようになるかと」
美枝に対して、最も理不尽を働いた人間の思うことではないが、それは別として、スタートラインの差にリオンは理不尽を感じた。
ちなみに、美枝が発音を聞き取れていたら「フランス語とドイツ語の二種に近い読みをクイーンイングリッシュ調の発音にしたみたい」と言っただろう。鼻母音のない、はっきりした発音は、美枝でも聞き取りやすかったと思われる。しかも、いまの美枝の周囲は王侯貴族とそれに仕える人間しかない。当然、発音は特権階級特有の歌うようなそれで、美しいことこの上ない。
「文字の成り立ちも面白かったですよ。先ほど、表音文字はカンジの派生といいましたが、カンジは外国から伝わったもので、それが複雑で使いにくかったから当時の貴族と聖職者が使いやすく改造したそうです」
滅茶苦茶である。
リオンはその当時の貴族と聖職者の神経を、本気で疑った。
「……自由な、国柄だったんだな」
意図したわけではないが、皮肉のようになってしまったリオンの呟きを、話術に長けたメイドが巧みに聞き出すエレーレの詳細を知らされているユルリラは、淡々と訂正する。
「いえ、年間、過労で死亡する者が世界認識を受けるほど絶えない、真面目で勤勉な国民性のようですよ。ちなみに、世界有数の経済大国で、貴族制度などのない民主主義の国だそうで。まあ、問題も多かったようですが」
意味が分からない。
権力によって虐げられているわけでも、労働を強制されているわけでもないのに、百九十カ国中上位の経済力を持つ国で、どうして過労死する国民がそこまでいるのか。
難しいからという理由で、あっさりと文字をこねくり回して新たな字にする自由な民とは思えない。当時の貴族と聖職者だけが特別だったなら、その字が現在でも使われているということはないはずだ。
これが異文化コミュニケーションか。カルチャーショックか。
「…………うちのメイドは、有能だな」
よくもまあ、字の成り立ちから政治にいたるまで聞き出したものだと、リオンは思考を逸らした。
「ところで、殿下。ルミネッサ殿下が現在、どちらにいらっしゃるかご存知ですか?」
唐突に変わった話題に、リオンは眉を跳ねさせ、ユルリラに視線を向ける。
「最後に把握していた時は、チェネレントラにいたと思うが」
「はい、チェネレントラで満足いくまで『滞在』なされた後、イーディケにお立ち寄りになり、ご帰還するとのお手紙が先ほど届きました」
「イーディケ? フリーデリケまで足を伸ばしていたのか。チェネレントラの次はアッシェンプトラ辺りに寄るかと思ったが、そうか、帰ってくるのか……時期が悪いな」
難しい顔をして、リオンは弟、ルミネッサの帰還に頷いた。
「恐らくは、殿下の異変に『感付いた』のかと」
「……弟としてはかわいいが、時々恐ろしいな」
ぐちゃり、と熟れた桃を握りつぶしたような音と共に、カユデの木々が風に揺らされ、ざあざあと騒ぎ出す。
「あああああああ、どうして僕の邪魔をするのかなァァ? このまま真っ直ぐ歩けば一直線でベルンカルトに行けるんだよ。一歩だって揺らがず歩くことが最短距離なんだよォォ。それなのにそれなのにお前みたいな下等生物が僕の進路を邪魔したせいでえ三歩も左にずれてしまったァァァ!」
所々、声が外れて、ノイズや音割れのように聞き苦しい叫びを上げる少年は、長い柄の先端に、拳ほどの鉄球がついた杖で、自身に襲い掛かってきた猪に似た魔物を打ち据える。
ぐちゃり。
フルスイングされた杖は、魔物の肉に容易く食い込み、魔物を抉り払う。
悲鳴を上げて魔物が逃走しようとするが、そこにまた一撃、二撃、執拗に振り下ろされる杖は、魔物が残骸と呼べるものに変わるまで止まることがなかった。
「あー……あー……無駄にィ時間食っちゃいましたァァ……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………行かなきゃ。
――待っててねェ、リオン兄さァァァァん!」
響々とカユデの木々を、ルミネッサという名を持つ少年の哄笑が縫い渡った。




