第九十八話 懐かしい音色
夜の森の中。
木々の隙間から見える空には、いくつもの星が瞬いていた。
昼間のうちにセリナを無事に村へ送り届けたラグナたちは、その後もしばらく森の中を歩き、日が暮れる前に少し開けた場所を見つけて野営の準備を整えていた。
積み上げた薪の中央では、焚き火が静かに燃えている。
ぱちぱちと薪が爆ぜる音。
夜風に揺れる木々の音。
その中へ。
ぽろん。
柔らかな音色が加わった。
エルが焚き火のそばに座り、膝の上に置いたハープへ指を滑らせている。
森の静けさを邪魔することなく、夜の中へ溶けていくような穏やかな旋律。
ラグナは剣の手入れをしながら、その音を聞いていた。
リオンも焚き火の向こう側で膝を抱えながら、静かに耳を傾けている。
「……なんだか、懐かしいね」
ふいにリオンが呟いた。
ラグナが顔を上げる。
「懐かしい?」
「こうやって森の中で野宿をして、エルのハープを聞いていると、旅を始めた頃を思い出すよ」
「……そうだな」
言われてみれば何度もあった。
森の中、焚き火を囲みエルがハープを奏でる。
まだ旅を始めたばかりの頃から、ずっと変わらず傍にあった音だった。
「私も分かります」
ルミナスも頷く。
「ラグナたちと旅を始めてから、何度も聞きました」
「でしょ?」
演奏を続けながら、エルが得意そうに笑う。
「旅にあたしの演奏は欠かせないんだから」
「自分で言うんですね」
「いいじゃない、本当なんだから」
エルが頬を膨らませる。
そんなやり取りに、小さな笑いが生まれた。
その少し隣では、ライカが静かにエルを見つめていた。
ライカにとって、この光景は懐かしいものではない。
海底神殿には焚き火などなかった。
木々も、夜空も、こうして誰かと音楽を聞きながら過ごす夜も。
ライカが外の世界へ出てから知ったものだった。
けれど、不思議と落ち着く。
焚き火の暖かさ。
ハープの音。
時折聞こえるラグナたちの声。
ライカは膝を抱えながら静かにハープの音へ耳を傾ける。
ぽろん。
ぽろろん。
音が、夜の森へ流れていく。
エルは目を閉じた。
指先が弦の上を優しく滑る。
やがて、最後の一音が静かに響いた。
余韻が木々の間へ消えていく。
その時だった。
ガサッ。
背後の茂みが揺れた。
ラグナは剣を握る手に力が入る。
ルミナスもすぐに立ち上がった。
エルもハープを抱き寄せ。
リオンは胸元のロザリオへ手を添える。
ライカも音のした方を見る。
「誰だ?」
ラグナが声を掛ける。
もう一度。
ガサッ。
茂みが揺れて、一人の女性が姿を現した。
「驚かせてしまって、ごめんなさいね」
柔らかな声だった。
長い茶色の髪。
旅人らしい服装。
そして、背中には一つのリュートを背負っている。
女性は警戒する一行を見て、申し訳なさそうに笑った。
「とても良い音色が聴こえたものだから、つい来ちゃったの」
敵意はない。
ラグナは女性を見つめながら、ゆっくりと剣から手を離した。
その時。
「……っ」
リオンだけが、僅かに息を呑んだ。
ロザリオを握る指に力が入る。
何かが違う。
目の前にいる女性。
姿は人間と何も変わらない。
けれど、リオンには分かった。
「あなた……」
リオンが声を出しかけた。
その瞬間女性と目が合う。
女性は少しだけ目を細めた。
そして、そっと人差し指を唇へ当てた。
声には出さない。
けれど、その仕草が意味することははっきりと分かった。
リオンは目を見開く。
女性は、柔らかく微笑んでいた。
少し迷ってからリオンはロザリオから手を離す。
何も言わなかった。
「……?」
ラグナがリオンを見る。
「どうした?」
「……いや」
リオンは小さく首を横に振った。
「何でもないよ」
ラグナは少し不思議そうな顔をしたものの、それ以上は聞かなかった。
そんな中、エルは女性の姿をじっと見ていた。
茶色の長い髪。
柔らかな声。
背中のリュート。
そして、何よりその顔。
「あれ?」
エルが立ち上がる。
「もしかして……」
女性も、ようやくエルをしっかりと見る。
最初は誰だろうと考えるような顔。
けれど、エルが抱えているハープを見た瞬間その目が大きく開いた。
「……そのハープ」
エルが笑う。
女性も、少しずつ嬉しそうな表情になった。
「もしかして、狩人の村の子かしら?」
「やっぱり!」
エルが声を上げる。
「レイラ!」
「エル!」
レイラは嬉しそうに笑った。
「まあ……!」
近付いてくるエルを見ながら、レイラは何度も瞬きをする。
「大きくなったわねぇ」
「何年ぶりだと思ってるのよ!」
「ふふ、それもそうね」
エルは嬉しそうに笑っている。
ラグナたちは、突然始まった再会に少しだけ置いていかれていた。
「……知り合いなのか?」
ラグナが尋ねる。
「うん!」
エルは振り返る。
そして、大切そうにハープを抱えた。
「あたしに歌を教えてくれた人」
少し間を置いて。
「それに、このハープをくれた人よ」
「え?」
リオンがレイラを見る。
エルから何度か聞いたことがあった。
昔、狩人の村へやってきた吟遊詩人。
歌を教え、ハープを託した人。
まさかこんな場所で出会うとは思わなかった。
レイラは一行へ向き直る。
「初めまして」
軽く頭を下げた。
「レイラといいます」
「旅をしながら歌を奏でたり、楽器を作ったりしているの」
「楽器も作るんですか?」
ルミナスが興味深そうに聞く。
「ええ」
レイラは背負っていたリュートを示す。
「これも自分で作ったのよ」
「すごいですね……」
ルミナスが目を輝かせる。
その隣で、エルが自分のハープを差し出した。
「ちゃんと持ってるわよ」
レイラは懐かしそうにハープを見つめた。
「……まだ持っていてくれたのね」
「当たり前でしょ」
エルは笑う。
「ずっと一緒よ」
その言葉にレイラは目を細めた。
ハープの木枠、弦。
長い旅を共にしてきた跡。
それでも、大切に扱われてきたことが分かる。
「嬉しい」
レイラは本当に嬉しそうに言った。
そして、エルを見る。
「それに」
「なに?」
「随分、優しい音を奏でるようになったのね」
エルが目を瞬かせる。
「昔と違う?」
「ええ」
レイラは頷いた。
「昔はもっと、自分が楽しいから弾いている音だったわ」
「それはそれで、とても素敵だったけれど」
焚き火の周りにいる者たちを見る。
ラグナ。
リオン。
ルミナス。
ライカ。
そして、もう一度。
エルへ。
「今は、誰かと一緒にいることを楽しんでいる音がする」
エルは、少しだけ照れくさそうにハープを見る。
「……そうかな」
「そうよ」
レイラは笑った。
ライカは、二人の会話を静かに聞いていた。
するとレイラがライカへ視線を向ける。
「あなたも、さっきの演奏を聞いていたの?」
突然話を振られ、ライカは少しだけ目を丸くする。
それから頷いた。
「うん」
「エルの音、好き」
エルがぱっとライカを見る。
「本当?」
「うん」
「落ち着く」
エルの顔が嬉しそうに緩む。
レイラはそんな二人を見て、どこか感慨深そうに微笑んだ。
けれど、それ以上は何も言わなかった。
「せっかくだから」
レイラは背中からリュートを下ろす。
「私も一曲、混ざっていいかしら?」
「もちろん!」
エルはすぐに答えた。
二人が焚き火を挟んで座る。
ハープと、リュート。
エルが最初の音を奏で。
少し遅れてレイラの音が重なる。
ぽろん。
柔らかな音。
そこへ、少し低く温かな弦の響き。
二つの音が夜の森へ流れていく。
ライカは、静かに耳を澄ませた。
一つだけでも綺麗だった音が二つになる。
互いを邪魔することなく、違う音のまま一つの曲になっている。
ラグナも、剣を置き演奏を聞いていた。
リオンも静かに耳を傾ける。
ただ、時折レイラを見る。
焚き火の向こうで、楽しそうにリュートを奏でる女性。
なぜ彼女がここにいるのか。
聞きたいことはいくつもあった。
けれど、今は何も言わない。
隣でエルが楽しそうに笑っていたから。
やがて演奏が終わり、森に静けさが戻った。
「楽しかったぁ!」
エルが大きく息を吐く。
「ふふ、私も」
レイラもリュートを抱えながら笑った。
そして、何かを思い出したように顔を上げる。
「そうだ」
「ここから少し歩いたところに、小さな小屋があるの」
「小屋?」
「ええ。最近はそこで楽器を作っているのよ」
エルの目が輝く。
「楽器を!?」
「良かったら、明日寄っていかない?」
「行く!」
即答だった。
ラグナが苦笑する。
「エル、まだ誰も返事してないぞ」
「いいじゃない!」
「どうせ急ぐ旅でもないでしょ?」
「まあ……そうだけど」
「決まり!」
勝手に話を進めるエルを見てリオンが笑う。
ルミナスも楽しそうに頷いた。
ライカは、よく分かっていないながらも嬉しそうなエルを見て、小さく笑っていた。
その夜、レイラも一緒に焚き火のそばで夜を過ごすことになった。
久しぶりに会った二人の話はなかなか尽きなかった。
エルが旅の出来事を話し、レイラが楽しそうに聞く。
時折笑い声が森へ響く。
その様子を、ラグナたちは穏やかに眺めていた。
やがて、夜は更けていく。
焚き火の炎も少しずつ小さくなっていった。
翌朝、森へ差し込む朝の光の中。
ラグナたちは荷物をまとめていた。
「こっちよ」
レイラが先頭を歩く。
そのすぐ隣には、エル。
昨日からずっと楽しそうだった。
「どんな楽器作ってるの?」
「色々よ」
「ハープも?」
「もちろん」
「見たい!」
「ふふ、そんなに急がなくても逃げないわよ」
二人の会話を聞きながら。
ラグナたちは森の中を歩いていく。
「良かったね、エル」
リオンが呟く。
「そうだな」
ラグナも笑った。
ライカも二人の背中を見つめていた。
懐かしい人とまた会える。
昨日、セリナと交わした言葉を少しだけ思い出す。
『また会おうね』
その意味を、今。
目の前の二人が見せているような気がした。
森の奥。
木々の向こうに、小さな屋根が見えてくる。
レイラが振り返った。
「見えてきたわ」
エルが嬉しそうに前を見る。
旅の途中、偶然聞こえた一つの音が繋いだ懐かしい再会。
そして、ラグナたちはまだ知らない。
この小さな小屋で、エルがかつて受け取った音楽に込められた願いを知ることになる。




