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第百一話 帰る場所

 朝の森に二つの音が響いていた。

 ハープ、そしてリュート。


 昨日と同じようにエルとレイラが並んで座り、最後の曲を奏でている。

 柔らかな音色が重なり合い、朝露の残る森へと流れていく。


 ラグナたちは少し離れたところで、その演奏を聞いていた。

 やがて最後の音が消える。


 エルはしばらく弦へ指を置いたまま動かなかった。

 そしてゆっくりと顔を上げる。


「……そろそろ、行くね」


 レイラは微笑んだ。


「ええ」


「あなたには、まだ旅があるものね」


 エルはハープを抱える。


 昨日、この楽器に込められた願いを知った。

 魔法でもない、特別な力でもない。


 レイラの願いと、自分の願い。

 二つが重なって生まれた奇跡。


 今までと同じハープなのに。

 腕の中にあるそれが、少しだけ違って感じられた。


「また会いに来るから」


「楽しみにしているわ」


「約束だからね」


「ええ。約束」


 エルは笑った。


 レイラも笑う。


 今度の別れはかつてとは違う。


 あの頃のエルは再び会えるかも分からないまま、レイラを見送った。

 けれど今は違う。

 どこにいるか知っている。


 そして、また会える。


「それじゃあ」


 ラグナが声を掛ける。


「世話になった」


「こちらこそ」


 レイラは一行を見渡した。


 リオン、ルミナス、ライカ。


 そして。


 最後にラグナを見る。


 昨夜、二人だけで交わした言葉を思い出す。

 けれどそれを口にすることはなかった。


 ただ小さく笑う。


「良い旅を」


「ああ」


 ラグナはいつものように短く答えた。


 一行はレイラの小屋を後にした。


 しばらく歩いてからエルが振り返る。


 木々の向こう。

 小さくなった小屋の前で、レイラが手を振っていた。


 エルも大きく手を振り返した。


「またねー!」


 その声が、朝の森へ響いた。





 森の中を一行は歩いていた。

 木漏れ日が足元を照らしている。


「さて」


 ラグナが周囲を見る。


「これからどうするか」


 そう言われて一行は足を止めた。


 ユリウス領を出て、セリナを無事に両親のもとへ送り届けた。

 そして、偶然再会したレイラとも別れた。

 今のところ急いで向かわなければならない場所はない。


「久しぶりね」


 エルが言う。


「こういうの」


「こういうの?」


 リオンが聞き返す。


「次に行く場所が決まってないの」


「ああ」


 ラグナも頷く。


 思えば。


 ここしばらくは、ずっと何かを追いかけるように旅をしていた。


 海底神殿。


 谷底の村。


 ユリウス領。


 そしてセリナを故郷へ帰す旅。


 気が付けば、随分と遠くまで来ていた。


「どこか行きたいところはありますか?」


 ルミナスが尋ねる。


「そうだなぁ」


 ラグナが考える。


 その少し後ろ。


 ライカは話へ加わっていなかった。


 両手に一つのものを持っている。

 深海色の真珠が嵌められた、古いブローチ。


 ライカはそれをじっと見つめていた。


 指先で、真珠の周囲にある金具へ触れる。


 押してみる。

 少し引く。

 けれど、動かない。


 その様子にルミナスが気付いた。


「ライカ、どうかしましたか?」


 ライカが顔を上げる。


「……これ」


 ブローチを見せる。


「取れない」


「取れない?」


 皆の視線がブローチへ集まった。


 エルが首を傾げる。


「リリアナの刻?」


「うん」


 ライカは頷く。


 そして、もう一度真珠の周囲へ指を掛けた。


「毎晩、外そうとしてる」


「毎晩?」


 ラグナが少し驚く。


「水をあげた後」


 ライカは真剣な顔で言う。


「ずっとやってる」


 知らなかった。


 夜。


 ラグナが剣を手入れしている隣で。

 ライカはリリアナの刻へ水を与え、布で丁寧に磨いていた。


 その後、一人でブローチから刻を外そうとしていたらしい。


「でも」


 ライカが少し困ったようにブローチを見る。


「全然、取れない」


 リオンがブローチを覗き込む。


「かなり長い間、この状態だったんだよね?」


「うん」


 何百年とユリウスの一族によって、領主の証として受け継がれてきた。

 リリアナの刻は、ずっとこのブローチに嵌められたままだった。


「金具が固くなってるのかもしれないね」


 リオンが言う。


「無理に外そうとすると、刻の方を傷付けるかもしれない」


 その言葉を聞いた瞬間。


 ライカは。


 ブローチの金具に込めていた力を抜いた。


「それは、だめ」


「うん。だから無理に触らない方がいいと思う」


「こういうのって」


 エルが考える。


「装飾品を扱ってるお店とかに持っていったらいいんじゃない?」


「宝石を扱っている職人なら、外し方も分かるかもしれませんね」


 ルミナスも頷く。


「そっか」


 エルが笑う。


「じゃあ、次の街で探してみよっか」


「……知らない人に?」


 ライカが呟いた。


「え?」


 ライカはブローチを両手で包む。


「これを」


 胸元へ。


 大切そうに抱える。


「知らない人に、渡すの?」


 エルの表情が変わった。


「あ……」


 誰もすぐには答えなかった。


 当然だった。

 これはただの宝石ではない。

 どれほど高価な宝石よりも、ライカにとっては大切なもの。


 何百年。


 ずっと探し続けた大切な人。


 リリアナ。


 ようやく自分の手へ戻ってきた。


 それを、名前も知らない誰かへ預ける。

 簡単に出来るはずがない。


「そうだね」


 リオンが柔らかく言う。


「無理に知らない人へ預けなくてもいいと思う」


「でも」


 エルがブローチを見る。


「このままってわけにもいかないわよね」


「……うん」


 ライカが頷く。


 ラグナは腕を組む。


 金属を扱える。

 細かな作業も出来る。


 何より、絶対に信用出来る人。


 しばらく考えて。


 ふと、一人の顔が浮かんだ。


「……いるな」


 皆がラグナを見る。


「誰?」


 エルが尋ねる。


「ガルド」


「あ」


 エルが声を上げる。


 リオンもすぐに気付いた。


「ガルドさんか」


「確か鍛冶屋でしたね」


 ルミナスも頷く。


「ガルドって前に言ってた人?」


「ああ」


 ラグナは頷く。


「俺を育ててくれた人だ」


 まだライカが海底神殿から出る前。


 剣の手入れをするラグナが話していたのを思い出す。


「……リリアナみたいな人?」


 ラグナは目を瞬かせた。


「いや」


 すぐに答える。


「多分、全然違う」


「?」


 ライカは不思議そうに首を傾げた。


「でも」


 ラグナは続ける。


「信用出来る」


 ライカは、胸元のブローチを見る。

 そして少し考えてから頷いた。


「じゃあ」


「会ってみたい」


 行き先は決まった。





 それから数日。


 一行は森を抜け、街道を歩いた。

 途中小さな町へ立ち寄り、食料を補充する。


 夜になれば焚き火を囲んだ。


 エルがハープを奏で、リオンとルミナスが話す。


 ライカは、いつものようにリリアナの刻へ水を与えた。

 外そうとはしなかった。


 無理をして傷付けてしまわないように。


 ラグナは、その隣で剣を手入れする。


 旅は続き少しずつ景色が変わっていった。


「……懐かしいな」


 ラグナが呟く。


 見覚えのある道。

 見覚えのある森。

 遠くに見える山の形。


 何度も歩いた場所。

 ここを通って、街へ買い出しにも行った。

 修行のため森へ入ったこともある。


「もうすぐですか?」


 ルミナスが聞く。


「ああ」


 ラグナは少しだけ笑った。


「もうすぐだ」


 ライカはそんなラグナの横顔を見る。

 いつもと少し違う。

 知らない場所へ向かう時とは違う。


 足取り、視線。


 ラグナはこの場所を知っている。


「ここ」


 ライカが言う。


「ラグナがいたところ?」


「ああ」


「十年くらいな」


 ライカは周囲を見る。


 木々、道、遠くの山。

 特別なものがあるようには見えない。

 けれど、一つ一つ覚えるように眺めていた。


 やがて森を抜ける。

 その先に、小さな村が見えた。


 畑、家々、道を歩く人々。

 煙突から上がる煙。


 ラグナは足を止める。


 しばらくその景色を見る。


「……帰ってきたな」


 エルが笑った。


「久しぶりね」


「うん」


 リオンも懐かしそうに村を見る。


 ルミナスも、以前訪れた場所を思い出すように静かに眺めていた。


 そして、ライカだけが初めて見るラグナの帰る場所。


「行こう」


 ラグナが歩き出した。





 村の中を進み、一行は一軒の建物の前で足を止めた。


 金属を打つ音。

 規則正しい重い音。

 鍛冶場。


 ラグナは迷うことなく中へ入る。


「ガルド」


 金属を打つ音が止まった。


 奥にいた男がゆっくりと振り返る。


 大きな身体、無精髭。


 鋭い目。


 手には使い込まれた槌。


 ガルドはラグナを見る。

 そして、その後ろを見る。


 リオン、エル、ルミナス。

 そこまでは知っている。


 そして、最後。


 黒い髪、黒い服の見たことのない少女。


「…………」


 ガルドの眉間に深い皺が寄った。


「ただいま」


 ラグナが言う。


「……おう」


 ガルドは、もう一度ライカを見る。


「ラグナ」


「ん?」


「あいつはなんだ」


「ライカ」


「名前を聞いてんじゃねぇ」


 エルが小さく吹き出した。


「仲間だ」


 ラグナはそれだけ答える。


 ガルドは黙った。


 白い肌、人間と同じ形の小さな耳。

 見た目だけなら、人間と大きく変わらない。


 けれど違う。


 長く生きてきた経験が、目の前の少女が人間ではないと告げていた。


「……魔族か」


「ああ」


「そうか」


 それだけ。


 ガルドはそれ以上聞かなかった。


 どこで出会ったのか。

 何者なのか。

 なぜ連れてきたのか。


 そんなことは何も聞かない。


 ラグナが仲間だと言った。

 なら、今はそれでいい。


 一方。


 ライカはガルドをじっと見ていた。


 頭、顔、身体、服。

 手に持っている槌。

 煙草の匂い。


 そして、鍛冶場。


「……なんだ」


 ガルドが訝しげにライカを見る。


 ライカは、しばらく考えて言った。


「リリアナと違う……」


「…………は?」


 ラグナが額へ手を当てる。


「だから言っただろ」


「全然違うって」


「……全部違う」


「そりゃそうだ」


 エルは。


 もう我慢出来なかった。


「ふふっ……!」


「何がおかしい」


「ご、ごめんなさい」


 リオンも口元に手を当てている。


 ルミナスだけが、どう反応すればいいのか分からない様子で皆を見ていた。


 ガルドは深くため息を吐く。


「……まあいい」


 そしてラグナを見る。


「で」


「何しに戻ってきた」


 ラグナの表情が少しだけ変わった。


「ああ」


「ガルド」


 一歩前へ出る。


「頼みがある」


 その言葉に。


 ライカが胸元へ手を伸ばした。

 深海色の真珠が嵌められた古いブローチを、両手で持ちガルドへ見せる。


 ガルドは受け取らなかった。

 その場でじっと観察する。


 細工、金属、宝石を固定している金具。

 僅かな傷。


 長い年月、何人もの手へ渡ってきた痕跡。


「……随分古い細工だな」


 ガルドが呟く。


 ラグナはブローチを指す。


「その真珠を」


「ブローチから外してほしい」


 そして続けた。


「傷一つ付けずに」


 ガルドの表情が険しくなった。

 少し腰を屈め、さらに細かく見る。


 けれど、やはり触らない。


 しばらくして身体を起こす。


「……こういうのは専門に持ってった方がいい」


 ラグナを見る。


「俺の専門じゃねぇのは分かるだろ?」


「ああ」


 ラグナはすぐに頷いた。


 ガルドは鍛冶屋だ。


 剣、槍、農具。

 金属を扱う技術はある。


 けれど、宝石細工を専門としているわけではない。


「これだけ古いもんだ」


 ガルドは続ける。


「金具もどうなってるか分からねぇ」


「下手に触って傷付けるくらいなら、専門の職人を探せ」


 それは、断るための言葉ではなかった。

 大切なものだと一目で分かったから。


 だからこそ、自分よりもっと相応しい者へ預けろと言っている。


「分かってる」


 ラグナは答える。


「でも」


「ガルドに頼みたい」


 ガルドが眉を寄せる。


「なんでだ」


 ラグナは、ライカを見る。


 答えたのはライカだった。


「これは」


 ブローチを胸元へ寄せる。


「リリアナの刻」


 ガルドは何も言わない。


「刻は」


「わたしたちの、命そのもの」


 ライカの指が、自身の深海色の真珠へ触れる。


「リリアナは」


 少しだけ言葉が止まる。


 何百年、探し続けた人。

 自分を育ててくれた、大切な人。


「わたしの、大切な人」


 ガルドの視線が真珠へ向かう。


 それがただの宝石ではない。

 ようやく理解する。


「だから」


 ライカはブローチを握る。


「知らない人には」


「預けられない」


 そしてガルドを見る。


「ラグナが」


「ガルドなら大丈夫って言ったから」


 ガルドの目が僅かに動いた。


 ライカは、ガルドを知らない。


 今日初めて会った。

 どんな人間なのか、何も知らない。


 それでもラグナが信じている。

 だから信じようとしている。


 ガルドはラグナを見る。


 ラグナは何も言わなかった。

 ただ、真っ直ぐにガルドを見つめている。


 長い沈黙。


 やがて、ガルドは小さく息を吐いた。


「……分かった」


 手を出す。


「預かる」


 ライカはブローチを見る。


 差し出そうとする。

 けれど、その手が止まった。


 深海色の真珠。


 ようやく戻ってきた。

 ずっと、ずっと会いたかった。


 何百年も、どこにいるのかさえ分からなかった。

 やっと自分の手へ戻ってきた。


 毎日水を与えた。

 丁寧に磨いた。


 夜も、ずっと大事に抱えていた。

 それを今から自分の手から離す。


 ライカの指がブローチを握る。

 誰も急かさなかった。


 ガルドは、黙って手を差し出している。


 ラグナも何も言わない。

 ただ、隣にいる。


 ライカは、深海色の真珠をもう一度見つめた。

 そして、ゆっくりと手を伸ばす。


 ガルドの掌へ、ブローチを置いた。


 指が離れる。

 少しだけ、名残惜しそうにその手を見つめる。


 ガルドは、受け取ったブローチを慎重に持ち上げた。

 先ほどまでとは見る目が違っていた。


 古い宝飾品ではない。


 一人の命。

 目の前の少女にとって、かけがえのないもの。


「しばらく時間は掛かる」


 ガルドが言う。


「急いで傷付けちまったら意味がねぇ」


 ライカは静かに聞いている。


 ガルドは手元の深海色の真珠を見る。


 そして、ライカへ視線を戻した。


「だが」


 低い声。


 いつもと変わらない、ぶっきらぼうな声。


「傷一つ付けねぇよ」


 ライカは目を瞬かせた。

 そして、小さく頷く。


「……うん」


 もう一度、ガルドの手の中にあるリリアナの刻を見る。


「お願い」


 ガルドは、何も答えず工房の奥へ向かった。


 ライカは、その背中をしばらく見つめていた。


 寂しくないわけではない。

 不安が、全くないわけでもない。


 それでも、自分で預けると決めた。

 ラグナが信じる人を、自分も信じてみようと思った。


 初めて訪れたラグナの帰る場所で。


 ライカは、自分の一番大切なものを一人の人間へ託した。


挿絵(By みてみん)


 ラグナたちが鍛冶場を離れて、少し経った頃。


 一人の村人がガルドを訪ねた。


「ガルド」


「なんだ」


 工房の奥からガルドの声が返ってくる。


「……ラグナが魔族連れて帰ってきてるぞ」


「見りゃ分かる」


「いいのか?」


 ガルドは作業の手を止めなかった。


「あいつが仲間だって言ってんだろ」


 その声に、迷いはなかった。


「……まあ、そうだけどよ」


「ならいい」


 村人の疑念はすぐには消えない。


 それでも、信じる想いは少しずつ。


 本当に少しずつ変化を広げていく。

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