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第九十九話 音に託した願い

 森の中。

 木々の間に建つ小さな小屋。

 レイラに案内されて中へ入ったエルは、すぐに目を輝かせた。


「すごい……!」


 決して広い小屋ではない。


 けれど壁際には、大小様々な楽器が並べられていた。


 完成したリュート。

 まだ弦の張られていないハープ。

 削りかけの木材。


 作業台の上には細かな工具が置かれ、その横には何種類もの弦が綺麗にまとめられている。


 壁には設計図らしき紙まで貼られていた。


 旅人の寝床というより、小さな楽器工房。

 そんな言葉が似合う場所だった。


「全部、レイラが作ったの?」


 エルは次々と楽器を眺めていく。


「ええ。まだ作りかけのものも多いけれどね」


「これも?」


「それは失敗作」


「こっちは?」


「そっちは調整中ね」


「じゃあ、これは?」


「エル」


 ラグナが呆れたように声を掛ける。


「少し落ち着け」


「だって!」


 エルは振り返る。


「こんなの見たら気になるでしょ!」


「まあ、気持ちは分かるけどな」


 リオンが笑う。


「エルらしいね」


 ルミナスも小屋の中を興味深そうに見回していた。


「これほど多くの楽器を一人で作っているのですか?」


「好きでやっているだけよ」


 レイラは笑った。


 その少し後ろでは、ライカも珍しそうに楽器を眺めていた。


 見たことのない形。

 見たことのない道具。


 けれど、その中に一つだけ。

 よく知っている形がある。


 ライカはエルの抱えているハープを見る。


「エルのと、同じ」


「そうね」


 レイラが頷く。


「エルのハープも、私が作ったものだから」


 ライカは納得したように頷いた。


 エルは自分のハープを見下ろす。


 そして、ふと何かを思い出したように顔を上げた。


「そうだ」


「レイラに聞きたいことがあったの」


「なにかしら?」


 エルはハープを両手で持ち直した。


「このハープのこと」


 レイラの視線がハープへ向かう。


 エルは弦へ指を添える。


「このハープで演奏すると、魔物が眠るの」


 レイラの表情が止まった。


「……やっぱり」


「え?」


 小さく呟いた言葉を、エルは聞き逃さなかった。


「やっぱりって?」


 レイラはしばらく黙っていた。


 それから懐かしそうに目を細める。


「噂を聞いたことがあるのよ」


「噂?」


「少女の奏でる音楽が、魔物を眠らせるって」


 エルが目を丸くする。


「それ、あたしのこと?」


「名前までは知らなかったわ」


 レイラは微笑む。


「でも、もしかしたらって思っていた」


 エルはもう一度ハープを見る。


「じゃあ、やっぱりこのハープって特別なの?」


「いいえ」


 返事は思っていたよりも早かった。


 エルが顔を上げる。


「……違うの?」


「違うのよ」


 レイラは首を横に振った。


「特別な素材を使っているわけでもないし、魔法を込めたわけでもない」


「私にも、そんな特別な力はないわ」


 エルはますます分からないという顔になる。


「でも、魔物は眠るわよ?」


「そうね」


「じゃあ、なんで?」


 レイラは、すぐには答えなかった。


 エルの持つハープを静かに見つめる。


「エル」


「あなた、初めて私と会った日のことを覚えている?」


「もちろん」


 エルは頷いた。


「村にレイラが来て、歌を教えてくれた」


「そう」


 レイラは懐かしそうに笑う。


「あの頃の私は、旅先で出会った子どもに音楽を教えることが時々あったの」


「だから、あなたに音楽を教えたことも、最初は特別なことではなかった」


 エルは黙って聞いている。


「あの日も、ただ楽しかったのよ」


「初めて楽器に触れるあなたが、楽しそうに音を奏でているのを見ることが」


 そこで。


 レイラの表情が少し変わった。


「あの光景を見るまでは」


「……光景?」


「動物たちよ」


 エルの目が大きくなる。


 幼い頃の記憶。


 初めて教わった音楽。


 夢中で奏でているうちに。


 一匹。


 また一匹。


 森から動物たちが姿を現した。


 鳥、小さな獣、様々な生き物が音へ耳を傾けるように自分の周りへ集まってきた。


「あの時、思ったの」


 レイラは窓の外を見る。


「音楽なら、言葉の通じない相手とも繋がれるんじゃないかって」


 エルは。


 静かにレイラを見る。


「人間だけじゃない」


「動物と出来るなら」


 少しだけ。


 言葉を止める。


「もしかしたら、魔物とも」


「魔族とも」


「音楽なら繋がれるかもしれない」


 ライカが僅かに顔を上げた。


 レイラは続ける。


「ずっと心のどこかにあった夢だった」


「でも、人間と魔族が争うのが当たり前の世界で、そんなことを本気で考えたことなんてなかった」


「無理だと思っていたのかもしれないわね」


 レイラはエルを見る。


「あの日のあなたが、思い出させてくれたの」


 そして、ハープを見る。


「だから、あなたへ渡すハープを作った」


 エルの指が木枠を優しく撫でる。


「……じゃあ」


「この中に、その願いを?」


「込めた、と言ったら少し違うかもしれないわね」


 レイラは笑った。


「魔法を使ったわけではないもの」


「ただ、そんな未来が来たらいいと思いながら作った」


 それだけ。


 本当にそれだけだった。


「じゃあ……」


 エルは呟く。


「あたしが魔物を眠らせられるのは、どうして?」


「それは」


 レイラは、今度はエルを見る。


「あなたが、同じ願いを持っていたからじゃないかしら」


 エルは目を瞬かせる。


「同じ?」


「傷付けたくないのでしょう?」


 エルの表情が少しだけ変わった。


「魔物も」


「誰かも」


「出来るなら、傷付けずに済ませたい」


 レイラの言葉に、エルはゆっくりと頷いた。


「あたし……狩人になれなかったから」


 小さく。


 弦へ触れる。


「獲物を傷付けるのが、どうしても嫌だった」


「旅に出てからも同じ」


「魔物に襲われたら怖いし、みんなを守らなきゃって思う」


「でも」


 エルはハープを抱く。


「出来るなら、倒したくない」


 レイラは静かに微笑んだ。


「きっと、それなのよ」


「私が願いながら作ったハープと」


「あなたの願いが偶然、同じ場所で重なった」


「だから」


 レイラは少し考えて。


「奇跡が起きた」


 小屋の中が。


 静かになる。


「……奇跡」


 エルが呟く。


「ええ」


「私が同じハープを使っても、きっと魔物は眠らない」


「あなたが私の作ったものではない楽器を奏でても、同じことは起こらないでしょうね」


「私にも、あなたにも、特別な力なんてない」


 レイラは優しく笑った。


「でも、二つの願いが重なった時だけ」


「少しだけ、この世界が応えてくれたのかもしれないわね」


 エルは自分のハープを見つめていた。

 ずっと旅を共にしてきた楽器。


 魔物を眠らせる。


 不思議なハープ。


 その力の理由は、魔法でも、特別な才能でもなかった。


 誰かの願いと。


 自分の願い。


 ただそれだけだった。


「……なんか」


 エルが笑う。


「レイラらしい」


「そう?」


「うん」


 ハープを大切そうに抱く。


「あたし、このハープもっと好きになったわ」


「……ありがとう」


 レイラの目が嬉しそうに細められた。


 その時。


「レイラさん」


 声を掛けたのはリオンだった。


 レイラが振り返る。


 リオンは昨日からずっと胸の奥に残っていた疑問を、ようやく口にする。


「一つ、聞いてもいいですか?」


 レイラはしばらくリオンを見る。

 そして、小さく笑った。


「昨日は黙っていてくれてありがとう」


 エルが二人を見る。


「何の話?」


「ごめんなさいね」


 レイラはエルを見る。


「久しぶりに会えたあなたが、あまりにも嬉しそうだったから」


「もう少しだけ、普通に再会を喜びたかったの」


「……レイラ?」


 レイラは静かに息を吐いた。


 そして。


 言った。


「私ね」


「もう、死んでいるの」


 エルの表情が。


 止まった。


「……え?」


 誰も声を出さなかった。


 ラグナも。


 ルミナスも。


 ライカも。


 ただ。


 レイラを見る。


 リオンだけが静かに目を伏せていた。


「昨日、あなたには分かってしまったみたいね」


 レイラがリオンを見る。


「……はい」


 リオンは小さく頷く。


 エルはレイラを見る。


「どういう……こと?」


 レイラは、困ったように笑った。


「そのままの意味よ」


「あなたと出会った時の私は、生きていた」


「ハープを渡した時も、その後も普通の人間だった」


 レイラは。


 窓の外へ視線を向けた。


「あなたと別れた後、私は夢中になった」


「もっと楽器を作った」


「もっと色々な場所で演奏した」


「いつか本当に、音楽で魔物や魔族とも繋がれるかもしれないと思って」


 そして、ある日のこと。


 森の中で。


 複数の魔族を見つけた。


「向こうは、私に気付いていなかった」


「怖かったわ」


「逃げようとも思った」


 それでも。


 レイラはリュートを手に取った。


「やってみたかったの」


「もしかしたら、届くかもしれないって」


 震える指で。


 弦を奏でた。


 歌った。


 やがて、魔族たちが気付いた。


「不思議そうに私を見ていた」


「それでも、静かに私の演奏を聞いてくれていたの」


 レイラは少し笑う。


「嬉しかった」


「届いたって思ったの」


 でも。


 魔族たちの表情は、突然変わった。


 恐怖。


 驚き。


 そして。


 逃げていった。


「……駄目だったんだって思った」


「私には出来なかったんだって」


「それで」


 レイラは。


 静かに続ける。


「後ろを振り返った」


 そこにいた。


 大きな魔物。


 自分へ襲い掛かる姿。


「覚えているのは、そこまで」


 レイラは。


 自分の手を見る。


「次に気付いた時には」


「私は、こうなっていた」


 誰もすぐには言葉を出せなかった。


 エルは、ハープを握っている。


「……じゃあ」


 震える声。


「ずっと……」


「ええ」


 レイラは頷く。


「死霊として、この世界にいる」


「どうして……」


 エルが俯く。


「どうして、残ってたの?」


 レイラは。


 少し考えた。


「未練があったから」


 一つ。


「自分には出来なかったという想い」


 もう一つ。


「ハープを渡した女の子に、もう一度会いたかった」


 エルの目に、涙が浮かぶ。


 そして。


 最後。


「音楽で救われた世界を」


 レイラは笑った。


「見てみたかった」


 エルは。


 唇を噛む。


「……じゃあ」


 顔を上げる。


「まだ、いなくならないでよ」


 レイラが目を丸くする。


「あたし」


 涙を拭う。


「まだ旅の途中だし」


「魔族の友達だって出来た」


 エルはライカを見る。


 ライカも静かにエルを見ている。


「これからもっと色んな場所で演奏する」


「だから」


 ハープを抱き締める。


「ちゃんと見ててよね」


 レイラは、しばらく何も言わなかった。


 やがて優しく笑った。


「……ええ」


「楽しみにしてる」


 その日の夜。


 小屋の前。


 焚き火のそばで、二つの音が重なった。


 エルのハープ。


 レイラのリュート。


 違う楽器。


 違う音。


 けれど一つの曲。


 ラグナたちは静かに聞いていた。


 ライカもその音へ耳を傾けている。


 レイラは、演奏しながらそんな光景を見つめていた。


 人間。


 魔族。


 同じ場所で同じ音を聞いている。


 まだ小さな光景。

 夢見た世界には遠い。


 それでも、レイラは嬉しそうにリュートを奏で続けた。



 夜更け。

 小屋の中では、皆が眠っていた。


 外では。


 小さな明かりの下、ラグナが一人剣の手入れをしている。

 布で刃を拭う。

 傷がないか確かめる。


 いつもの夜。


 そこへ足音が近付いた。


「少し、いいかしら?」


 ラグナが顔を上げる。


 レイラだった。


「ああ」


 レイラは。


 ラグナの近くへ腰を下ろす。


 しばらく二人とも何も言わなかった。


 夜の森。


 虫の声。


 時折。


 風が木々を揺らす。


「エルには」


 レイラが口を開く。


「言わなかったことがあるの」


 ラグナは。


 剣を拭いながら聞いている。


「私の音楽では、どうして奇跡が起こらなかったのか」


「ずっと考えていた」


「本当の理由なんて、きっと誰にも分からない」


「でも」


 レイラは。


 自分の手を見る。


「あの日の私は、怖かった」


「魔物が」


「魔族が」


「……自分が傷付くことが」


 ラグナの手が僅かに止まる。


「エルだって、きっと怖いと思う」


「でも」


 レイラは小屋を見る。


 その中で。


 エルが眠っている。


「あの子は、自分が傷付くことより」


「誰かを傷付けることの方が、ずっと怖いのよ」


 ラグナは。


 黙って聞いていた。


「優しい子でしょう?」


「……ああ」


 レイラは笑う。


 けれど、その笑顔には僅かな不安があった。


「だから、怖いの」


「エルはきっと誰かを傷付けずに済むのなら」


「自分が傷付く方を選んでしまう」


「それが危ないことだと、自分でも気付かないまま」


 ラグナは手元の剣を見る。


 守るために握ってきた剣。

 傷付けるためではなく、守るために使うと決めたもの。


 レイラが。


 ラグナを見る。


「お願い」


「エルのこと」


「守ってあげて」


 ラグナは、顔を上げた。


 迷うことなく、いつものように短く答える。


「ああ」


「任せろ」


 そして。


 再び剣へ視線を落とす。


「まぁ……言われなくても、そのつもりだけどな」


 レイラは少しだけ目を丸くした。


 やがて安心したように笑った。


「……そう」


 夜の森に静かな音が響く。

 刃を拭う小さな音。


 昼間、エルとレイラが奏でていたものとは。

 全く違う音。


 それでも。


 その剣にもまた一つの願いが込められていた。

 誰かを傷付けるためではなく。

 大切なものを守るために。


 レイラは何も言わず、その音を聞いていた。

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