第百話 共に生きるために
夕日に染まる砂漠の空を、一頭の飛竜が飛んでいた。
大きな翼が風を受けるたび、その身体は広い空を滑るように進んでいく。
眼下に広がるのはどこまでも続く砂の大地。
その先、少しずつ見慣れた街並みが見えてきた。
砂漠の中央に広がる巨大なオアシス。
その水を囲むように建てられた、いくつもの建物。
南方の地、ユリウス領。
飛竜の背に跨がっていたユーリは、遠くに見える街を静かに見つめていた。
少し前まで、何度見ても変わらないと思っていた景色だった。
自分が育った街。
魔族が暮らし人間が働く街。
人間と魔族が共に存在している。
だから、この街は二つの種族が共存している場所なのだと思っていた。
けれど今は違う。
同じ景色なのに、まるで違って見えた。
「戻ったぞ」
前に座るユリウスが言った。
「はい」
ユーリは短く答える。
飛竜が大きく旋回する。
やがて宮殿へ向かって高度を下げていった。
ユリウスが魔王から呼び出しを受けた。
その事実は既に街中へ知らされていた。
南方領主が、直々に魔王城へ呼び出された。
何があったのか。
何を話したのか。
街の者たちは領主の帰還を待っていた。
飛竜が宮殿の中庭へ降り立つ。
翼が巻き起こした風が、砂埃を舞い上げる。
その先では側近たちが待っていた。
「ユリウス様」
「お帰りなさいませ」
ユリウスは飛竜から降りる。
その後にユーリも続いた。
「すぐに皆を集めろ」
ユリウスは歩きながら告げる。
「話がある」
側近の魔族たちが顔を見合わせる。
「……承知いたしました」
その日、南方の街に。
一つの命令が出された。
それは、長く続いてきたこの街の在り方を。
根底から変えるものだった。
最初に行われたのは、奴隷市場にいる人間たちの解放だった。
これまで夜になれば街の裏側に黒い檻が並んでいた。
その中に人間が入れられている。
値段を付けられ、魔族が品定めをする。
誰もそれを不思議には思わなかった。
この街では、ずっと続いてきた光景だったから。
だが。
その日、全ての檻が開けられた。
「宮殿が……?」
奴隷商人の魔族が困惑した声を上げる。
「全員を買い取るだと?」
「領主様の命令だ」
宮殿から派遣された者たちは。
次々と人間たちを引き取っていった。
子ども、若者、老人。
男、女。
そこに区別はなかった。
全員、一人残らず宮殿へ連れて行かれた。
広間には大勢の人間が集まっていた。
突然の出来事に、誰もが不安そうな顔をしている。
これから何をされるのか。
今度は宮殿に買われた。
そう考えている者もいた。
そんな人間たちへ宮殿に仕える者たちが、一人ずつ声を掛けていく。
「故郷はどこですか?」
「……え?」
「帰ることを望むのであれば、帰郷の手配をします」
すぐには答えられなかった。
「帰って……いいのか?」
「はい」
別の場所では、一人の女性が尋ねられていた。
「今後、どうしたいですか?」
「どう……って」
「この街に残ることを望むのであれば、仕事を探すことも出来ます」
「働く……?」
「もちろん、報酬は支払われます」
女性は、信じられないものを見るように目の前の者を見つめた。
帰りたい者。
この街へ残りたい者。
故郷が分からない者。
帰る場所を失った者。
事情は一人一人違った。
だから一人ずつ聞いた。
これからどうしたいのか。
そのために、宮殿は出来る限りの手配を始めた。
当然、全てが順調に進んだわけではない。
「冗談じゃない!」
一人の魔族が声を荒らげる。
「私が金を払って買った人間だぞ!」
「返せと言われて、はいそうですかと渡せるものか!」
別の場所でも、怒声が響く。
「人間に報酬を払えだと!?」
「今まで通りで何が悪い!」
「領主様は魔王城で何を吹き込まれてきたんだ!」
反発。
困惑。
怒り。
街の至るところで声が上がった。
それでも、命令は撤回されなかった。
新たに人間を奴隷とすることを禁ずる。
人間へ首輪を付けることを禁ずる。
人間を働かせる場合、その労働に見合う報酬を支払うこと。
適切な休息を与えること。
そして、これまで人間に課されていた。
もう一つの決まり。
魔族と人間が並んで街を歩くことを禁ずる。
その決まりも廃止された。
人間はもう、魔族の後ろを歩く必要はない。
道の端へ避ける必要もない。
主人と奴隷として、距離を取る必要もない。
同じ街に暮らす者として、隣を歩くことが認められた。
それは、命令一つで。
すぐに当たり前になるものではなかった。
長く染み付いた習慣。
考え方。
恐怖。
人間にも、魔族にも。
簡単に消えるものではない。
それでも。
街は、確かに変わり始めた。
宮殿の中も朝から慌ただしかった。
「こちらの者は故郷へ帰ることを希望しています」
「護衛を手配しろ」
「こちらは街へ残ることを希望していますが、仕事が決まっておりません」
「商業区へ確認を」
「ユリウス様、奴隷を所有していた者たちから抗議が」
「後で私が話を聞く」
「それから……」
次から次へ、報告が届く。
ユリウスはその全てに目を通していた。
ユーリも隣で動き続ける。
側近の魔族たち。
宮殿に仕えてきた人間たち。
誰もが慣れない仕事に追われていた。
今までなら必要のなかった仕事。
人間の希望を聞く。
働く場所を探す。
報酬を決める。
帰郷の手段を用意する。
新しい決まりを街中へ知らせる。
全て、今までとは違う。
「……こんなにも」
一人の側近が。
山のように積まれた書類を見ながら呟いた。
「大変なものなのですね」
ユーリが顔を上げる。
「何が?」
「変えるということが、です」
ユーリは、少しだけ考える。
そして。
笑った。
「そうだね」
きっと、これからの方が大変なのだろう。
命令を出すだけなら一日で出来る。
けれど、それを当たり前にするには。
何日。
何年。
どれほどの時間が必要になるのか分からない。
それでも、始めなければ何も変わらない。
やがて窓から差し込んでいた日差しが、少しずつ赤く染まっていった。
ユリウスが机から顔を上げる。
「……時間か」
ユーリも窓を見る。
「はい」
二人には。
最後に行かなければならない場所があった。
採掘場。
空は既に暗くなり始めていた。
岩山の間、大きく口を開けた坑道。
その前には大勢の人間たちが集まっていた。
これまで、そこで働かされてきた者たち。
誰もが不安そうな顔をしている。
街で起きていることは既に聞いていた。
奴隷市場がなくなる。
首輪が禁止される。
人間にも報酬が支払われる。
なら、自分たちはどうなるのか。
採掘場もなくなるのか。
それとも、何か別のことを命じられるのか。
人々の中に、レンもいた。
ユーリたちが近付くと、視線が一斉に集まる。
ユリウス。
その少し前を歩く。
ユーリ。
ここへ来る直前、二人は話をしていた。
『ユリウス様』
『どうした』
『採掘場のことは、僕に任せてもらえませんか』
ユリウスは、少しだけ驚いた顔をした。
『お前に?』
『はい』
ユーリは頷いた。
『僕から皆に伝えます』
ユリウスは、しばらくユーリを見ていた。
以前なら自分の指示を待っていた。
自分が命じれば、それを疑うことなく受け入れていた。
そんな青年が。
今は、自分からやりたいことを口にしている。
『本当に、お前に任せてよいのだな』
ユーリは迷わなかった。
『はい』
そして、笑った。
『僕がやりたいんです』
長い沈黙の後、ユリウスは頷いた。
『……分かった』
『任せよう』
今。
ユーリは。
採掘場で働いてきた人間たちの前に立っている。
何十もの視線。
少しだけ緊張する。
それでも、逃げなかった。
「皆さんに」
ユーリが口を開く。
「話したいことがあります」
誰も声を出さない。
「今日、この街で奴隷制度を廃止することが決まりました」
ざわめきが起こる。
「皆さんも同じです」
「もう、奴隷としてここで働く必要はありません」
その言葉に、何人かが顔を見合わせる。
「だったら」
誰かが言った。
「この採掘場はどうなるんだ?」
ユーリは静かに息を吸う。
「続けたいと思っています」
ざわめきが大きくなった。
当然だった。
奴隷ではない。
けれど、採掘は続けたい。
矛盾して聞こえる。
「ただ」
ユーリは続ける。
「今までとは違います」
そして、ユーリは魔王城で聞いたことを話し始めた。
魔物のこと、魔族のこと。
宝石のこと。
砂漠に暮らす、強大な魔力を持つ魔物たち。
魔物が死ねばその身体から魔力が溢れ出す。
その魔力は、砂漠の地中に眠る宝石へ宿る。
そして、魔力を宿した宝石を魔族が身に付けることで。
少しずつその魔力を身体へ取り込んでいく。
魔族は、生きているだけでも魔力を消耗する。
宝石はそれを補うために必要なもの。
ただの装飾品ではない。
魔族の命を支えるもの。
そして、魔力が満ちた魔族はやがて命を終え。
魔物になる。
その魔物が死ねば、再び魔力は宝石へ宿る。
魔物。
宝石。
魔族。
そして。
また魔物へ。
命が。
巡っている。
採掘場の人間たちは、誰も声を出さなかった。
今まで知らなかった。
自分たちが掘っていたもの。
運んでいたもの。
それが、何のために使われていたのか。
「でも」
ユーリは続ける。
「この採掘場には、魔族は長く入ることが出来ません」
「たくさんの宝石に宿った魔力は、魔族にとって強すぎるんです」
「魔力は少なすぎても生きていけない」
「けれど、多すぎても身体を壊してしまう」
ユーリは、集まった人々を見る。
「だから」
少しだけ。
声が震える。
「どうしても」
「人間の力が必要なんです」
今までなら命令すればよかった。
掘れ。
運べ。
それだけ。
理由など、話す必要はなかった。
人間は従わせるものだったから。
でも、もう違う。
ユーリは頭を下げた。
深く。
「お願いします」
人々が目を見開く。
「これからも、採掘場で働いてもらえませんか」
「もちろん奴隷としてではありません」
「働いた分の報酬を支払います」
「休息も、生活もこれまでとは変えます」
ユーリは、頭を下げたまま続ける。
「僕たちに」
「皆さんの力を貸してください」
沈黙。
長い。
沈黙だった。
誰もすぐには答えなかった。
当たり前だった。
これまで、奴隷として働かされてきた。
理由も知らされず。
命じられるまま。
宝石を掘ってきた。
突然、今日から自由だと言われ。
そして。
力を貸してほしいと頼まれている。
すぐに答えなど出せるはずがない。
それでも、ユーリは頭を上げなかった。
やがて。
一つの足音がした。
人々の中からレンが前へ出る。
「ユーリ」
ユーリが。
ゆっくりと顔を上げる。
レンは。
しばらく何も言わなかった。
そして。
いつものように笑った。
「なんだ」
ユーリが目を瞬かせる。
「そんなことだったんだね」
「……え?」
レンは。
採掘場を見る。
「宝石が必要なんだろ?」
「魔族が生きるために」
「それで、魔族にはここで掘れない」
「……うん」
「だったら」
レンは。
肩をすくめる。
「僕たちが掘るしかないじゃないか」
ユーリの目が。
大きく見開かれる。
「でも……」
「最初から話してくれればよかったのに」
その言葉に後ろにいた人間たちから、小さな声が上がった。
「本当だよ」
「そんな理由があったのか」
「命に必要だって言われたらなぁ」
「まあ……仕方ないか」
もちろん全員ではない。
黙っている者もいる。
納得出来ない顔をしている者もいる。
もう二度と、ここで働きたくないと思っている者もきっといる。
それでいい。
選べるのだから。
これからは、自分で選べる。
レンがユーリを見る。
「僕は残るよ」
「レン……」
「ちゃんと給料はもらうけどね」
にっと笑う。
ユーリの口元にも。
少しずつ。
笑みが浮かんだ。
「もちろん」
「それから」
レンが続ける。
「ちゃんと休ませてよ」
「明日も働くんだろ?」
「……うん」
ユーリは笑った。
「約束するよ」
その後ろ。
ずっと二人のやり取りを見ていたユリウスが、ゆっくりと前へ出た。
人々の視線が、南方の領主へ集まる。
これまで。
誰もが、その姿を見れば頭を下げた。
逆らうことなど考えもしなかった。
ユリウスは、そんな人間たちの前で足を止める。
「これまでのことを」
静かな声が。
採掘場の前へ響いた。
「許してほしいとは言わぬ」
レンの表情から。
笑みが消える。
ユリウスは続けた。
「お前たちが受けた苦しみは」
「今日、制度を変えたからといって消えるものではない」
「私が」
「この街が」
「お前たちを奴隷として扱ってきた事実も変わらぬ」
ユリウスは。
ユーリを見る。
そして。
採掘場を見る。
最後に。
そこに立つ人間たちを見る。
「それでも」
一度。
息を吸う。
「この街には」
「お前たちの力が必要だ」
そして。
南方領主ユリウスは。
人間たちへ。
深く。
頭を下げた。
「これからは」
「奴隷としてではなく」
「共にこの地で生きる者として」
「力を貸してほしい」
誰も。
声を出さなかった。
日暮れの橙の陽に染まる砂漠。
採掘場の入口。
そこに。
頭を下げる領主の姿があった。
何百年と続いてきたものが、一日で変わることなどない。
明日になればまた反発があるだろう。
争いも。
混乱も。
きっと起こる。
今日決めたことが本当に正しかったのか。
迷う日も来るかもしれない。
それでも。
命令する者と。
従う者。
その関係は。
今日。
終わり始めた。
ユーリは。
頭を下げるユリウスを見つめる。
そして、隣へ並んだ。
同じようにもう一度頭を下げる。
人間と。
魔族。
その間に首輪はない。
命令もない。
ただ、言葉があった。
お願いする者がいて。
それを聞く者がいる。
そこから始めればいい。
世界は、まだ変わっていない。
それでも。
確かに変わり始めていた。




